2020年7月27日月曜日

「自伝を読む」を読んで


斎藤孝著 2014年 筑摩書房
 本書は、世界の14人の人物の自伝をとりあげ、一人の教育者として、自伝を読むことの重要性を訴えています。著者によれば、本は人格であり、そこに著者のメッセージがありとすれば、「自伝」というのは、著者の魂を結晶させた、まさに本の中の本であり、それを読むことこそ読者の醍醐味である、ということです。
 本書では、日本や欧米でよく知られた人物だけでなく、高峰秀子「私の渡世日記」、藤子不二雄A「まんが道」、古今亭志ん生「なめくじ艦隊」、石光真人「ある明治の記録-会津人柴五郎の遺書」など、多種多彩な人々の自伝のエッセンスが記されており、大変興味深く読むことができました。ここでは、これらの人々のうち二人のエピソードを紹介します。  
 高峰秀子は、私にはお嬢様俳優のように見えるのですが、自伝を読むと彼女の役者根性の凄まじさを感じます。彼女が杉村春子の演技に接したときについて次のように述べています。「うめいた。「これこそ演技だ! 私が求めて、見たこともなかった芝居がここにあった。チキショー! 誰だお前は。いったい、どこのどいつなんだ! 」「同じ演技を売るなら、これほどの演技を売らねば俳優ではない」と、私は思った。」こうした向上心の一つ一つが、文化の発展に大きな役割を果たしてきたのでしょう。
 柴五郎は会津藩の出身で、その後帝国軍人として、日本国家に大きな貢献をしますが、彼には秘めた思いがありした。教科書的には、明治維新は薩長軍による幕府軍の打倒によって達成され、会津などは抵抗勢力として歴史から抹消されていく運命にありました。しかし、薩長軍が東北地方で行った行為は傍若無人であり、柴は死の直前までその悔しさを胸に秘めていました。「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙先立ちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり」「悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献じるは血を吐く思いなり。」


2020年7月26日日曜日

「ベトナム戦争と私」を読んで


 石川文洋著 2020年、朝日新聞出版
筆者は、長年ベトナム戦争を撮り続けてきた写真家・ジャーナリストで、多分私も過去に、筆者の写真や文章を見たことがあるだろうと思います。私の世代の青春時代はベトナム戦争とともにあり、新聞には毎日「ベトコン」「北爆」「エスカレート」という言葉が躍っていました。
報道という観点から見た場合、ベトナム戦争は稀有な例です。どの国のジャーナリストだろうと、また戦争に批判的なジャーナリストだろうと、アメリカは彼らの取材活動に便宜を払い、自由に取材し報道させました。アメリカは、この戦いが自由と民主主義のための戦いだと信じており、この戦争を世界に知らせたいと思っていました。そのため、この戦争は戦争報道にとって画期的な意味をもっていました。しかし結果的には、多くの報道によりこの戦争の醜さを、世界に拡散することになります。今日でもアメリカは、ジャーナリストによる取材を歓迎していますが、それでもベトナム戦争時代に比べれば、相当制限していると思います。
「拷問を受けたり殺されたりする青年をカメラマンは何故、止めないで撮影していたのか」「傷ついた子を前に嘆く親に向かって、どうして何枚もシャッターが切れるのか」。筆者は、こうした疑問をしばしば投げかけられたそうです。実は、私もそう思っていました。これに対して、筆者はこう答えます。「可哀そうだからこそ、何枚もシャッターを切ったのである。傷ついた子供、親の悲しみ、そしてそのような状況つくりだしたアメリカ政府、村を攻撃した米軍への怒りがシャッターを押させる。もし、被害者たちが嫌がったら続けてシャッターは押せない。撮る方、撮れらる方の間に暗黙の了解があって成立したと思っている。写真には私の気持ちが表れている。」
いずれにしてもヴェトナムは、ジャーナリストやカメラマンにとっても、大きな試練だったのだと思います。

