2016年9月17日土曜日

映画で日本の第二次大戦を観て


人間の条件

五味川純平の小説を原作として制作され、1959年から61年までの間に6部に分けて上演され、上映時間は9時間31分に及ぶ超大作です。舞台は1943(昭和18)の満州で、主人公の梶は南満州鉄道(以下満鉄)の調査部に所属していました。
満鉄とは、日露戦争によって1906年にロシアから獲得した長春と大連を結ぶ鉄道で、半官半民の企業で、以後日本による満州経営の中核となっていきます。満鉄の初代総督は後藤新平で、彼は若手の優秀な人材を集め、単に鉄道経営だけでなく、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、満州の総合的な開発を目指します。その過程で調査部が設置されます。調査部の仕事は、政治、経済、地誌など広範囲に及び、また多数の調査スタッフを必要としたことから、日本国内で活動の場を失っていた自由主義者、マルクス主義者なども採用され、日本最初のシンクタンクとさえ言われています。しかし満州事変以降、関東軍や政府の介入が強まり、194243年にかけて調査部は事実上解体されます。
1部と第2部では、1943年に梶が北満州の鉱山に左遷され、鉱山で妻とともに暮らすことになります。当時戦争は劣勢にあり、鉄鉱石の増産が求められていました。鉱山では、中国人労働者(工人)が低賃金で過酷な労働を強いられていましたが、梶には労働条件を改善すれば、労働効率が高まり、生産力が増大するという理想がありました。しかし鉱山では、労働者の食費や賃金がピンハネされ、食糧など会社の物資が横流しされ、拷問や殺人も行われていました。さらに軍から捕虜も労働力として押し付けられます。捕虜といっても、日本軍が抗日地域と呼んでいる地域の住民を強制連行した人々です。
 梶のやり方は同僚たちから疎まれ、さらに彼が助けようとしている中国人労働者にも憎まれていました。彼には根本的な矛盾がありました。強制的に連行され、強制的に働かされている人々を、待遇改善により労働者として扱うこと自体が偽善的なのです。だから、中国人労働者をどれほどかばっても信用してもらえないのです。そして決定的な決断の時が訪れます。7人の脱走囚が翌日処刑されることになりましたが、囚人たちの長老が彼に言います。「小さな過失や誤謬は訂正すれば許される。しかし決定的な瞬間に犯される誤謬は、決して許されない犯罪になる。あなたは職業と自分自身の矛盾に引き裂かれた。この瞬間が、人道主義の仮面を被った殺人狂の仲間になるか、人間という美しい名に値するかの分かれ道だ。あなたは人間をあまり信用していないようだが、人間には人間の仲間が、いつでも必ずどこかにいるものだ。」この言葉は、梶に決定的な影響を与えました。
 処刑の当日、死刑囚を守ったため、憲兵に殺されそうになりましたが、捕虜たちが梶を守ったのです。しかし梶は憲兵に捕らえられ、激しい拷問の末釈放されますが、同時に招集令状を渡されます。この時から、軍隊での苦しい生活が始まることになります。
 なお、映画に登場する中国人のほとんどは日本人の俳優が演じていましたが、彼らも彼らと話す日本人も中国語を話しており、相当きめ細かく制作された映画でした。
 第3部と第4部では、軍隊生活と敗戦が語られます。梶は関東軍に配属され、極寒の北満州にいました。軍隊では上官や古兵による意味もないしごきと虐めが続き、それは前近代的で非合理的な世界でした。私は、当時の軍隊内のことについては何も知りませんが、この映画が制作された時期は、まだ戦後15年足らずのことですので、多くの人たちが生々しい記憶をもっていたはずですから、ある程度事実に即して描かれていると思います。
 やがてソ連軍が満州に侵入にしてきます。ソ連はドイツとの戦いに勝利し、近代的な兵力を極東に移動させており、これに対して日本軍はなすすべもなく、泣く子も黙ると言われた関東軍は、たちまち崩壊してしまいます。そして、ほとんど全滅に近い戦場で、梶はからくも生き残ります。
 第5部と第6部は、妻のいる南満州への逃避行です。様々な人々との出会いと別れ、そして悲惨な出来事の連続ですが、サバイバル・ゲームのようで、さすがに見ていてうんざりしてきました。もちろん、敗戦後の残留兵士の苦難、満州から引き揚げてくる人々の苦難は、想像を絶するものであったと思いますが、それにしても救いがなさすぎます。梶は、強靭な体力と意志で次々と降りかかる危機を切り抜けていきますが、最後に精神が破綻し、路上で野垂れ死にします。
 要するに、日本による侵略戦争の悲惨な結末だったということです。


