2016年2月13日土曜日

映画で戦国時代を観て

はじめに
 NHKの大河ドラマには、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など戦国武将を扱ったドラマが数えきれない程あり、今年も真田幸村が主人公となっているようです。しかしここでは、こうしたメジャーな話ではなく、農民や職人を扱った映画を紹介したいと思います。

笛吹川
1960年に制作された映画で、笛吹川の畔に住む貧しい農民の、6代にわたる生き様を描いた映画で、それは丁度甲斐の武田の興隆と滅亡の時期に当たります。


















笛吹橋の側にある一軒の貧しい農家に、じいと婿の半平、孫のタケ、ヒサ、半蔵が住んでおり、半蔵は戦にいっていました。当時の甲斐は、周辺勢力の侵入や内紛により争いが絶えませんでしたが、1521年に武田信虎が飯田河原の合戦で今川軍の侵入を撃退し、その後武田による甲斐の統一が進みます。そしてこの年、信玄が誕生します。その後も戦争が続き、若い男たちは褒美や出世を求めて戦に出ていき、次々と死んでいきます。婿の半平のみが、家に残って、ひっそりと家を守っています。半平が死ぬと、春信(信玄)と同じ日に生まれた定平(さだへい)が跡を継ぎます。1541年に春信が父の信虎を追放して、甲斐を掌握します。信玄は、領国拡大政策を推し進めたため、戦争が相次ぎます。信玄が勢いに乗っていた時代なので、人々は、毎年のように洪水を起こす暴れ川で百姓を続けるより、戦にいって褒美をもらう方が良いと考える人たちが増えてきました。定平の子供たちも戦争に参加します。

 しかし、1573年三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利した後、信玄が病死し、さらに1575年に武田軍が長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗すると、武田は急速に衰退に向かいます。そして織田信長の甲州征伐により、1582年に武田家は滅亡します。この間に、定平の息子たちも皆死んでしまい、息子たちを帰らせようとして戦場に向かった定平の妻も、戦火に巻き込まれて死にます。今や生き残ったのは、定平だけであり、定平は笛吹川に武田の旗差物が流れていくのを見つけて、映画は終わります。

(映画の笛吹橋)











(現在の笛吹橋)











 映画の舞台は、ほとんど笛吹橋の側の小さな小屋であり、そこで60年の間に多くの人が生まれ、死んで生きました。その時期は武田の盛衰の時期であり、この一家はこうした歴史の流れに翻弄されました。こうした場面は、甲斐に限らず、戦国時代のどこででも見られた光景だろうと思います。映像は非常に美しく、映画の最期で、母が必死に子供たちを連れて帰ろうとして、戦場にまでついていく場面は、なかなか感動的でした。