2020年7月25日土曜日

「こうして歴史問題はねつ造される」を読んで


有馬哲夫著、2017年、慎重新書
 「古事記」「日本書記」以来、歴史のねつ造は世の常であり、ねつ造をいかにして正すかは、歴史家の主要な役割の一つです。「歴史=記述された歴史」には当然多くの誤りがあり、歴史家の人となりも歴史書に反映されるでしょうから、絶対的な歴史などありえません。「100人の歴史家がいれば、100の歴史が生まれる」とさえ言われます。ただ、ここで問題となっているのは、意図的にねつ造された歴史としての南京大虐殺と朝鮮の従軍慰安婦問題です。
 著者は、このよう事実がなかったというのではなく、資料を駆使して、これらについての歴史記述がねつ造されていることを証明します。もちろん私には、その証明が正しいかどうかを証明する術がありませんが、概ね筋は通っているように思われます。また著者は、戦後の日本の歴史観を自虐的歴史観と主張します。このことについては、以前から言われており、筆者はこのような歴史観が生まれた背景を説明しています。ただ、自虐的歴史観の中で育ってきた私としては、筆者の主張は理解できるものの、私が学んだ歴史が、それ程間違っているとは思っていません。
 ところで、このような自虐史観を修正しようとする人は、悪意をもって歴史修正主義者と呼ばれ、筆者もしばしばそのように呼ばれるそうです。しかし本書の内容は概ね筋が通っており、筆者がこれをプロパガンダのために書いたとは思えません。むしろこうした研究による誤った歴史の修正は必要であり、納得できる形で全体像が記述されることを願います。ただ、こうした研究は、歴史修正主義者と非難されることよりも、右派の人々によって利用される危険性があります。事実よりもイデオロギーを重視する人々は、どんなことでもプロパガンダに利用する傾向があるからです。

2020年7月24日金曜日

「キューバ現代史」を読んで


 後藤政子著 2016年 明石書店
 キューバ現代史といえば、カストロの歴史そのものであり、彼は本書が出版された2016年に死亡しました。私たちの世代にとってカストロは、毛沢東やホー・チ・ミンなどともに英雄でしたが、彼らの実像が明らかになるにつれ、その英雄像は色あせていきました。そうした中で、カストロは半世紀以上カリスマ性を維持した稀有な例のように思われます。
 カストロについての評価は大きく分かれます。カストロを英雄視し崇拝する人々から、カストロを嫌悪し激しく非難する人まで多様で、両極端の人々の多くは政治的立場に左右されていると思います。本書は、客観的にカストロを描いていますが、それでも幾分カストロに好意的に描いているように思われます。この点については私も同様ですが、私の場合はたいした根拠はなく、青春時代の感覚を引きずっているだけです。
 キューバは、アメリカの裏庭とまでいわれたカリブ海の小国であり、アメリカによって厳しい経済制裁を受け続けながら、なお生き延びているということは、驚くべきことのように思われます。キューバにとっての保護者ともいうべきソ連の崩壊は厳しい試練でした。しかしキューバは中国と接近することで、苦境を乗り切ります。アメリカにとって、アメリカの独壇場ともいうべき中南米に中国が入り込むことは不愉快でしたが、多極化する世界情勢には逆らえず、オバマ大統領の時、アメリカはキューバと国交を回復します。こうしてキューバに新しい時代が訪れるかに思われ、また同時に貧富の差の拡大が深刻な問題となることが予想され、本書はここで終わっています。しかしトランプ大統領は、再びキューバに厳しい態度をとるようになります。オバマ大統領による国交回復は英断でしたが、アメリカ国民にはキューバに対する根強い反感がありますので、今後アメリカとキューバの関係がどのようになるのか、私には予測できません。


2020年7月23日木曜日

「哀しみのダルフール」を読んで


ハリマ・バシール&ダミアン・ルイス著 2008年、真喜志順子訳、PHP研究所、2010年。ハリマ・バシールというスーダンの女性がジェノサイトに遭遇してイギリスに亡命し、そこでダミアン・ルイスという高名な作家・映画監督の協力を得て、本書を執筆しました。したがって本書に書かれている非道な出来事は、すべて事実です。