戦争と人間
1970年から1973年にかけて公開された3部作の映画で、これも五味川純平の小説を映画化したもので、9時間23分もの長編です。1928年、関東軍による張作霖爆殺事件に始まり、満州事変、日中戦争の勃発を経て、1939年のノモンハン事件に至るまでの歴史を、新興財閥の野心を中心に、多くの人々が関わる壮大な歴史映画です。
 映画では、多くの歴史的事件が再現され、大規模な戦闘場面もあり、当時の日活には、まだこれほどの大作を制作する実力があったわけです。しかし、もともとこの映画は4部作として構想され、第二次世界大戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で終わる予定だったのですが、予算が不足して第3部で終わってしまい、全体に中途半端な終わり方をしています。この頃から映画産業は斜陽化し、日活はロマン・ポルノ路線へとシフトしていくことになります。
 第3部の中心となるノモンハン事件は、モンゴル人民共和国と満州国との国境を巡る争いでした。1921年に外モンゴルが中華民国から独立し、やがてソ連の影響を受けてモンゴル人民共和国として社会主義化します。一方、1932年に事実上日本が支配する満州国が建国されると、満州国とモンゴル人民共和国との間に国境紛争が多発するようになります。満州国の軍隊は事実上日本軍であり、モンゴル人民共和国はソ連軍の支援を受けますので、ここに日本軍とソ連軍が直接戦うノモンハン事件が勃発するわけです。
 日本は、1937年にドイツ・イタリアと防共協定を締結しており、ドイツと対立するソ連が極東に軍事力を集中できないと考えていました。ところが、水面下でドイツとソ連の間で交渉が行われていました。ノモンハン事件が勃発したのが19395月であり、8月に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発、そして9月に日本はノモンハン事件で敗北することになります。
当時日本には、北進してソ連領に領土を拡大するべきか、南進して東南アジアに進出するべきかで、意見が対立していましたが、この事件をきっかけに南進論が優勢となり、それは必然的にアメリカとの対立を引き起こすことになり、こうして日本は太平洋戦争に向かっていくことになります。

 映画は、個々の事件をかなり詳細に再現しており、大変参考になり、面白いのですが、いかにも長すぎて、うんざりしてきました。

蟻の兵隊
2006年に制作されたドキュメンタリー映画で、中国山西省日本軍残留問題を、奥村和一(わいち)という残留日本兵を通して描いています。1945年に日本が敗戦し、日本兵が次々と帰国していく中で、山西省にいた日本兵の内、2600人が国民党軍に編入され、共産党軍と戦い、やがて共産党軍に敗北し、捕虜となった後に帰国しました。奥村は2600人の兵の一人でしたが、一体なぜ奥村たちは中国に残ったのか、奥村自身がその理由を知りませんでした。映画は、その理由を探し求める奥村の姿を追っています。











 日中戦争において、日本軍は山西省の抗日ゲリラに苦しめられます。一般にゲリラは、突然現れて正規軍の不意を打ち、追われれば村や森に逃れて姿を消します。正規軍はこうたゲリラによる攻撃に消耗し、やがて村ごと、あるいは町ごと掃討する作戦を採るようになります。ヴェトナム戦争において、アメリカが枯葉剤を使用したり、ソンミ村の虐殺を行ったのは、こうしたことを背景としています。そして日本も、山西省において相当残虐な掃討作戦を行ったようです。当時、新兵として山西省に配属されていた奥村も、この虐殺に加わったことを告白しています。彼は長い間このことについて沈黙していましたが、映画で少しずつ語り始めました。多分、同じような経験をした多くの兵士が、彼と同じように一生沈黙し続けたのではないかと思います。
 この時代の山西省では、閻 錫山(えん しゃくざん)という軍閥が支配しており、一応国民党に属してはいましたが、事実上彼が山西省の独裁者でした。彼は、在地の日本軍とは停戦協定を締結し、共産党の討伐を日本軍に委ねていましたが、日中戦争が終わった後日本軍が撤退する際に、山西省における日本軍の司令官だった澄田𧶛四郎(すみた らいしろう)との密約で、2600人の日本兵を自らの軍隊に編入させたのです。閻にとっては、共産軍と戦うために日本軍の援助が必要であり、澄田にとっては戦犯としての追及を逃れるためと、再起のために日本軍を残しておきたかったためだとされます。いずれにしても、残留させられた日本兵たちは、その後、意味も分からずに、国民党が敗北する1949年まで共産軍と戦うことになり、さらにその後共産軍の捕虜として抑留されることになります。
 奥村が帰国したのは、1954年でした。ところが、帰国すると、自分たちが自主的に国民党軍に志願し、現地除隊つまり脱走兵の扱いとなっており、軍人恩給の対象にならないことを知ります。そこで奥村たちは、自分たちは軍つまり国家の命令で残留させられたのだとして、恩給の支給を求めて裁判闘争を行いますが、2005年に最高裁によって彼らの要求は却下されます。この映画は、この裁判闘争の過程で制作されました。当時すでに80歳になっていた奥村は、なぜ自分たちは残留させられたのか、そして60年前の山西省で何が起きたのかを問うため、中国へ旅立ちます。