火天の城
2009年に山本兼一原作の小説を映画化したもので、宮大工(番匠)である岡部又右衛門による安土城の建設を、職人という視点から描いた映画です。映画が制作された2009年は、20年に及ぶ安土城跡の発掘調査が終わった年で、このことがこの映画の制作に関係があるのかもしれません。
岡部又右衛門は実在の人物で、熱田の宮大工であり、今日、彼の屋敷跡には史跡表札が立てられています。彼は、突然織田信長により安土城に五層の城を築くよう命じられます。信長の構想は桁外れで、安土山全体を城にしてしまうということです。安土は、当時の交通の要衝で、しかも琵琶湖に接しているため、水運にも適しています。しかも、その天守に信長自身が住むというのです。一般に、天守は戦の際に籠城することを目的としており、居住のための邸宅は別に造るのが普通ですが、安土城は信長の居住のための城でもありました。つまり、信長はここに巨大な城を築き、そこから天下を見下ろそうという構想です。
映画には、三つの見せ場がありました。第一は指図(図面)争い、第二は木曽檜の入手、第三は通し柱の修正です。
第一について、当初信長は、築城を岡部に任せていたのですが、その後気が変わり、複数の職人が設計図と模型を信長に見せて、最終的が決定することにしました。そのため、岡部の他に、金閣寺を建立した京の池上家、奈良の大仏殿を造った中井一門が図面争いに参加し、いずれも見事な模型を造ってきました。信長は、五層で四層まで吹き抜けにするように命じていたのですが、岡部は吹き抜けを造ることを拒否し、実際に三つの模型に火を付けました。その結果、他の二つの模型は瞬く間に天守まで燃えてしまいました。信長が寝起きする城に、吹き抜けという「火の道」を造ることは許されないということで、信長も納得し、岡部に総棟梁を任せます。こうして、1676年に、前代未聞の築城工事が始まります。
第二について、これ程巨大な木造建築を造るには、支柱となる巨大な木材()が必要で、それを求めて岡部は木曽へ行きます。しかし木曽は武田の領地であり、織田の築城のための木材など渡すはずがありません。ところが、1573年に信玄が死亡し、領域内でも武田からの離反の動きが生まれ、木曽義昌も離反を考えていました。そのため、彼は岡部が木材を捜すことを黙認します。その際、大庄屋陣兵衛という杣人(そまびと)が岡部を助けます。杣というのは、天皇・貴族・寺社などが木材を伐採するための土地で、杣人とは必要な木材を伐採する人で、平たく言えば木こりです。ただ彼らは、「木」を知り尽くしており、陣兵衛は岡部と意気投合します。こうして岡部は、巨大な支柱を手に入れることに成功しました。
映画には、さまざまな職人が登場しますが、その中に穴太衆(あのうしゅう)という石工の集団がいました。彼らの石積みは野面積み(のづらづみ)といわれ、自然石をそのまま積み上げる方法です。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないため、間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、排水性に優れており、頑丈でした。今日、野面積みはコンクリート・ブロックより強度が高いことが実証されています。安土城の建設で、穴太衆の高い技術が実証され、その後全国各地の築城に携わりました。
築城が完成に近づきつつあった頃、重大な問題が発生しました。信長の指示で壁などを厚くした結果、周辺を支える柱の基礎が若干沈み、その結果中央の支柱が突き出る形になってしまいました。その結果、城全体が一瞬で崩れる危険性が出てきました。そこで、岡部は支柱の下を切り取って短くするという決断をしますが、そのためには支柱を一旦持ち上げる必要があります。そして岡部一門が総力をあげてこの作業に取り組み、成功させます。このような事実があったのかどうかについては知りませんが、この場面はなかなか見ごたえがありました。
こうして安土城は1579年に完成されましたが、1582年の本能寺の変の後出火し、焼失します。安土城は、わずか3年で焼失したために、幻の城と言われており、分からないことが沢山あります。そもそも、安土城がなぜ出火したのかも、よく分かりません。かつては、明智軍による放火によるものと言われたこともありましたが、今日では否定されています。いずれにしても、この城はその後の築城に大きな影響を与えたことは間違いありません。
この映画は、職人たちの世界を描いています。大工は木の声を聴き、石工は石の声を聴きます。こうした職人魂は、世界中のどの時代の職人でも同じだと思います。近世になると、優れた職人の名前が後世に残るようになり、彼らの中には芸術家として称えられる人もいます。古い時代には、彼らは卑しい職人でしかなく、制作を依頼した人物の名は残っても、職人の名が残ることはほとんどありません。しかし、今日世界に残る多くの歴史建造物や芸術品は、名もない職人の驚異的な技術により造られたものです。

2016年2月10日水曜日

「大英帝国の人種・階級・性」を読んで


デイヴィッド・ダビディーン著(1987)、松村高夫・市橋秀夫訳 同文館(1992)
本書は、「W.ホガースにみる黒人の図像学」というサブタイトルの通り、18世紀のイギリスの画家であるホガースの絵画を通じて、18世紀のイギリス社会の歪みを描きだそうとするものです。ホガースは、貧しい家に生まれたため、幼い頃から銀細工師の徒弟として版画家の修行を積み、やがて油彩画を書くようになりますが、その絵を銅版画として労働者にも買える金額で売るようになり、これによって彼は成功します。17世紀までのイギリスは絵画不毛地帯といわれ、絵画の独自の発展がほとんど見られませんでしたが、ホガースによって初めて、イギリス風絵画が発展するようになったとされています。
 ホガースは、「当世風の結婚」シリーズが著名で、このほか「娼婦一代」、「放蕩息子一代」など連作物の版画を多数の残しており、本書では、100枚近いホガースの絵が掲載され、著者はこれを通して当時の社会を徹底的に風刺しています。「芸術における彼の洞察力は、商業主義によって損なわれた社会、すなわち金銭的取引だけの関係が人間の諸関係にとって代わっている社会にむけている。」また、しばしば絵には白人の引き立て役として黒人が書き込まれ、文明と野蛮が強調されますが、実は野蛮なのは黒人なのか白人なのかを問いかけています。虚飾に満ちた文明化された白人と、文明化されていない黒人との対比です。
 「黒人は、ホガースの作品では周辺的人物でありながらも、意味深長な細部描写である。……黒人は、上流階級の生活における性や文化や経済のあさましさについてのホガースによる暴露とつながりをもつ細部描写である。「残酷な光景」では、イングランド社会の残忍さが、アフリカ人やインディアンの「野蛮な」諸行為にてらして測られている。こうした習慣の中でホガースは、性の慣習、原始主義、類人猿祖先説といった黒人にまつわる当時の神話や常套句を意識的に用いて、イングランド貴族階級の道徳を論評した。黒人は論評のものさしとして用いられているが、同時にそのものさしは白人を打つ一本のスティックである。」そして著者は、大英帝国の持つ構造的矛盾生で言及します。

