2014年10月27日月曜日

生姜と里芋




















生姜を収穫しました。2年続けて失敗したのですが、ことしは沢山獲れました。しかし、こんなに沢山の生姜をどうやって食べたらいいのでしょうか。当面、酢漬け、塩漬け、蜂蜜漬けなどで保存するしかないですね。





















里芋が豊作でした。里芋は、根元に悪性腫瘍のように張り付いており、そこからリンパ腺のように四方八方に根が伸びていて、かなり不気味です。こんな風に想像するのは、私だけでしょうか。
 なお、今年はホウレン草と小松菜が虫に食われて、食べる前になくなってしまいました。




















2014年10月24日金曜日

カリブ海を読む

 書棚にあったカリブ海世界に関する本をまとめて読みました。その中で印象に残った本を何冊か紹介します。

カリブ海世界

岩塚道子編 1991年 世界思想社
 本書は、何人かの若手研究者(当時)の論文を編纂したもののようで、私自身カリブ海についての知識が非常に少なかったため、非常に参考になりました。そしてカリブ海が実に多様であることを学びました。




























 そもそも「カリブ」とは、16世紀にヨーロッパ人が到来した頃、この地域で優勢な勢力がカリブ人だったわけです。カリブ人は、彼らの先住民であるアラワク人なども含めて、アマゾン川の流域から、小アンティル諸島を渡って移動してきたようです。ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下してきた人々が、アマゾン川流域から北上してカリブ海に至ったわけですから、人間の移動範囲の広さには驚かされます。
 カリブ族は、1415世紀頃先住民のアラワク族の土地を占領しながら、カリブ海に進出していったようです。進出してきたカリブ人は、どうも男だけだったようで、アラワク族の女性を誘拐して妻とし、子供を産ませます。子供は成長するまで母と暮らすのでアラワク語を話しますが、男子は成長すると父のグループに入るのでカリブ語を話すようになります。完全に二重言語状態ですが、両言語はしだいに融合していったようです。ところがそこへ、スペイン人、フランス人、イギリス人、多様な言語を話すアフリカ人が入り込みますので、言語構成が極めて複雑になってしまったようです。
 
 また、ハイチに残る口承文芸は大変興味深いものです。「ブキとマリス、自分たちの母親を売る」という話があります。
  飢饉の真っ只中のある日、マリスがブキに母親を市場で売ろうと提案しました。ブキは最初躊躇しましたが、母親を売ることにしました。約束した日に母親を市場に連れて行こうとしましたが、母親が嫌がったため、首に紐を巻いて引っ張って行きました。一方マリスは、母親をだまして市場に連れて行きますが、母親はブキが自分の母親を紐でつないで引っ張っているのを見て、逃げ出してしまいます。ブキは母親を売り、そのお金で食料とロバを手に入れます。しかしマリスはブキの目を盗んで食料やロバを隠してしまいます。すべてを失ったと思ったブキは落胆して家に帰り、マリスは盗んだ物を取りにいったのですが、食糧はアリに持ち去られ、ロバも消えていました。一方、ブキの母親は売られた家から逃げ出し、途中で見つけたロバに乗って根性悪のブキの家に戻ってきました。
 この物語の原型は西アフリカの「野兎を主人公とする物語」にあるそうです。そこにはハイエナが登場するそうですが、ハイチの民話における賢く都会的なマリスと獰猛で愚かなブキという二つのキャラクターは、アフリカにおける野兎とハイエナに相当すると考えられます。「ところがアフリカ民話では主役は野兎で、ハイエナはあくまで敵役で、弱い者が知恵を用いて強い者を倒すトリックスター民話の一類型である。これに対してハイチの民話では、……民話の利き手の方向が……ハイエナに相当するブキの方にあるらしい。民話の受容に当たって起こった変容と価値の転換にハイチの人々の……世界像が表現されている……。読み書きもできず、ましてやフランス語もできない、商売の仕方を理解できず社会的経済的に劣等の地位に置かれているためにいつも損ばかりしているが、他人におもねったり利口に立ち回ることができないにもかかわらず、つねに不服従の存在ブキ。このブキとマリスという性格類型は、ハイチの農民の人間理解、すなわち自分たちの農民の仲間に見い出す二つの異なる方向性や態度が投影され、繰り返し伝承されていくうちに豊かな肉付けがなされていった、と考えられる。
 故郷から強引に連れ出され、過酷な労働を強いられるハイチの黒人の間に起こったこのような民話の変容は、心を打たれるものがあります。本書には、その他にも興味深いテーマがたくさん書かれており、カリブ海はさながら民族の移動と混交の実権場のように思われました。