 中国で彼は、残留の命令書を直接目にし、激しい怒りにおそわれます。それと同時に、虐殺を目撃した人々の話を聞き、虐殺の現場に行き、人を刺し殺した瞬間の感触を思い出します。こうしたことは、大変勇気のいる行為でありますが、人生を締めくくるためにも、彼とっては必要なことだったのかも知れません。それにしても、日本軍とくに関東軍は、張作霖爆殺事件以来、道徳基準が狂ってしまったようです。事実、この残留には、張作霖爆殺の首謀者と目される河本大作が深く関わっていました。何しろ、張作霖爆殺に対して、犯人たちは処罰されるどころか、出世したのですから、道徳基準が狂うのも当然のことです。

ビルマの竪琴
 この映画は、児童向け雑誌「あかとんぼ」に、1947年から48年まで竹山道雄が執筆した小説を、1956年に市川崑監督が映画化したものです。竹山は、当時東京大学の教授で、戦争で死んでいった多くの学生たちを悼み、本書を執筆しました。本書は、竹山が著した唯一の児童書で、市川が映画化して空前のヒットとなり、彼は85年にももう一度映画化しています。市川にとっても、思い入れの深い映画だったのでしょう。
 「ビルマの竪琴」の舞台は、第二次世界大戦末期に日本軍がビルマ(ミャンマー)で行ったインパール作戦です。日中戦争で日本軍は、蔣介石の率いる国民政府と戦ったのですが、国民政府は内陸の重慶に拠点を置いて抵抗したため、日本はなかなか戦局を打開することができませんでした。重慶政府を支えていたのは米英による援助でしたが、その援助は最初は香港から、次いで仏領インドシナから、さらに英領ビルマから雲南を経て、行われました。そこで日本は、この援蒋ルートを断ち切るためにビルマを征服したのですが、今度はインド東部のインパールを拠点にヒマラヤを越えて物資が運ばれるようになったため、今度は日本軍はインパールを攻めようとしました。これがインパール作戦です。

 しかし、インパールに行くには大河と2000メートル級の山脈を越えねばならず、補給路を確保することが困難で、反対が強かったのですが、牟田口司令官が独断で決定してしまいます。それでも日本軍は何とかインパール付近まで到達しますが、砲弾など物資の補給がなく、これ以上戦うことは困難で、撤退を余儀なくされますが、この撤退の過程は悲惨でした。イギリス軍による攻撃、餓死、マラリアなどによる病死で、10万近くいた兵は1万余まで減ってしまいます。日本兵の死体は打ち捨てられ、彼らが通った道は「白骨街道」とさえ言われました。この悪名高いインパール作戦を指揮した牟田口は、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件にも関わった人物で、前に述べた澄田𧶛四郎と同様、個人的な野心のために、多くの人々に犠牲を強いることになりました。

 映画では、19457月、ビルマからの撤退の過程が描かれます。終戦まで、あと1カ月です。ある小隊の隊長は、音楽学校の出身だったため、いつも部下たちと合唱し、苦しい行軍を耐え抜いてきました。その中に、水島上等兵という天性の音楽的才能をもった青年がおり、隊長の指導によってその才能が目覚め、ビルマの竪琴を使って巧みに編曲するまでになっていました。ある村で彼らが休息していた時、イギリス軍に包囲されてしまいます。そこで部下たちを鼓舞するために、一緒に「埴生の宿」を合唱します。「埴生の宿」とは、「粗末だけれども楽しい我が家」という意味で、日本の小学唱歌になっていました。実はこの歌はイングランドの民謡で、「楽しきわが家」という広く知られた歌でした。兵隊たちが歌を歌い終わると、今度はイギリス兵たちが英語でこの歌を歌い始めました。彼らもまた、戦場にあって望郷の念にかられたのです。そして、日本兵たちはイギリス兵を通して、すでに3日前に戦争が終わっていたことを知ります。
 その後、彼らは捕虜収容所で暮らしますが、ある時、まだ山に立て籠もって玉砕を叫んでいる日本兵たちがいることを知ります。そこで隊長は、彼らに投降するよう説得するために、水島を派遣します。結局、水島は説得に失敗し、彼自身も怪我をしますが、帰りに多くの日本兵の死体が転がっているのを目撃します。死体を葬ろうと奮闘しますが、全然追いつきません。そうした中で、彼は、このままでは自分は日本に帰れないと思い詰めるようになり、ビルマで僧となって、死んだ人々の霊を弔おうと決意します。収容所の仲間たちは、一緒に日本に帰ろうと訴えますが、彼の決意を翻すことはできませんでした。こうして仲間たちは日本に帰り、水島は竪琴をもって一人でビルマの大地を歩いていきます。