 私がこれら絵を観て、直ちに「なるほど」と理解することは困難ですが、本書の解説を読むと「なるほど」と納得できる内容でした。

2016年2月6日土曜日

映画ファウストを観て

1926年にドイツで制作された映画で、無声映画ですが、意外にも面白く観ることができました。ファウストを題材とした映画は数多くありますが、たまたま私が観たのが、この映画だったというだけです。「ファウスト」というとゲーテの作品を思い浮かべますが、「ファウスト」には多数のヴァージョンがあり、この映画の原作がゲーテという分けではありません。
ファウストは、16世紀前半のドイツの錬金術師・占星術師がモデルとなったと推測されています。彼は各地を旅し、最後は錬金術の実験中に爆死したとのことです。そして16世紀後半に、「実伝ファウスト博士」という民衆本が書かれ、それを基に演劇や人形劇で盛かんに演じられて、民衆に広く愛される伝承となっていきました。それによれば、ファウストは、学問を究めますがそれに限界を感じ、悪魔メフィストフェレスと契約を交わして、死後自分の魂を悪魔に与える代わりに、現世でのあらゆる欲望を追求することになり、地獄へ落ちていきます。 
映画では、ファウストはグレートヘンという純真で美しい女性に恋をし、メフィストフェレスに頼んで彼女を手に入れます。しかし二人の恋に反対した彼女の母と兄は、ファウストとメティストフェレスに殺され、ファウストの子を産んだグレートヘンとは一人で子供を育てられず、結局子供を死に至らせてしまいます。その結果彼女は子殺しの罪で火炙りの刑と定められ、まさに彼女の人生は無茶苦茶になってしまいます。それを知ったファウストは、彼女のもとに駆けつけ、彼女とともに火の中に入って死に、ともに天国へ行くことになります。罪を犯した二人が天国に行けた理由は「愛」であるという、いささか陳腐な結論となりますが、何しろ今から100年近く前に制作された映画ですので、仕方がないと思います。この映画は、コミカルなタッチで描かれるとともに、革新的なトリックが随所で使用されているようで、後の映画技術に大きな影響を与えたそうです。
ゲーテの「ファウスト」の結末は、少し違います。ここまでの話は、ゲーテの「ファウスト」の第一部で、ファウストは天国でのグレートヘントの取り成しと、彼自身が積み重ねてきた努力の故に罪が許され、第二部に入ります。ゲーテは、若い頃から「ファウスト」についての構想を育み、180859歳の時に第一部を発表し、1832年に83歳で死亡しますが、翌年に第二部が発表されます。実に60年間も温めてきたテーマであり、まさに「ファウスト」はゲーテのライフワークでした。第二部では、ファウストは悪魔の力を借りて、古代ギリシアの女神ヘレネを妻とし、さらに皇帝に仕えて理想国家の建設を目指し、海を埋め立てて「自由の土地」を造ろうとしたりします。このように悪魔の力を借りて現世で行おうとしたことも、結局彼に満足を与えることができず、虚しさの中で死んでいきます。そこで悪魔は、契約に従ってファウストの魂を受け取ろうとしますが、神はファウストを天国に受け入れます。それを可能にしたのは、グレートヘンの祈りによるものだということです。

私は、ゲーテの「ファウスト」を読んでいませんので、ゲーテが何を言おうとしているのか、よく分かりません。完全に勉強不足です。第二部は、ゲーテ自身の魂の格闘の物語なのかもしれません。