カリブ海の海賊たち

 著者のクリントン・V・ブラックはジャマイカ生まれのロンドン育ちです。翻訳者はまたしても増田義郎氏です。新潮選書、1990年。
 15世紀末のトルデシリャス条約によって、「新大陸」の大半がスペイン領となったため、後発のオランダ・フランス・イギリスなどが不法にスペイン領に入り込むわけです。特に、スペイン本国は植民地に十分な物資を供給する能力がないのに、他国民との貿易を禁じていたため、やがてバッカニアと呼ばれるようになる一群の自由貿易業者が登場し、スペイン支配の手の及ばない所に住みつくようになります。「これにはいろいろな国の人間がいたが、主体はフランス人、イギリス人、オランダ人だった。しかもこの集団はいろいろな種類の人々によって構成されていた―残忍な扱いに耐えかねて逃亡した契約労働者たち、……難破した人たち、脱獄囚、政治上宗教上の難民、そしてあらゆる種類の放浪者たちが、国境を越えて集まったのである。」
 17世紀に入ると、バッカニアはスペイン人に抑圧されると、やがて小さな船にのってスペイン船を襲うようになり、その規模はしだいに拡大するようになります。イギリスは彼らに委任状を与え、彼らの軍事力を利用してスペインと対抗するようになります。17世紀の終わり頃、イギリスがジャマイカ島を獲得し、フランスがエスパニョーラ島を獲得し、そこにそれぞれの基地を建設すると、もはやバッカニアは必要なくなります。こうしてバッカニアの時代は終わりますが、海賊は残りました。特に、イギリスが航海法を制定して、イギリス植民地での貿易をイギリス商船に独占させると、海賊たちはイギリスの北米植民地との密貿易を行うようになります。
 バッカニアはスペイン人しか襲いませんが、海賊は相手かまわず襲います。こうして、18世紀前半に海賊の全盛時代が訪れることになります。これに対して国家も本格的な海軍をもつようになり、積極的に海賊討伐を行うようになったため、18世紀半ばにはカリブ海の海賊は急速に衰退していきます。それでも蒸気船と通信が登場する19世紀半ばまで海賊は存続しますが、もはやかつて勢いを取り戻すことはできませんでした。
 
 本書は、この時代に活躍した10人の海賊を扱っています。なにしろ海賊については、伝説と不確かな資料が入り混じっていますので、どこまでが真実なのかはっきりしません。また、話が面白すぎるため、本当かどうか疑ってしまいます。


ブラック・ジャコバン

本書には、「トゥサン・ルヴェルチュールとハイチ革命」というサブタイトルがついています。著者はCLR・ジェームズで、カリブ海のトリニダード出身で、監訳者は青木芳雄、日本語版は1991年、大村書店出版です。本書の初版は1938年で、その後何度か改定され、私が読んだのは最後の改訂版である1980年版です。
 この本について、400ページを越える大著であり、内容は多岐にわたりますので、一口で感想をのべるのは困難です。ただあえて一口でいえば、久々に読んだ名著だった、ということです。「歴史家は優れたストーリー・テラーでなければならない」というのが、私の恩師の口癖でしたが、まさに本書の著者ジェームズは優れたストーリー・テラーだと思います。これ程大分な本を、まったく飽きることなく読み通すことができました。この本を買ったのは随分前で、長い間本箱で眠らせておくには惜しい本でした。





 ハイチの歴史については、このブログの「グローバル・ヒストリー:第23章 綿織物とパックス・ブリタニカ 付録ハイチの悲劇を参照して下さい。その内容は、「カリブ海からの問い ハイチ革命と近代世界」(浜忠雄 2003年岩波書店 世界歴史選書)に依拠しており、本書も「ブラック・ジャコバン」の強い影響を受けていると思われます。














 トゥサン・ルヴェルチュールの父は西アフリカのある部族の族長でしたが、捕らえられてフランスの植民地サン・ドマング(現ハイチ)に送られて奴隷とされます。トゥサンはそこで生まれますが、農園の管理人が比較的親切な人物で、トゥサンに読み書きを習わせます。トゥサンは非常に有能で、土地の管理を任され、さらに解放されて自らの土地をもつようになります。つまり彼はかなり恵まれた境遇にある黒人でした。
 1789年にフランス革命が勃発し、自由・平等・友愛の「人権宣言」が発布され、翌年にはそれがサン・ドマングにも伝えられました。これにより、サン・ドマングの奴隷は解放されたかに思われましたが、奴隷主は「人権宣言」の受け入れを断固拒否したため、各地で奴隷たちが反乱を起こします。トゥサンもこの反乱に加わり、たちまち頭角を現します。おそらく、フランスで「人権宣言」を起草した人たちは、植民地の奴隷のことまで念頭においていなかったと思いますが、革命が過激化する中で、ジャコバン政府は1794年にフランスの全植民地における奴隷の解放を宣言します。
しかしフランスの政治情勢は刻々と変化し、しだいに保守的となり、ナポレオンが登場すると奴隷解放の撤回が取沙汰されるようになります。また、内部では白人と黒人の対立、黒人とムラート(白人と黒人の混血)の対立があります。さらに、東で国境を接するサント・ドミンゴ(現ドミニカ)を支配するスペインとの対立、フランスと対立するイギリスの動き、サン・ドマングとの通商を求めるアメリカの動向など、複雑な国際関係が展開されます。ハイチは、近代世界システムという欲望の渦の中に放り出されたわけです。著者は、こうした複雑な動向を非常に分かりやすく語っており、著者が並外れたストーリー・テラーであることを証明しています。
 著者は、トゥサンを激賞していますが、2つの欠点をあげています。一つは、彼は寡黙だったため、自分が向かおうとしている道をはっきり示さず、民衆を一つの方向に向けることがでなかったことです。もう一つは、彼はフランス革命の精神を信じ、フランスから離れることができなかったことです。彼は、最後までジャコバン精神の信奉者でした。現実には、トゥサンを捕らえたナポレオンは、トゥサンを処刑すれば奴隷の反発が強まるため、トゥサンを牢獄に閉じ込め、寒さと飢えと拷問で死んでいくのを待ちました。トゥサンには、この冷酷さを信じることができなかったのだと思います。