 「スーダン」とは、アラビア語で「黒い人」を意味し、アフリカ北部を支配するアラブ人から見て、南の「黒い人」といった意味で、広い意味ではアフリカ東部から西部を指していたようですが、ここで問題となるのはエジプト南部のスーダンです。この地域では、アラブ系イスラーム教徒、非アラブ系イスラーム教徒、イスラーム教徒でもアラブ語を使用しない人々、伝統宗教を維持する人々などが混在していました。問題の発端は、19世紀末にヨーロッパ列強がアフリカ大陸を分割し、彼らの都合で境界線を引き、結果的にその多くが今日の国境となったため、一つの地域に複数の民族が混在したり、一つの民族が複数の国に分断されるという事態は、アフリカでは恒常的です。その結果、ある民族が他の民族を絶滅させるというジェノサイトが起きますが、これについては、このブログの「映画でアフリカを観る ルワンダの涙」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/blog-post_7359.html)を参照して下さい。
 この物語の主人公ハリマは、1979年にダルフールで非アラブ系として生まれ、大変気が強く、また頭がよく、町の学校に通い、やがて大学の医学部に入って医師となります。彼女が語るダルフールの農村での生活や学校生活についての記述は、大変興味深いものですが、すでにこの時代には子供たちの間にさえ、アラブ系と非アラブ系の対立が随所に見られました。そして2003年にアラブ系の民兵組織が大規模な殺戮を開始し、2010年までの間に40万人が虐殺され、250万人が難民となったとされます。この間の彼女の生活は惨めで厳しいものでした。レイプされ、拷問され、お尋ね者となってチャドの難民キャンプに逃げ込み、さらにイギリスに渡ってマスコミにダルフールの実情を語ります。
  罪なき人々が死んでいく。食べる物も飲む物もない人々。家を失い、路上で、草むらの中で暮らす人々。砂漠で道に迷い、飢えと渇きによって、戦争の犠牲となって死んでいく。なぜ? 彼らが何をしたというのだろう? 何もしていないではないか。誰もがもっているはずの人間愛に思いをいたすべきだ。もしあなたが、彼らと同じ目に遭ったら、それを受け入れられるだろうか? もしあなたの家族が同じ目に遭ったら、それを受け入れられるだろうか?
  イスラーム社会はどこにあるのか? アラブ世界はどこにあるのか? 世界中の人々はどこにいるのか? イスラーム教徒が何の理由もなく、同じイスラーム教徒をどうして殺せるのか。これは神が禁じられたことだ。神は言われた。「正当な理由と権利無くして、命を奪ってはならない。」だが彼らは、権利も、正当な理由もなく、命を奪っている。
  ダルフールは世界から分離されていない。スーダンは世界から孤立してはいない。だが人々は、このような犯罪を止めさせる力があるのに、ただ、立ちすくんで眺めていただけだ。状況を政治的に捉えるべきでない。なぜなら犠牲となっているのは、罪なき人たちだからである。彼らは何も悪いことをしていないのに殺されているのだ。彼らが何をしたのか? 
  わたしは自分がそれをくぐり抜けた生存者の一人、生き延びた人々の一人だと思った。そして世界にメッセージを送るために、罪なき人なき人々が死んでいることを世界中に知らせるために、神は私を選ばれたのだろう。世界は彼らを守り、助けの手をさしのべてくれるかもしれない。


2020年7月22日水曜日

「地質学者ナウマン伝」を読んで


矢島道子著、朝日新聞出版、2019
 明治政府は、西欧の学問を学ぶため、日本人を欧米に留学させるとともに、欧米人をお雇い学者として、日本に招聘しました。ナウマンはドイツの地質学者で、1875年(明治8年)に日本についた時、彼はまた二十歳でした。彼を含むドイツ人お雇い学者の宿舎は、加賀屋敷におかれましたが、この加賀屋敷の遺物としては、今日の東京大学の赤門が有名です。