 この映画は、戦争に散々痛めつけられ、ひたすら平和を願った当時の日本人の心を捉えたのだと思います。原作者は、戦場で敵と味方が歌で通じ合うような物語がつくりたい、という所から始まって、中国では共通の歌がない、ビルマならイギリス人がおり、「埴生の宿」がある、ということからビルマを舞台にしたのだそうです。原作者自身が、ビルマについて何も知らないと言っており、舞台がビルマであったのは、たまたま創作上の都合でしかなかったようです。しかしこの映画は、ビルマについての日本人のイメージの形成に大きな役割を果たしました。ビルマといえば「ビルマの竪琴」というくらいで、それは、かつて欧米の人が、日本といえば「ゲイシャ」「フジヤマ」を連想するのと同じです。

 話が逸れますが、「王様と私(アンナとシャム王)」というミュージカルがあります。これは、19世紀の後半のタイの王宮で、アンナ・レオノーウェンズというイギリス人女性が王子の家庭教師として招かれ、保守的で頑迷な王様(ラーマ4世・モンクット王)と対立しますが、やがて二人の間に愛が芽生えたという話です。アンナは実在の女性で、やがて彼女は手記を執筆し、後にそれをもとに小説が書かれ、それがミュージカルとなり、映画となったわけです。それは、知的で美しいヨーロッパの女性と、アジアの野蛮な王様との物語で、まさに欧米人好みの物語です。
 しかし、問題があります。彼女の手記には噓と誇張が多いということです。第一、ラーマ4世は決して野蛮な王ではなく、4つの言語を理解する知性豊かで英邁な君主でした。こうした誤解は、19世紀のヨーロッパで形成されたステレオタイプのイメージ、つまり野蛮なアジアと文明の発達したヨーロッパというイメージと結びつき、広く欧米の人々に浸透していきます。「ビルマの竪琴」にも誤解があり、ビルマでは僧侶が楽器を奏でることは禁じられているそうですが、これはあまり悪意のない誤解のように思います。しかし「王様と私」には、幾分悪意を感じます。ラーマ4世は実在した君主であり、彼の王家は今でもタイの王家として続いています。タイでは、この映画の上映は禁止されているそうですが、当然のことだと思います。

 話が逸れましたが、「ビルマの竪琴」は、幾分誤解があるとしても、大変美しく、感動的な映画でした。私は原作を読んでいませんが、この映画は原作を超えているのかもしれません。



2016年9月14日水曜日

「中国文明史」を読んで

ヴォルフラム・エーバーハルト著(1980)、大室幹雄・松平いを子訳、筑摩書房(1991)。本書の原題は「中国の歴史」ですが、本書は中国史を民族学的・社会学的な視点で叙述されているため、「中国文明史」と訳したとのことです。著者はドイツで生まれ、中国史の研究を皮切りに、トルコなど西アジア地域を広範囲に調査・研究し、後にアメリカで教鞭をとります。
 私は、過去に多くの中国通史を読みましたが、そのほとんどが「正史」の強い匂いがして、うんざりしていました。「正史」は中国史の基盤ですので、当然と言えば当然のことです。ただ、私が最後に読んだ通史は、「図説中国文明史」(10巻、2006年、創元社)で、最新の発掘調査などをもとにしており、今までとは異なる中国の通史で、中国史の研究も新しい段階にきていると感じました。
 本書は、「図説中国文明史」より何十年も前に書かれたものであり、しかも5000年におよぶ中国の歴史を、日本語版で350ページ余りで書いているため、内容的にはほとんど知っていることでした。ただ、「正史」の世界では、常に文明と野蛮、漢人と蛮人の境界が設けられ、私たちも無意識のうちに中国を特別なものとして考えがちです。しかし、本書を読んでいると、そのような境界など何もないことを感じます。

 そもそも、ヨーロッパと中国を地続きで繋がっており、筆者はヨーロッパと中国の間にある西アジアについても造詣が深く、何の違和感もなく中国をユーラシア大陸の一部として語ります。本書は、ヨーロッパ史を読んでいるような感覚で中国史を読むことができ、また、従来とは全く異なる中国史を見ることができるように思いました。