2014年10月17日金曜日

映画でゲバラを観て

 ゲバラに関する映画を4本観ました。ゲバラは、カストロとともにキューバ革命を指導した人物で、人生を革命にささげ、今でも世界中に彼の崇拝者がたくさんいます。まず、映画について述べる前に、彼の生涯を簡単に述べておきたいと思います。
 ゲバラは、1928年にアルゼンチンの富裕な家庭に生まれました。カストロより2歳年下です。彼の本名は「エルンスト・ゲバラ」ですが、「チェ・ゲバラ」と呼ばれることが多いようです。「チェ」とは、親しみをこめて「おい」とか「お前」という意味で、ゲバラがこれをよく使っていたため、これがゲバラの愛称となり、今では「チェ」といえばゲバラのことを指します。彼は幼少の時から喘息を患っていましたが、ラグビーとかサッカーのような激しいスポーツを好み、当時は「フーセル(激しい男)」というあだ名がついていました。
 1948年にブエノスアイレス大学の医学部に入学し、本来6年の過程を3年で卒業して医師免許を得ました。この間に、半年に及ぶ南米縦断旅行をしているわけですから、彼がいかに秀才だったかが分かります。この頃のアルゼンチンはペロンの独裁体制下にあり、またエヴァ(映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」参照)が死亡します。大学卒業後、ゲバラは、1953年に再び放浪の旅にでます。ボリビアでは1952年に革命が起き、大胆な改革が開始されたばかりで、これにゲバラは非常に感銘を受けます。グァテマラでは、1950年以来大胆な改革が行われており、ゲバラはここで医師としての生活を始めます。この間にペルーから亡命してきた女性活動家に出会い、彼女の影響で社会改革に目覚め、やがて彼女と結婚します。しかし1954年にグァテマラにCIAが介入し政府が転覆されると、失意のうちにメキシコへ亡命し、この頃から本気で武力革命の必要性を考えるようになります。
 1955年にゲバラは、キューバから亡命してきていたカストロに出会い、翌年彼とともにキューバに上陸、喘息に苦しみながらゲリラ戦を展開、59年にキューバ革命を達成します。あの病弱で、繊細で、心優しい青年が、いつの間にか筋金入りの革命家に成長していました。この年ゲバラは、通商使節団とともに日本を訪問し、各地の工場を視察するとともに、広島を訪問して原爆死没者慰霊碑に献花しました。これ以来、キューバでは現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下がとりあげられているとのことです。
 革命後600人に及ぶ旧バティスタ派の人々の処刑を指揮し、これがゲバラの冷酷さの証拠として喧伝されていますが、彼がこうした行動をとった背景には、グァテマラでの苦い経験があったからでしょう。CIAは、反対勢力を武装させて政府を転覆させる、というのが常套手段でしたから、それを未然に防ぐ必要がありました。その後社会主義的な政策を推し進めていきますが、アメリカによる経済封鎖のため経済は好転せず、キューバ危機後は、ゲバラはソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難したためソ連と対立し、政府内でも孤立していきます。

 1965年、ゲバラはカストロ、父母、子供達に手紙を残してキューバを離れ、動乱の続くコンゴで革命の指導を試みますが失敗し、一旦帰国した後、翌年ボリビアに向かいます。ボリビアを選んだ理由は、かつて彼が滞在していた時に行われた改革は潰され、軍事独裁に移行していたこと、またボリビアは地理的に南アメリカの中央にあって多くの国と国境を接しており、革命の拡散に適していたこと、などがあげられます。しかし、ボリビア軍はCIAなどからゲリラ対策の特殊訓練を受けており、さらに、「リヨンの虐殺者」として知られたナチスのバルビーが、ボリビアの軍事顧問となっていました(映画でヒトラーを観て 敵こそ我が友」参照)。こうした中で、ゲバラはしだいに追い詰められ、1967年に捕らえられて射殺されました。

ゲバラは、一方で世界中に紛争をまき散らすと批判されますが、彼の直接行動主義と理想主義は多くの人々の心を捉えました。とくに中南米では彼は絶大な人気があり、さらに第三世界や反米的な若者たちには今も多くの崇拝者がいます。彼の顔をプリントしたTシャツは、現在でも見かけます。












ゲバラの語録から3つだけあげておきます。(ウイキペディアより)
バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ。
  世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。
  もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。
そしてカストロはゲバラを、「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評しました。