2016年2月3日水曜日

「キャプテン・クック」を読んで

ジョン・ハロウ編(1860)、荒正人・植松みどり訳、原書房(1992) 増田義郎監修
大航海者の世界Ⅳ サブタイトル:科学的太平洋探検
 クックは、18世紀後半に活躍した、イギリスの軍人・航海者・探検家です。彼は水兵から出発して、異例の速さで艦長にまで出世し、3度探検航海を行っています。第1回航海(1768 - 1771年)、第2回航海(1772 - 1775年)、第3回航海(1776 - 1780年)で、合わせて10年、太平洋をくまなく探検し、測量や科学的調査を行います。この時代は、イギリスがフランスと争いながら、本格的に海外に進出していった時代であり、彼の調査はイギリスの海外進出に大いに役立ったことは間違いありません。ただ彼の航海日誌はすぐに出版されて公にされましたので、太平洋についての知識が広く伝えられることになりました。彼の航海は、2千年ほど前の張騫の西域旅行や鄭和の南海遠征のようで、地理的な知識が一挙に拡大することになります。
 本書は、クックの航海日誌と日々の出来事を記した航海記をもとに、クックの航海を時系列で淡々と記しています。したがって、ストーリー的に面白い内容ではありませんが、広大な太平洋に数多く点在する島々に住む、人々の風俗や植物・動物などが詳しく記されており、大変興味深い内容です。第3回目の航海については、クックがハワイで原住民との争いで死亡したため、部下がそれ以降の内容を補充して出版されました。
 なお、スペースシャトルのエンデバー号は、クックが第1回航海で乗船した船の名称に因んだものです。