2016年9月10日土曜日

映画「スパイ・ゾルゲ」を観て



2003年に制作された映画で、第二次世界大戦時に日本で起きたゾルゲ事件と呼ばれるスパイ事件を扱っており、篠田監督の最後の作品だそうで、3時間を超える長編です。篠田作品については、このブログでも、「はなれ瞽女おりん」(「映画で旅芸人を観て http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_4.html)」、「鑓の権三」(「映画で浮世草子と浄瑠璃を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_11.html)」、「写楽」「(映画で浮世絵師を観て) http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_5.html)を取り上げており、興味のある方は参照して下さい。
ゾルゲは、ロシア生まれのドイツ人で、3歳の時ベルリンに移住し、第一次世界大戦が始まると、二十歳の頃に陸軍に志願し、悲惨な戦争を経験します。さらにその後のインフレと政治的混乱の中で、彼は共産主義に希望を見出していきます。こうした中で、彼はソ連の諜報員となり、1930年にドイツの新聞記者を隠れ蓑に上海で諜報活動を始めます。一方、もう一人の主人公である尾崎秀実(ほつみ)は、東京帝国大学在学中に、大杉栄虐殺など思想弾圧に触発されて、社会主義の研究を始めますが、表立った活動は行っていません。1926年に朝日新聞に入社し、翌年上海支局に転属となります。この頃彼はスメドレーに出会い、彼女に協力する形で間接的にコミンテルンの諜報活動を行うようになります。こうした中で、彼はゾルゲに出会い、彼の諜報活動に協力するようになります。なお、スメドレーについては、このブログの「「偉大なる道 上下」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_20.html)を参照して下さい。また、尾崎はスメドレーの著作「女一人大地を行く」を翻訳しています。
1931年に尾崎は帰国し、さらにゾルゲはドイツと日本の動向を探るため日本に渡ります。この間に満州事変が勃発し、さらにドイツではヒトラー政権が成立します。ゾルゲはドイツの駐在武官オットの信頼を得、さらにオットは後に駐日大使となり、尾崎は首相となった近衛文麿の相談役となったため、二人は両国の最高機密を知り得る立場になりました。ところが、ソ連でゾルゲの後ろ盾となっていたブハーリンがスターリンによって粛清されたため、ゾルゲは本国から疑いの目で見られるようになり、活動資金も送られなくなります。1941年にゾルゲは、ドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵入するという信憑性の高い情報をソ連に伝えますが、スターリンはこれを無視し、その結果ソ連はドイツ軍の電撃的な侵入に大敗北を喫することになります。一方、当時日本では、ソ連と戦ってシベリアに領土を広げるか、石油資源を手に入れるため南へ進むかで意見が分かれていましたが、アメリカによる対日禁油政策のため南進が決定されました。この情報をいち早く入手したゾルゲは、ソ連にこれを伝え、その結果ソ連は日本に備えて配備されていた極東軍を西に移動することができ、ドイツに対する反撃を開始することが可能となりました。
一方、特高は早くから不審な電波が発信されていることをつかんでいましたが、発信源まで特定することはできませんでした。しかし次第にゾルゲ周辺の人々への内定が進み、1941年に尾崎とゾルゲが逮捕されました。ドイツ大使オットと近衛首相にとっては、まさに寝耳に水の出来事でした。結局、194411月や7日に、二人は処刑されました。それはロシアの革命記念日であり、そして終戦は間近に迫っていました。
ゾルゲと尾崎は、なぜコミンテルンの諜報員となったのでしょうか。もっとも尾崎の場合、共産党員となったこともないし、ゾルゲを通してコミンテルンに協力していただけでした。しかし、国家総動員で戦っている最中に、国家の最高機密を漏らしたわけです。この時代の良心的な人々の中には、心情的に共産主義に共感する人々がたくさんいました。第一次世界大戦の悲惨さ、その後の社会矛盾の拡大の中で、ロシア革命とソ連の共産化は、彼らにとって希望の星と思われたのではないでしょうか。しかし、結局ソ連は、スターリンのもとで醜悪な怪物と化していき、この映画の最後は、ベルリンの壁の崩壊とレーニン像の倒壊の場面で終わります。
この映画は冒頭で、魯迅の次の言葉をあげています。「思うに希望とは、もともとあるものとはいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。」そして映画の最後はジョン・レノンの「イマジン」で終わります。「想像してごらん、この世に国家なんか存在しないと、決して難しいことではない、殺戮も死もなくなり、宗教の争いも消えてしまう、想像してくれよ、平和に過ごしている姿を、君はこんな私を夢想家だと思うだろうが……」
 篠田監督が生まれたのは1931年ですので、彼は戦争中に少年時代を過ごし、その後の冷戦とソ連邦の崩壊を目撃している分けですから、彼は決して単純にゾルゲや尾崎を裏切り者とか英雄として扱っている分けではありません。激しく変化する世界の中で、二人のスパイの生き様を捉え直して見たのではないでしょうか。この映画に対する評価はあまり高くなかったようですが、私は面白く観ることができました。