モーターサイクル・ダイアリーズ

2004年のイギリス・アメリカによる合作映画ですが、使用される言語はすべてスペイン語です。この映画は、23歳の医学生だったエルンストが、1952年に南米を友人と二人で縦断するという話で、エルンストの日記に基づいて制作された映画です。映画の冒頭で、「これは偉業の物語ではない。同じ大志と夢をもった二つの人生が、しばし並走した物語である。」と述べられます。
友人とはアルベルト・グラナードで、自称放浪化学者、29歳で、夢は30歳までに旅を終えることです。「目的 本でしか知らない南米大陸の探検。旅行計画 4か月で8000キロ走る。方法 行き当たりばったり」ということです。ブエノスアイレスから出発し、まず南部のパタゴニアに入り、チリに入って標高6000メートルのアンデス山脈を越え、そこからマチュピチュを訪問し、さらにペルーのハンセン病療養所に滞在した後、ベネズエラに至ります。実際には12000キロを走破し、7か月以上かかりました。
古いオートバイに大の男が二人乗り、たくさんの荷物を積んで走ります。僅かなお金と食糧しかありません。オートバイは何度も故障し、また転び、よれよれで走って行きます。それは痩馬ロシナンテをともなったドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅のようでした。3000キロ程走ったところでバイクは修理不能なまでに故障し、そこから先はモーターサイクルではなくヒッチハイクとなりました。もしかすると、エルンストの一生はドン・キホーテの物語と同じだったのかもしれません。
 二人はペルーのハンセン病療養所に滞在しますが、ここは女子修道院が運営しており、そこでは患者以外は手袋をはめる規則がありました。しかしハンセン病は接触では感染しません。これは明らかにハンセン病患者に対する差別です。エルンストは、手袋をはめるのを拒否してハンセン病患者と握手し、修道院長を怒らせてしまいます。二人はそこでしばらく働いていましたが、いよいよそこを去る前日、それはエルンストの誕生日でもありましたが、職員たちが盛大に祝ってくれました。ところが、そこには患者たちの姿は見当たりません。病棟は川を隔てた向こう側にあり、ボートも隠されていました。患者たちは隔離されていたのです。エルンストは患者たちと一緒にパーティーをしたいと主張し、危険をおかして対岸まで泳いで渡っていきます。ここに、どんな時にも正義を貫こうとする、後のチェ・ゲバラの面影をみることができます。

 話がそれますが、日本では明治時代にらい()予防法が制定され、その後何度か改定され、ハンセン病患者は隔離され続けました。しかしハンセン病は感染力が弱く、1940年代には治療法が確立された病気でした。しかし日本はらい予防法を廃止せず、この間に患者に対して強制的に断種手術や堕胎手術が行われるなど、きわめて非人道的な政策が行われていました。1958年に国際ハンセン病学会がらい予防法の廃止を勧告しましたが、そのまま維持され、1996年にようやく廃止されました。

 この映画は、さわやかな青春物語です。青春時代には、誰もが荒野を手探りで歩いています。そしてさまざまな障害にぶつかり、さまざまな人に出会い、それらの影響を受けてさまざまな選択を行いつつ自分の道を歩いて行きます。この旅の物語は、まさに青春時代そのものです。そしてエルンストは、この旅を通じて革命への道を突き進んでいくことになります。
 なお、アルベルトは1960年にエルンストによってキューバに招かれ、キューバの医療教育に大きな役割を果たします。そしてこの映画が制作されたとき、彼はまだ生きており、映画の最後に少しだけ顔を出します。


革命戦士ゲバラ

1969年にアメリカで制作された映画です。1969年といえば、ゲバラが殺されてから、まだ2年しか経っていません。
映画は、ゲバラが射殺されたところから始まり、次に1956年にカストロらとともにキューバに上陸する場面に戻ります。初めゲバラは軍医として参加したのですが、しだいに軍事的能力を認められ、やがてカストロは何事につけてもゲバラに相談するようになります。映画では、事実上ゲバラが指揮しているかのようで、ゲバラの側にいるとカストロが間抜けに見えます。アメリカ人は、どうしてもカストロを悪く描きたいようです。
革命成功後、皆が陽気に浮かれている時も、ゲバラは陰気な顔をして元政府派の人々の処刑を認可する書類にサインをし続けます。ここでは冷酷なゲバラが描き出されています。要するに過激な政策はほとんどゲバラの指示によるもので、ソ連のミサイル基地建設を望んだのもゲバラということになっています。やがて彼はキューバに飽きたらず、世界革命を目指して外国で戦うことを決意します。カストロは懸命にゲバラを引き留めますが、結局ゲバラはキューバを去ります。
ボリビアでは苦戦を強いられます。すでに50年代の革命で土地を手に入れていた農民は革命に関心がなく、ボリビア共産党は協力を拒み、さらにCIAによって対ゲリラ戦を訓練された軍隊は手ごわく、結局1967年に捕らえられ殺害されました。「ゲバラは生きている」という伝説が残ると厄介なので、軍は遺体を見世物にし、証拠として両手首を切り落として埋葬します。そして映画は最後に、ゲバラ殺害についてCIAは一切関わっていないと主張しますが、実は最初から最後まで関わっていました。
結局、ゲバラは無謀で冷酷な理想主義であるというのが、この映画の主張のようです。なおゲバラの遺体は、1997年にキューバとボリビアの合同捜索隊により発見され、遺族らが居るキューバへ送られて埋葬されました。