2016年1月30日土曜日

映画でゾラを観て

ゾラの生涯


1937年にアメリカで制作された映画で、19世紀のフランスの自然主義作家エミール・ゾラの半生を描いています。自然主義とは、19世紀後半にゾラが提唱した文学思潮で、実証的な科学的手法を用いて、人間の社会をあるがままに描くことを提唱し、日本の文学にも大きな影響を与えました。
 ゾラが生きた時代は、工業化と都市化の急速な進展により、社会矛盾が耐え難いほど増大していた時代でした。映画は、1862年のパリから始まりますが、この時代のフランスはナポレオン3世による第二帝政の時代で、産業が猛烈に発展するとともに、パリ大改造が行われ、貧民は中心部から追い出され、従来のコミュニティは解体され、人々の心は荒んでいました。そんなパリの安アパートの一室で、ゾラと画家のセザンヌが暮らしていました。彼らは、真実を描き、不正を正すのだという信念に燃えていました。そして、1877年に出版された「居酒屋」が大評判となり、これによりゾラは富と名声を手に入れます。一方、セザンヌは故郷の南フランスに帰りますが、映画では、彼はゾラと別れる時、「芸術家は貧乏であるべきだ。お腹が大きくなると、足元が見えなくなる」と言って去って行きました。
 1870年から、ゾラは「ルーゴン・マッカール叢書」の執筆を開始します。それはルーゴン・マッカール家とその子孫たちを通して、第二帝政期のあらゆる側面を描き出すものです。19世紀前半にバルザックが「人間喜劇」において、一つのことに執着し、そのことのために身を滅ぼしていく人々を、連作という手法を用いて描きましたが、ゾラもその手法を用い、遺伝と環境により、人々がどのように影響されるかを描き出しました。その叢書の一部として、「居酒屋」「ナナ」「ジェルミナール」などが含まれるわけです。そして、全20作からなるこの叢書の最期の作品が執筆されたのが1893年であり、その翌年の1894年にドレフュス事件が起こります。
 フランス革命以来、フランスは何度も政体が変革されました。第一共和政の後、ナポレオンの第一帝政、ブルボン復古王政、七月王政、第二共和政、ナポレオン3世による第二帝政、そして普仏戦争後の1870年に第三共和政が成立します。百年足らずの間に6回も政体が変わり、共和政体はなかなか確立しませんでした。第三共和政でも、軍部や王党派が力を持ち、1886年から89年にかけてブーランジェ事件と呼ばれる、軍部によるクーデタ未遂事件も起きます。そして、1894年に、世に言うドレフュス事件が起きます。 
 参謀本部でスパイ事件が発生し、軍の上層部は、何の証拠もないままユダヤ人将校ドレフュスを有罪とし、翌年南米のフランス領ギアナ沖にあるデビルズ島(悪魔島・監獄島)に流刑とします。なお、この監獄はナポレオン3世時代に重罪政治犯の流刑地とされ、1973年制作の映画「パピヨン」の舞台ともなりましたが、あまりに非人道的なため、第二次世界大戦後に閉鎖されました。1896年に、軍の情報部が別の犯人をつきとめ、ドレフュスが無罪であることが明らかとなりましたが、軍部も政府も体面を保つため、ドレフュスを有罪のまま押し通しました。当時のフランスでは、反ユダヤ主義と反ドイツ感情が強く、世論はドレフュスを裏切り者として非難していました。ドレフュスの妻や一部の人々がドレフュスを無罪とするための活動を続けていましたが、ほとんど相手にされず、ゾラもこの問題にあまり関心がありませんでした。
 映画では、ある時ドレフュス夫人が、万策尽きてゾラに助けを求めてきます。当時ゾラは、富も名声も社会的地位も得て、穏やかに暮らしていましたが、夫人が持参した証拠を見て、不正を暴露して正義を貫こうとしていた若い時代の自分が蘇りました。もしここで、ドレフュスの無罪を主張したら、ゾラは地位も名声も失うことが分かっていましたが、もしここで戦わなければ、フランスの民主主義はますます遠のいてしまうと考え、ドレフュス事件を調べ始めます。そして1898年、ゾラはドレフュス事件に関する大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」を新聞に掲載します。ゾラ、58歳の時でした。政府はゾラを名誉棄損で訴えますが、それこそゾラの望むところでした。裁判を通じて、ドレフュス事件を再び取り上げることができるからです。
 映画での裁判の場面は、なかなか迫力がありました。今や裁判は、軍や政府の横暴を暴き、フランスの民主主義を守れるか否かという問題となっていました。裁判では、予想通りゾラは有罪となり、禁固刑を言い渡されますが、ゾラはイギリスに亡命し、イギリスから世界中に向けて軍や政府の横暴を訴え続けます。その結果、世論はしだいにゾラを支持するようになり、1899年に政府はドレフュスを釈放し、ゾラも帰国します。この事件は、フランス革命以来なかなか安定しなかった共和政体が、ようやくフランスに定着するきっかけとなった事件で、フランスは二度と王政や帝政に戻ることはありませんでした。またオーストリアのユダヤ人ヘルツルは、新聞記者としてドレフュス事件を取材している過程で、ユダヤ人に対する偏見の大きさを知り、ユダヤ人国家の建設を目指すシオニズム運動をおこし、これが今日のイスラエル国に結びついている分けです。

 ゾラは、1902年パリの自宅で一酸化炭素中毒により死亡します。62歳でした。暗殺説もありますが、真偽は不明です。いずれにしても、ゾラは信念に生きた作家であり、世界中に大きな影響を与えた作家でした。映画も、大変感動的でした。同じころ、セザンヌもようやく人々に認められるようになり、印象派から20世紀の絵画への扉を開きつつありました。