 なお、篠田監督の映画には決まって妻の岩下志保が出演するのですが、この映画でも岩下は、最後に自殺した近衛の妻として出演していました。


2016年9月7日水曜日

「中国中世の探求 歴史と人間」を読んで

谷川道夫著 1987年 日本エディタースクール出版部
 本書は、戦後展開された中国史の時代区分論争を回顧するもので、過去に発表された論文を集めたものです。
 戦後、歴史を大きく見直す動きが生まれ、特にマルクス主義による歴史の再構築が試みられました。マルクスによる時代区分は、古代奴隷制社会、中世封建制社会、近代資本主義社会へと発展するというもので、この時代区分を日本史や中国史にも当てはめようとしました。西洋史では大塚久雄が、日本史では石母田正、中国史では西嶋定生などが、そうした研究の基盤を形成したのですが、色々と問題が出てきました。例えば、日本に奴隷制はあったのか、中国に封建制はあったのかといった問題です。それを解決するために、アジア的生産様式とか総体的奴隷制などといった概念が用いられ、中国では隋・唐までを古代奴隷制とし、宋以降を中世とするといった議論がなされました。
 こうした議論に対して、ヨーロッパの歴史を中国に当てはめるのは無理ではないかという議論が、常にありました。そうした中で谷川は、内藤湖南の強い影響を受け、中国独自の歴史の基盤を共同体に求め、魏晋南北朝から隋唐に至るまでの時代を、共同体を基盤とする貴族層が力を持つ「中世」とし、宋以降を近世とする、という見解を主張します。それは、ヨーロッパ史的な、あるいはマルクス主義的な意味での中世ではなく、すぐれて中国的な意味での中世です。これに対して激しい議論が展開されましたが、やがてこの議論は決着を見ないまま終わり、研究者の関心は、歴史の一つの小さな局面を詳細に描き出すことに向けられていきます。

 本書では、当時の時代区分論争の渦中にあった筆者により、この議論の概要が述べられおり、その意味で参考になるとともに、私にとっても懐かしい内容でした。なお、筆者自身、あまりにこの問題にコミットしすぎたため、この議論が終わった後も、そこから容易に抜け出せなかったと、自省しています。

2016年9月4日日曜日

映画「226」を観て

1989年に松竹が制作した映画で、1936年のニ・ニ六事件の発生から終結までの四日間を、当時のオールスターキャストで描いていますが、結論から言えばつまらない映画でした。ニ・ニ六事件に関しては、前に観た「戒厳令」(「映画でヒトラーを観て はじめに」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_24.html)の方が、もっと問題の複雑さを描いていました。
 ニ・ニ六事件の背景を一言で述べることは困難なので、ここでは触れません。ただ、国際的にも国内的にも閉塞状況が強まる中で、事件が起きたということです。さらにこれより4年前の1932年に、海軍の青年将校による犬養首相暗殺事件である五・一五事件が起きており、その犯人たちに対する処分が極めて甘いものであったことが、ニ・ニ六事件を引き起こす一因となりました。五・一五事件とニ・ニ六事件との違いは、前者が将校のみによるもので、武器も他から調達しているのに対し、後者は何も知らない下士官たちを巻き込んだクーデタだったことです。この事件は、まぎれもなく軍の不祥事でしたが、それにもかかわらず、以後政治家たちは軍を恐れて、軍部の独走をゆるすことになります。日露戦争が終わって30年以上が経っており、今や軍は政治をも左右する強大な勢力となっていました。
 映画は、4日間続いた事件の経過を淡々と描いており、その意味にでは参考になりました。彼らが目指したことは、君側の奸を排除し、天皇自らによる昭和維新の断行ですが、改革の具体策については何もなく、反乱計画は周到でしたが内容がいい加減で、総理の秘書を総理と間違えて射殺します。総理の顔さえ識別できないかった分けです。また、ある死体には48発もの弾丸が撃ち込まれており、未熟そのものです。その後、政府軍に追い詰められ、何も知らない兵士の不満も高まったため、結局首謀者の多くは自殺するか、投降して処刑されました。

 まるで赤穂浪士の討ち入りも観ているようで、一人一人の将校たちは純粋な思いで行動したのでしょうが、あまりにも未熟でした。人間は武器を持つとなんでもできると勘違いしてしまうようで、ニ・ニ六事件の愚かしさのみが目立った事件でした。