チェ 28歳の革命

2008年のアメリカ・フランス・スペインの合作映画です。本来、次に述べる「チェ 39 別れの手紙」を含めて一本の映画だったのですが、上映時間が4時間30分に及ぶため、二本に分割しました。映画は、1955年のメキシコから始まります。メキシコからヨットでキューバに渡り、政府軍の激しい攻撃を受けながら、革命への第一歩を踏み出します。チェ、28歳の時でした。
映画はドキュメンタリー風で、淡々とチェの姿を追います。この映画に冒険物語はありません。初めの2年は軍医として、喘息に苦しみながらも、けが人の治療や村人の治療を行います。兵士は皆ひげをはやし、同じような服を着ているため、はじめはどれがチェなのかよく分かりませんでした。それ程彼は人々に溶け込んで生活をしていたということです。また、彼は兵士たちに読み書きを教えます。革命以前のキューバでは、50%以上が初等教育を受けておらず、60%以上が准文盲でしたので、チェはゲリラの行く先々で教室を開きます。そこには、献身的で心優しいチェの姿を見ることができます。それは「モーターサイクル・ダイアリーズ」でのエルンストであり、ハンセン病患者たちに会うために激流を泳ぎ渡った、ひた向きなエルンストそのものでした。
 革命後、チェは通商を求めて世界各地を訪問し、さらに*国連総会で2度演説をします。このアメリカ訪問時のチェの姿が、何度も途中で挿入されます。今やチェは、キューバのナンバー・ツーであり、世界的に有名人でもありますので、記者会見やインタビューや要人との会見が行われ、それらが映画で再現されています。映画自体は、淡々とチェの行動をおっていますが、挿入されたアメリカでの映像によって彼の思想が語られています。そこでのチェの態度は、気負うことなく、兵士や農民と接するときの態度とまったく同じでした。この挿入部分だけを、あとでまとめてもう一度観てみたいと思います。
 *19641211日、国連総会の演説の一部
  我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
   我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。
特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”
 映画は、とくにチェの英雄的な行為を華々しく取り上げている分けではなく、事実を淡々と描いているだけです。それでも、映画を観終わった後、深い感銘を受けました。それはここで描き出されたチェという人物の人間的な魅力によるものでないでしょうか。主演のデル・トロは、カンヌ映画祭で男優賞を受賞しました。
 なお、アメリカ政府はキューバで撮影することを禁じたため、撮影はスペインやボリビアで行われたそうです。アメリカは、どうしてもキューバを許すことができないようです。

チェ 39 別れの手紙

「チェ 28歳の革命」の続編で、ボリビアでのチェのゲリラ闘争と彼の死を描いています。チェは、ボリビア到着から死の2日前まで、後に「ゲバラ日記」として知られる日記を書いており、この映画はこの日記をもとに制作され、日記風に描かれます。日記は1966年の11月から始まり、処刑される2日前で終わっていますが、映画ではチェがボリビアに着いた19661023日を第1日目とし、チェが捕らえられた109日を341日目、そして翌日処刑されます。チェ、39歳のときでした。ただし、ボリビアには死刑制度がないため、戦闘で死んだということにされます。
 19653月に、チェはカストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残して、密かにキューバを去ります。これがチェの「別れの手紙」です。初めはアフリカのコンゴでゲリラ闘争を指導しますが失敗し、一旦帰国した後1966年にボリビアに向かいます。キューバからチェに従った同志が12人おり、この他にドイツ国籍のタニアという女性諜報員がいます。
チェがキューバを去った理由について、謎ということになっています。カストロと対立してキューバから追い出されたとか、逆にカストロの指示で世界革命のためにキューバを去ったとか、いろいろ取りざたされましたが、彼がカストロに送った「別れの手紙」があり、その内容を疑う理由はありません。もともと彼はキューバ人ではなく、キューバにおける自分の役割は終わったと考えていたようです。「世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。」「すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂(たか)ぶる思いを携えていくだろう。」この言葉は、ハンセン病患者に合うために激流を泳ぎ切ったエルンストの言葉そのものです。
映画は、チェたちの行動を淡々と追っています。そしてしだいに追い詰められていくチェの姿が描き出されています。その過程でもチェは常に冷静であり、仲間をいたわり、村人と優しく接します。そこにあるものは、南米大陸を縦断した時のエルンストの姿でした。多分彼は、何よりも人と人との繋がりを大切にしたのだろうと思います。もしかしたら、チェはこの戦いに勝てないと思っていたのかもしれません。しかし彼が勝つかどうかは重要なことではなく、ここでの戦いが必ず後に引き継がれ、それが全世界に広がっていくと信じていたのだと思います。
 チェの最後の言葉は、自分を殺すために銃撃を躊躇する兵士に向けて、「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」というものだったそうですが、真偽のほどは不明です。後にこの兵士は、目の治療のために第三世界で最も高度な医療を無料で受けられるキューバを訪れましたが、キューバ政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができたとのことです。
 以下に、チェがカストロと子供たちに送った手紙を掲載します。これはネット上で見つけたものを、そのまま転載したもので、出典としてそれぞれのアドレスを掲載しました。