 日本における彼の最大の功績の一つは、東北日本と西南日本の境目となる地帯中央地溝帯(フォッサマグナ)を発見したことで、富士山をこの上もなく愛したナウマンが、富士山をさまざまな角度から観察する過程でこの地溝帯を発見したとされます。これを含めて、彼の研究は日本の地質学の発展に決定的な影響を及ぼしました。ただ、ナウマンについて広く知られているのは、彼の命名によるナウマン象です。横須賀や浜松などで発見された象の化石が、日本の固有種であるとして、大変話題になりました。
 ナウマンは、日本の地質学の発展に大いに寄与したことは間違いありませんが、それにも関わらず彼の功績は日本ではあまり語られません。本書よれば、その原因の一つは、森鴎外によるナウマン批判にあるそうです。当時ドイツに留学していた森鴎外は、たまたま帰国していたナウマンが日本を侮辱するようなことを言ったとして批判しました。ナウマンの真意がどこにあったのか知りませんが、森鴎外は日本を代表する文豪ですので、日本ではナウマンに対する批判的な世論が生まれたとのことです。
 本書で説明されている地質学についての説明はよく分かりませんでしたが、明治のお雇い学者やナウマンについて、詳しく知ることができました。

2020年7月21日火曜日

「青年渋沢栄一の欧州体験」を読んで

泉三郎著、2011年、祥伝社
渋沢栄一の業績はあまりに多岐にわたり、何を主要な業績といってよいのか分かりませんが、銀行の設立や多数の株式会社の設立などの業績から、2024年から彼の肖像が1万円札に使用されることになっています。かれについては、このブログの「映画で明治を観て 獅子の時代」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/08/blog-post_20.html)を参照して下さい。本書には渋沢栄一の洋行時代が詳しく述べられています。
渋沢栄一は、豪農とはいえ農民身分に生まれます。彼は幼い時から優秀で、文武に優れ、当時の身分制度の矛盾に憤り、尊王攘夷と討幕を唱えるようになります。やがて彼の有能さから一橋家で登用され、武士の身分が与えられます。一橋公慶喜は聡明な人物で、若い栄一のそうした態度を、面白がっていたようです。ところが問題が起きました。慶喜が将軍になってしまい、栄一からすれば慶喜が討幕の対象となってしまったのです。こうした事態に悶々としていた栄一に、助け船が出されました。幕府は1867年のパリ万国博覧会に参加することになっていましたが、渋沢も随員としてこれに同行することが許されたのです。
本書は、渋沢の欧州体験を中心に述べています。渋沢は、欧州のあらゆることに感心を抱き、あらゆることを貪欲に学びましたが、特に関心を抱いたのは、単なる知識ではなく、欧州の社会の特色でした。もともと渋沢は幕府を頂点とする身分制度に対する批判から、尊王攘夷を唱えるようになりました。ところが欧州に行くと、日本では商人が武士と交渉する際土下座しますが、欧州では商人も政治家も対等に話をします。その違いは何か。彼はこの相違を生み出すものの一つが株式会社だと考えます。彼が帰国するころには、尊王攘夷の思想は、跡形もなく消え去っていました。
大きな夢をもって渋沢は帰国しますが、帰国した時幕府は消滅し、慶喜は蟄居の身にありました。渋沢は幕臣でしたから、逮捕・投獄の危険があり、密かに帰国し、恩義ある慶喜のもとで働いていました。しかし彼の有能さは広く知れ渡っており、明治政府から招かれ、拒否した場合には慶喜を罰すると脅されて、新政府のもとで働くことになります。そこでも彼は有能さを発揮しますが、かれはもともと政治より民業に関心が強く、以後1931年に92歳で逝去するまで、500以上の企業を設立したとされますが、三菱や三井のように決して財閥を形成することはありませんでした。また渋沢は、社会貢献活動にも熱心で、何度もノーベル平和賞の候補にもなっています。

このような渋沢を生み出したのが、洋行の経験だったことは、間違いありません。洋行が渋沢のすべてを変えてしまいました。