居酒屋

1956年にフランスで制作された映画で、ゾラの同名の小説を映画化したものです。「居酒屋」は1934年にも映画化されており、その他にもゾラの作品は、「ナナ」をはじめ多数の作品が映画化されています。
 主人公のジェルヴェーズは、若くて美しく、また働き者で、洗濯女として働いていました。彼女はランチエという男性と同棲しており、すでに子供が二人いましたが、ある時ランチエは貯めた金をもって消えてしまいました。彼女は一生懸命働いて子供を育て、やがて屋根職人のクーポーと結婚し、彼との間にナナという女の子がうまれます。ところが、クーポーが屋根から落ちて大怪我をし、直った後も仕事をせず、居酒屋に入り浸って酒に溺れます。この間、ジェルヴェーズは、貯めたお金で念願の店をもって洗濯屋を始めますが、なぜかランチエが戻ってきて、ジェルヴェーズの家に同居し、二人の酒飲みを抱えて、店はしだいに傾き、結局悪意ある友人に店を乗っ取られてしまいます。そしてジェルヴェーズも居酒屋に入りびたり、そのまわりを、乞食のように薄汚れたナナが走り回っています。
 不幸を絵に描いたような救いのない話です。歳をとると気が弱くなるのか、こうした救いのない映画を観ると、気が滅入ってしまいます。この小説が発表された当時、中流階級の人々からは、貧乏人を誇張しすぎている、という批判が強かったのですが、ゾラ自身がパリの下町に長く住み、一時はほとんどどん底に近い生活をしていましたので、貧しい人々の暮らしをよく知っていたと思います。当時のパリは、貧富の差が激しく、惨めな人々はさらに惨めになっていきました。ゾラが描いたのは、そうしたパリの現実だったのだと思います。
 やがて、ジェルヴェーズの娘ナナは、たくましく育ち、高級娼婦となります。当時のパリには成り上がりの金満家が多数出現し、そうした金満家に高級娼婦が群がりました。1879年に発表された「ナナ」は、ジェルヴェーズの娘の物語ですが、私は原作を読んでいないし、映画も観ていません。「ナナ」は過去に何度も映画化されたようです。ナナは、高級娼婦として男たちを魅了し、多くの男達を破滅させていきますが、突如失踪し、伝説の人となる、という話です。実はナナは天然痘にかかり、醜い姿になって、人知れずパリの底辺で死んで行きます。この話も、救いのない話ですが、実在した娼婦の話を基に、この小説を書きましたので、これもまた、当時のパリの現実を描いていたと言えるでしょう。

デュマ(小デュマ)の小説「椿姫」も、19世紀半ばのパリの高級娼婦を描いたもので、1936年にアメリカで映画化されました。高級娼婦として贅沢三昧の生活をしていたマルグリッドは、普段は白い椿をつけ、生理の5日間だけ赤い椿をつけていたため、椿姫と呼ばれました。そんな彼女が、純真な青年の一途な愛に動揺し、享楽に溺れる生活を捨てて、彼の愛を受け入れようとしますが、結局病気のために死んでいく、という物語です。なお、小デュマの父である大デュマは、「モンテ・クリストフ伯(岩窟王)」などで日本でもよく知られる作家です。











ジェルミナール

1993年にフランスに制作された映画で、ゾラの代表作である同名の小説を映画化したものです。この映画は、160分に及ぶ大作で、製作費も半端ではなく、庶民を扱った映画としては異例の規模です。タイトルの「ジェルミナール」は、フランス革命暦の第7月に当たる芽月を意味し、季節としては春で、「すべてのものみな芽吹くとき」という意味です。
 この小説は、1885年に出版され、この頃からゾラは社会主義に傾斜していきます。舞台は1880年代の北フランスの鉱山で、主人公は「居酒屋」のジェルヴェーズの息子エティエンヌ・ランチエです。ランチエは、ジェルヴェーズが最初に同棲していた男の息子で、父親に反発して家を出て行きました。彼はパリで鍛冶屋の見習いをしており、その後機械工となったようですが、不況のため解雇され、この地方に流れてきたようです。彼は無口ですが、どうやら労働運動を行っていたようです。また彼は、酒を飲むと短気になる性格を、親から遺伝的に受け継いでいたようです。
 映画では、炭鉱労働の現場が詳しく描き出されます。子供は8歳になると炭鉱で働き、女性も働きます。家族中で働いても、食べていくのがやっとという状態です。映画ではさまざまな人々が登場し、炭鉱で働く人々の日常生活が描き出されます。毎日、食べ物の工面に必死です。一方、経営者の一族は、毎日贅沢三昧で、労働者の生活にはまったく関心がありません。労働者の生活と経営者一族の生活が対照的に描き出され、当時の社会の不条理が描き出されます。
 そうした中で、経営者は賃金の引き下げを通告してきました。これに対して労働者たちは、ついにストライキを決意し、ランチエが指導者となります。しかし経営者は、憲兵隊を投入して弾圧するとともに、ベルギーから労働者を連れてきたため、ストライキは長引き、これ以上ストライキを続けることが困難となり、労働者たちはしだいに炭鉱に戻って行きます。この間に落盤事故があって多くの労働者が死亡しました。結局ストライキは失敗に終わり、ランチエは炭鉱を去り、映画は終わります。
 この映画も、「居酒屋」や「ナナ」同様に、救いのない物語ですが、最後に次のように述べられます。「空には四月の太陽が誇らしく輝き、大地を温めている。あちこちで種が根を張り芽を吹いて、光と熱を求めて伸びる。樹液が満ち新芽が広がる音は、まるで大きな口づけのように響く。私の耳にはっきりと、仲間の打ち続ける音が聞こえてくる。光あふれるこの若々しい朝に、野原にざわめく。人々は芽生え、復讐を求める軍団は密かに成長し、未来に向け動き始めた。この芽生えの力で大地は張り裂けるだろう。」ゾラは、労働者の団結と社会主義に希望を見出しているように思います。