チェからカストロへ

フィデルへ
 僕の中には今、さまざまな思い出が去来している。マリーア・アントニアの家で君と初めて出会ったときのこと、一緒にやろうと僕を誘ってくれたときのこと、革命に向けて準備をしていた緊張に満ちた日々のこと。
  あの日、誰からともなく、死んだときには誰にそれを知らせるべきかという話題になって、僕たちは、死が現実にありうるのだという事実に動揺した。だが、それは本当だった。革命においては(それが本物の革命であればだが)、勝利か死か、そのいずれかしかあり得ない。そうして多くの同志が、勝利への道半ばで、死んでいった。
  今、すべてのことが以前ほど劇的に感じられないが、それは僕たちが成熟したからなのだろう。しかし、同じことが今なお繰り返されている。僕は、このキューバの地で革命を行うということに僕が負っていた責任は、これを果たしたと思っている。僕は君に別れを告げる、すべての同志に、そして今や僕のものでもある君の人民に別れを告げる。
  僕は正式に、党指導部としての職務、大臣の地位、司令官の階級、キューバ市民としての資格を放棄する。僕とキューバは法的には何の関わりもなくなる。しかし、僕とキューバとの間には、何かの辞令でつながっているのとは違う次元の絆は残る。
  過去を振り返ると、僕はキューバ革命の勝利を確実なものとするために誠実に、献身的に働いてきたと思う。僕が何か重大な誤りを犯したとすれば、それは唯一、シエラ・マエストラでの最初の頃にはまだそれほど君のことを信頼していなかったこと、つまり、君に指導者としての、また革命家としての資質が備わっているということをすぐには見抜くことができなかったということぐらいだ。なんと素晴らしい日々だったことか。ミサイル危機のときの、輝かしくも、しかし過酷な日々には、君のかたわらで僕は人民の一員であることに誇りを感じていた。あの頃の君ほどに優れた指導者などまずいまい。僕自身、ためらわずに君に従い、ものの考え方、危険や原則といったものをどう捉えてどう評価するのかというその方法についても、君のものを僕のものにできたことを誇らしく思っている。
  世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。キューバに対する責任がある君にはできないことが、この僕にはできる。僕たちに、別れの時が来た。
  別れていく僕の心の中は喜びと辛さが入り混じっているということを、どうか分かってほしい。僕はここに、建設者としてのもっとも純粋な希望と、僕の愛するもののうち、もっとも愛しいものを残していく。・・・そして、僕のことを息子のように受け入れてくれた人民に別れを告げる。それを思うと、心の一部が切り裂かれるようだ。僕は、新たな戦いの場に、君が僕にたたき込んでくれた信念、我が人民が持つ革命の精神、すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂(たか)ぶる思いを携えていくだろう。その思いは、引き裂かれたこの胸の痛みがどれほど深くても、僕に勇気を与え、心をとっぷりと癒してくれる。
  もう一度言う。キューバはもはや、僕の行動に対して何の責任を負うものではない。ただ一つ、僕の革命家としての行動は、これまでも、これからも、キューバにその規範があるという点を除いては。僕がどこか別の地で最後を迎えるとしたら、そのとき、僕の頭に浮かぶのは我が人民、とりわけ君のことだろうと思う。君が僕にさまざまなことを教えてくれたこと、手本を示してくれたことに感謝する。そして、僕の行動の最後まで、そうしたものに忠実であろうと努力するつもりだ。僕は常に、この革命の対外政策と自分を一体化してきた。それはこれからも変わらない。どこの地にいようとも僕は、キューバの革命家としての責任を自覚し、そのように行動するだろう。僕は子どもたちと妻には物質的なものは何も残せないが、それを恥だとは思わない。むしろ、そうであることを喜んでいる。この者たちのために何かを頼むようなことはしない。なぜなら国家が、生きていくのに、そして教育を受けるのに必要なものは与えてくれるはずだからだ。
  僕はまだ、君にも、我が人民にも言い足りないことがたくさんあるのかもしれない。だが、それはもう言うまい。言葉では僕の思いを伝えることができない。だから、これ以上書く必要もないと思う。
勝利に向かって、常に。祖国か、死か。
 革命家としての情熱をもって、君を抱擁する。
http://blog.goo.ne.jp/hydebrave/e/bb44ed89ebf85cf8a8f1fa657decd422

チェから子供たちへ

わが子たちへ
愛するイルディータ、アレイディータ、カミーロ、セーリアそしてエルネスト、もしいつかお前たちがこの手紙を読まなくてはならなくなった時、それはパパがもうお前たちの間にはいないからだ。――お前たちはもう私を思い出さないかもしれない、とくに小さい子供達は何も覚えていないかもしれない。――お前たちの父はいつも考えた通りに行動してきた人間であり、みずからの信念に忠実であった。――すぐれた革命家として成長しなさい。それによって自然を支配することのできる技術を習得するためにたくさん勉強しなさい。また次のことを覚えておきなさい。革命は最も重要なものであり、またわれわれの一人一人は(ばらばらであるかぎり)何の価値もないのだということを。
 とりわけ、世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それが一人の革命家のもっとも美しい資質なのだ。――さようなら、わが子たち、まだ私はお前たちに会いたいと思う。しかし今はただパパの最大のキスと抱擁を送る。
http://ameblo.jp/gebara-city/entry-10417744236.html