2016年8月31日水曜日

映画「戦場カメラマン 真実の証明」を観て 

2009年にアイルランド・スペイン・ベルギー・フランスによって制作された映画で、戦争における生と死の問題を扱っています。邦題の「戦場カメラマン 真実の証明」というのは、映画の内容を反映していないばかりか、誤解を与えるタイトルです。この映画の原題は「トリアージ」、つまり「選別」です。
 トリアージとは、例えば事故などで多数の負傷者が出た場合、治療の優先順位をつけることです。まず第一のトリアージは、生きているか死んでいるかであり、後は症状に応じて優先順位をつけていきます。本来、医療はすべての人を平等に治療するのが建て前で、このような選別は医療倫理に反する面もありますが、一方で、大規模事故が起きて医療のキャパシティーが不足した場合、このような選別を行う必要がある、という人もいます。どちらが正しいのか、私には判断できませんが、現実にトリアージは広く行われています。
 映画は、マークとデビッドという戦場カメラマンが、クルディスタンに取材に出かけるところから始まります。クルド人については、このブログの「クルド人の映画を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_494.html)を参照して下さい。時代は1988年で、フセイン大統領がクルディスタンの石油資源を奪うため、クルド人の虐殺を行っていた時代でした。二人はまずクルド人の拠点の一つを訪問します。そこでは、一人のクルド人医師が、次々と運ばれてくる負傷者の治療にあたっていました。そこで二人は衝撃的な事実を目撃します。医師は、負傷者が運ばれてくると、まず治療できる患者とできない患者に選別し、できない患者は医師自身が銃で射殺していました。人材も医療器具も医薬品も不足しているため、治療が困難であり、苦しんで死ぬのを待つより、早く楽にしてやる方が良い、ということです。そして、この病院で、このことに不満を持つ人はいませんでした。まさに、究極のトリアージです。
 妻が臨月を迎えていたデビッドは先に帰り、やや遅れてマークは負傷して帰ります。ところが先に帰ったはずのデビッドがまだ帰っておらず、またマークも精神的に不安定になっていました。心配した妻は、精神科医である彼女の祖父に夫の治療を依頼しました。彼はすでに80歳を過ぎており、スペイン内戦で多くの人を虐殺した反乱軍の兵士たちの精神治療に当たってきました。政府軍だけでなく、反乱軍の兵士にも、心を病む人々が沢山いたのです。マークの妻は、ファシストを治療した祖父を嫌悪していましたが、医者にとっては患者がファシストだろうと民主主義者であろうと、関係がありません。残虐行為を行って心が壊れた人々を治療したくないという思いは、医者にもあったかもしれませんが、それでも治療せねばならない、これもまたトリアージの問題なのです。つまり、トリアージの基準には、患者の地位や身分や思想は含まれません。なお、市民戦争がスペインの人々の心に残した傷については、「「子供たちのスペイン戦争」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_24.html)、「映画「サルバドールの朝」を見て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_27.html)を参照して下さい。
 心を閉ざしていたマークも、少しずつ真実を語り始めます。実は彼はデビッドと一緒に帰途についたのですが、途中で襲撃され、デビッドが両足を吹き飛ばされます。マークは何とかデビッドを連れて帰ろうとしますが、川を渡っているとき溺れそうになり、デビッドを離してしまいます。彼は友を見捨てた自分を恥じ、自分を責めていました。これもトリアージの問題でした。デビッドは、事故がなくても、おそらく目的地に着くまでに死んだでしょうし、もしここでマークがデビッドを離さなければ、おそらく二人とも死んでいたでしょう。戦争という異常な状況な中で、人々は絶えず生と死のトリアージを迫られます。そして映画は冒頭で、「戦場で生死を分ける決まり事などない。戦争とは、人が死ぬものだからだ。それだけが決まっている」と述べて、戦争の無惨さを訴えています。