2014年10月11日土曜日

映画でカストロを観て

カストロはキューバ革命の指導者で、世界中で最もよく知られている人物の一人です。私たちの若いころには、毛沢東、ホー・チ・ミン、シアヌーク、カストロ、ゲバラなどが、巨人アメリカに抵抗した人々として第三世界の尊敬を集めていましたが、その中でただ一人カストロだけが、2014年現在88歳でまだ生きており、いわば反米闘争の英雄の最後の生き残りといえます。彼については評価が極端に分かれおり、ここでは両極端の二本の映画を紹介したいと思います。
 映画について述べる前に、カストロとキューバ革命について簡単に触れておきたいと思います。
カストロは1926年に富裕な農園主の息子として生まれ、学生時代は野球に熱中し、ハバナ大学では法律を学びました。当時のキューバは、他のラテン・アメリカ諸国と同様、ほんの一握りの人が土地を独占し、サトウキビ栽培に特化されていて、経済はアメリカ資本に支配されていました。そしてアメリカ資本主義と結んで特権階級を保護していたのが、バティスタ独裁政権でした。こうした中で、1953年にカストロは130人の仲間とともに兵営を襲い、80人以上が射殺され、カストロは逮捕されました。無謀としか言いようがありません。
カストロは懲役15年を宣告されますが、2年後に恩赦で釈放され、まもなくメキシコに亡命します。そして、そこでゲバラと出会います。キューバ政府はメキシコにカストロの逮捕を求めますが、元大統領カルデナスのとりなしで逮捕を免れました。1956年にカストロは82名の仲間とともにヨットでキューバに上陸しますが、軍の攻撃を受けて生き残ったのは18人だけでした。これも無謀としか言いようがありません。しかし、その後仲間が増え、ゲリラ戦を展開し、1959年にバティスタが亡命し、キューバ革命は成就されました。
カストロはもともと社会主義者ではなく、プロ野球の大ファンであり、アメリカに好感を抱いていました。そこでカストロはアメリカ大統領と会見するためホワイトハウスに行きますが、大統領はゴルフ中のため面会できないとして、副大統領が応対します。アメリカは、アメリカが今まで中南米でしてきたように、必要とあればカストロを排除すればよいと思っていたようです。こうした中で、キューバは土地の国有化とアメリカなど外国資産の国有化を行い、これに対してアメリカが経済制裁を行ったため、キューバはソ連に接近し、1961年には社会主義宣言を行います。

 その後いろいろありましたが、「アメリカの裏庭」と呼ばれたカリブ海の島国キューバが、革命後50年以上たってまだ生き延びているということは、驚嘆に値します。それが可能だった理由の一つは、米ソの冷戦のためソ連の援助を得られたということがありますが、1989年に冷戦が崩壊すると、キューバは苦境に立たされますが、なんとか立ち直ります。今日キューバの最大の問題は、カストロ引退後、弟のラウル・カストロが後継者になりましたが、その弟も高齢であり、後継者を早急に決めなければならないということでしょう。

コマンダンテ

2002年にオリバー・ストーン監督がスペインの制作会社の依頼で制作したドキュメンタリーです。監督自らが3日間にわたってインタビューし、30時間以上をフィルムに収録して制作されました。「コマンダンテ」というのは司令官を意味し、キューバではカストロの愛称として用いられています。カストロは、すでにこの段階で76歳でしたので、この映画はカストロの自叙伝あるいは遺書ともいえるもので、その資料的な価値は極めて大きいと思います。カストロは個人崇拝を嫌い、自叙伝を書くことも拒否していましたので、彼の長い闘争のさまざまな局面について、彼自らが見解を述べていますので、大変興味深い内容です。
 ところが、この映画はアメリカでは上映禁止となりました。キューバ革命後、土地改革や企業の国有化が進められると、多くの富裕層がアメリカに亡命し、フロリダを中心に反カストロのさまざまな陰謀を繰り返してきました。その際、キューバでカジノなどを経営していたマフィアもカストロに強い恨みを抱いて亡命者に加担し、CIAもキューバ奪回に執念を燃やしました。彼らによって、カストロは638回も暗殺が計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックに掲載されているそうです。今日、フロリダの亡命キューバ人は政治的にも大きな勢力を形成しており、アメリカ政府は過去に何度かキューバに対する経済制裁の中止を検討したそうですが、彼らの反対で実行できなかったそうです。そしてこの映画も、彼らの強い反対で上映禁止となったそうです。それにしても、「自由」の国アメリカで、そんなことができるのかと思いますが、総じてアメリカ人にはカストロ嫌いが多いので、こうしたことが可能だったのでしょう。
 カストロの功罪は多々あると思いますが、世界史という観点から見た彼の最大の功績は、アメリカに逆らって生き延びたということだと思います。中南米諸国の多くはアメリカに経済的に支配されてきました。こうした中で、アメリカの利害を損なうことなしに、何らかの改革を行うことは不可能だし、アメリカはそのような改革を決して許しません。過去にアメリカは、あらゆる方法を用いてそのような改革を潰してきました。カストロも革命後真っ先にこの問題に直面します。カストロは農地改革や外国資産の接収を決定しますが、まず真っ先に実家の土地を接収しました。その結果母と妹はアメリカに亡命することになります。こうした中で、CIAは亡命キューバ人を訓練してキューバ侵攻(ピッグス湾事件)を行いますが、失敗します。これをきっかけに、カストロはアメリカへの期待を捨て、ソ連に接近していくことになります。中南米の国々の多くの政権はアメリカに依存していますので、カストロを批判しますが、民衆の間ではカストロに賛同する人々が多くいます。かつてアルゼンチンのペロンが、反米を掲げて民衆の支持を得たように(「映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」参照)


オリバー・ストーン監督について、以前に「プラトーン」(「グローバル・ヒストリー はじめに」を参照)という映画を観ましたが、総じて「掘り下げ」が足りないという印象を受けました。彼は2度ベトナム戦争に従軍し負傷した経験をもち、その経験をもとにこの映画を製作し、それなりに問題作ではありましたが、ベトナム人の視点が欠けていました。また「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」というドキュメンタリーも、内容的には今一つ表面的な印象を受けました。この「コマンダンテ」も、アメリカでいろいろ議論されているカストロの謎について単発的に質問を重ねるのですが、これに対してカストロは、より幅広い視点で簡潔かつ率直に答えており、カストロの洞察力の深さを見せつけるものでした。
 質問の内容は多岐にわたっているため、ここでは若干の応答にのみ触れます。カストロは、親しみやすく、ユーモアに富み、話し上手で、人を引き付ける力があることは、誰もが認めるところであろうと思います。革命後の多くの困難について、自分たちには経験が不足していたことを率直に認めます。アメリカの侵攻は革命の2年後、キューバ危機は3年後であり、自分たちはアメリカの軍事力についても、同盟や協定がいかに移ろいやすいものかということについても、何も知らなかったことを認めます。独裁についての質問に対しては、「自分は説得することが好きだ」と答え、話せば必ず信じてもらえると語ります。確かに、彼の演説は長いことで有名で、10時間に及ぶ演説をしたこともあります。多分言葉によって国民を説得しようとしてきたのではないかと思います。また後継者問題については、キューバ国民の政治的成熟を信頼しているし、その点で心配していないと語ります。
彼の言葉には、多くの困難を切り抜けて来た者の重みがあり、どこまでが真実かは分かりませんが、心に響くものがありました。


フィデル・カストロ キューバ革命

2005年にアメリカで制作されたテレビ用のドキュメンタリーで、原題は「カストロ、キューバの謎多き象徴」です。これは私の想像ですが、このドキュメンタリーは先の「コマンダンテ」に対抗して亡命キューバ人が作らせたのではないかと思われます。証言の多くが亡命キューバ人やCIAのもので、客観性に欠けています。またこの写真も、葉巻の煙にまみれた不健全な独裁者、というイメージを与えようとしているように思われます。さらに、しばしばカストロは「粗暴で女好き」という言葉が用いられます。
 「コマンダンテ」は、インタビューを中心に次々と話が展開していくため、キューバとカストロについての予備知識がないとついていけませんが、このドキュメンタリーはカストロの足跡を具体的に追っていますので、カストロとキューバ革命の事実関係を整理するのには役立ちます。ただ、全体としてカストロに対する悪意が感じられます。亡命キューバ人は、土地を没収されて私有財産を侵害されたと非難します。しかし、国土の90%を7%の人が所有するという状況を、放置することが許されるのでしょうか。また、アメリカは一貫してキューバはアメリカの安全を脅かすと主張し続けており、国民の多くもそう思っています。しかし、キューバのような島国がアメリカの安全を脅かすとは思えません。それは、アメリカに逆らうキューバの存在は、中南米におけるアメリカの支配を脅かすという意味であろうと思います。
 確かにカストロは、アメリカと対立して国民に長い耐乏生活を強いたし、カストロは否定していますが、反対派に対する弾圧も行ったでしょう。またアンゴラ内戦に介入して軍隊を送り、他の社会主義政権を支援するなど、あたかもソ連の先兵のように思われる時期もありました。ただ彼は、他の独裁者と異なり、私利私欲に左右されることが少なく、血縁者を重用することもありませんでした。弟のラウルはカストロの後継者となりましたが、彼は革命の最初からカストロの右腕として活躍してきた人物です。母と妹はアメリカに亡命し、後に娘も亡命します。4人の男の子はあまり出世していません。
さらに彼は、教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を挙げました。また、学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバでは最もポピュラーなスポーツとなっています。キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、「キューバ・モデル」として知られています。人口10,000人中の医師数が67.2人と世界で最も多いグループに属するとともに、医学教育にも熱心で、多くの留学生も受け入れています。
 
 結局私はカストロを支持しているようで、彼を客観的に捉えることができませんでした。私には彼を客観的にとらえるだけの知識がありませんし、第一まだ本人が生きていますので、客観的にとらえることなど不可能だと思います。ただ、「コマンダンテ」を見て、一層カストロに共感するようになりましたが、彼を客観的に評価するにはなお長い年月が必要だろうと思います。

 なお、カストロと葉巻のイメージは、この写真にもあるように、広く定着しています。それは、キューバの特産品である高級葉巻を売り込もうというキューバの思惑があるのかもかもしれません。もともとゲリラ戦中に藪で虫除けに葉巻を吸い始めたそうですが、1986年に本人の健康と国民に禁煙の必要性を説くために、禁煙したそうです。喫煙者である私としては、それだけでもカストロは尊敬に値します。
また、カストロは親日家として知られています。日本も、アメリカの同盟国とはいえ、キューバの問題は日本とは関係がないので、キューバとの友好関係は続いています。2003年に来日した際には、彼は外国の要人としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷し、「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残しているそうです。