2016年8月27日土曜日

映画「サルバドールの朝」を見て

2006年にスペインで制作された映画で、反政府活動のメンバーだった一人の青年が処刑されるという話ですが、これは実話に基づいており、主人公の青年は1974年に実際に処刑された青年でした。
16世紀にスペインは空前の繁栄の時代を迎えましたが、17世紀以降急速に衰退していき(「スペイン黄金時代」を読むhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_18.html)19世紀にはヨーロッパでも最も後進的な国の一つとなっていました。スペインの抱える問題は、中世以来の貴族による土地支配とカトリック教会による住民の呪縛、さらにバスクやカタルーニャなどの分離運動など、さらに20世紀になると労働運動や無政府主義の運動が激化し、スペインの混乱は収拾困難な状態になっていました。1931年に無血革命が成功し、ブルボン朝は崩壊して共和国が成立しますが、相変わらず国内は混乱していました。そうした中で、1936年に左派・中道による人民戦線政府が成立すると、軍部のフランコが反乱を起こし、スペイン内戦が勃発します。この内戦は、結局1939年にフランコの勝利に終わり、以後1975年のフランコの死まで、彼の独裁体制が続きます。スペイン内戦については、「「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」を読む」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_25.html)、「「バスク大統領亡命記」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/blog-post_8.html)を参照して下さい。
 フランコ体制下のスペインは、軍部・地主・カトリック教会・様々な保守派の均衡の上に成り立ち、ほとんど中世の社会がそのまま残っているようでした。経済的には自給自足を目指していましたので、完全に崩壊し、対外的にはファシズムの生き残りとして白い目で見られ、風見鶏的な政策のため、どの国にも信用せれず、国際的に孤立していました。それでも後半には、冷戦のおかげでアメリカの支援を受けて多少状況は改善されますが、本質的には何も変わりませんでした。 
 心の問題も見過ごせません。内戦では親子・兄弟が互いに敵味方として戦いました。戦後、その傷を癒すのは容易ではありませんでした。また、このブログの「「子供たちのスペイン戦争」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_24.html)でも述べたように、子供たちの心にも深い傷が残りました。そしてサルハドールの父は、人民戦線側で戦い、戦後収容所に入れられ、死刑の宣告を受け、銃殺直前に恩赦されますが、この間に性格が一変し、恐怖のため心が死んでしまいます。内戦後、多くの人々が、この父と同じような状態になり、あらゆる不条理に眼を背けて生きてきたのだと思います。
 一方、フランコは焦っていました。彼は高齢であり、病気がちであり、彼の死は目前に迫っていたからです。フランコ体制は、一定のイデオロギーや組織理論に基づいた体制ではなく、まさにフランコ個人によって成り立っている体制でしたから、彼が死ねば体制そのものが崩壊します。そこでフランコは、ブルボン家の公子を国王にして王政を復活させ、自らの腹心であるカレーロ・ブランコを事実上の後継者として実権を握らせ、自らの独裁路線を継続させる構想を描いていました。しかし、まもなくこの計画は挫折することになります。
 サルバドールは、カタルーニャの反政府組織の一員として、資金稼ぎのために銀行強盗を繰り返していました。最初は軽い話で、大した計画もなく銀行を襲撃し、大金が詰まったバッグを見て大はしゃぎしていました。サルバドールには高邁な理想とか政治的信念はなく、反政府のビラを配っていた友人が警察により窓から突き落とされたのを知り、漠然とこの体制の不条理に立ち向かおうとしていました。そこには、不条理故に心が壊れた父への思いもあったかもしれません。要するに、不条理から対し、眼を背けて沈黙するか、行動するかの問題でした。
 1973925日に、サルバドールは逮捕されます。フランコを倒すためとはいえ、銀行強盗は正当化できませんし、逮捕の混乱の際に警官を射殺しているため、彼の死刑は免れません。ところが、死んだ警官の遺体に、彼の拳銃から発射された銃弾以外に、同僚の警官たちの銃弾が撃ち込まれていました。警察はその証拠を隠蔽し、サルバドールを陥れようとしていたのです。彼の家族や友人は、あらゆる手段を用いて彼を救出しようとし、国際世論も彼の助命を求めるようになります。
 しかし、197312月に、バスクの反政府組織がカレーロ・ブランコを暗殺します。これによって、フランコの後継者計画は頓挫し、怒り狂ったフランコは何が何でもサルバドールを生贄にする決意をします。サルバドールとバスクの反政府組織とは何の関係もありませんでしたが、フランコにとって彼は処刑されねばなりませんでした。まさに不条理です。もはやどのような方策も、フランコの決定を覆すことはできませんでした。そして197432日の朝、サルバドール処刑の朝がきます。彼は穏やかでしたが、彼が望んだのは英雄として死ぬことではなく、生きて刑務所を出ることでしたが、彼の望みは叶えられませんでした。23歳でした。
 サルバドールは、彼が望まなかった英雄となり、彼の死をきっかけにフランコに反発する運動は一層高まりました。そして197511月、フランコは死亡しました。83歳でした。フランコは、自分の死後王政に戻すこと、そして後継者としてブルボン家のファン・カルロスを指名しており、それに基づいてファン・カルロス1世が即位します。大方の予想では、新国王はフランコの政策を継承し、スペインは何も変わらないだろうと言うものでした。ところが、ファン・カルロスは民主化を指示し、スペインは一夜にして独裁国家から、民主主義国家への道を歩き始めたのです。その意味で、サルバドールの死は、彼自身が望まなかったとしても、スペインの民主化の象徴となりました。映画は、普通の青年であるサルバドールが、生きていたいと願いつつ、結局処刑される姿を描き出しています。