2016年1月27日水曜日

「子供たちの大英帝国」を読んで

井野瀬久美恵著 1992年 岩波新書
本書には、「世紀末、フーリガンの登場」というサブタイトルがついているように、19世紀末のイギリスで大きな社会問題となった「フーリガン」なるものを通じて、大英帝国の下層階級の実態を描き出しています。
1980年代に、イギリスのフットボール・ファンのマナーの悪さが、「フーリガン」という悪名とともに世界中で話題になりました。「フーリガン」という言葉の本来の意味ははっきりしませんが、どうやら、19世紀後半に中産階級の価値観に反発した若者たちにつけられた名称のようです。彼らは、まだ大人としては見做されていませんが、ポーターやメッセンジャー・ボーイなどとして小銭を稼ぎ、ミュージック・ホールに繰り出し、当時大流行した自転車で走り回り、人々に危害を加えたりしました。さらに、1888年にフットボールのリーグが結成されると、競技場の観客席で暴力沙汰が頻発しました。中産階級の人々は、このような野蛮な行為は外国からに影響に違いないと考え、ルーツのはっきりしない「フーリガン」という言葉を用いたのだそうです。 
このフーリガン現象について、本書は、ミュージック・ホールとの関連、中産階級と労働者階級との関連、学校教育との関連など、さまざまな側面から説明しています。学校教育に関しては、この頃に義務教育が始まりますが、教員の給与は出来高払い制度で、生徒の出席率と成績に応じて、国庫の補助金が決められていたため、教師は笞をつかって生徒に服従と暗記を強制します。それは、中産階級が、労働者階級の子供たちを、中産階級の価値観の中に囲い込もうとするものでした。こうしたことが、「フーリガン」現象の背景の一つとなっていました。

そして、こうした現象は、大英帝国の衰退とも深く関わっていましたが、この点に関しては議論が多岐にわたるため、ここでは触れません。いずれにしても、フーリガンという一つの現象を通じて、大英帝国衰退期のイギリス社会が描かれており、大変興味深く読むことができました。

2016年1月23日土曜日

映画「リンカーン」を観て

2012年公開のアメリカ映画で、本来リンカーン生誕200周年に合わせて2009年に公開する予定でしたが、少しずれこみました。リンカーンは、丸太小屋で生まれ、独学で弁護士となり、ついには大統領にまでなった人物で、まさにアメリカン・ドリームを体現しているような人物であるとともに、南北戦争を指揮し、奴隷解放宣言を発布した人物として、アメリカで最も尊敬されている大統領です。なお、丸太小屋生まれというリンカーン伝説には、多少の脚色があるとしても、大筋では間違っていません。











彼は父親とともに各地を転々とし、彼自身も色々な職業を経験しますが、最後はイリノイ州で弁護士となり、下院議員・上院議員を経て、第16代大統領となります。彼が大統領に就任した頃、アメリカは引き裂かれていました。南北戦争の原因については、多くの議論があり、ここでは深入りしません。一言で言えば、北部と南部では、経済構造が違い過ぎ、もはや共存は不可能になりつつあったということです。そして奴隷制の問題も、対立の大きな要因であり、奴隷解放論者だったリンカーンが、1860年に大統領に当選すると、南北の対立は決定的となります。
アメリカの大統領選挙は11月に行われ、大統領に就任するのは翌年の3月です。ここに4カ月の政治的空白期間があります。交通・通信遮断が発達していなかった当時としては、やむを得ないことだと思いますが、この4か月間に次々と南部諸州が分離し、リンカーンが大統領に就任した時には、アメリカは完全に分裂していました。話が逸れまずが、1930年代の世界恐慌の際、F.ローズヴェルトが大統領に当選しますが、4カ月の空白期間の間に恐慌は最悪となってしまいました。そのため、今日では、大統領の就任は1月に変更されています。
 リンカーンは、一般に言われる程過激な奴隷解放論者ではありませんでした。彼にとって当面最も重要なのは連邦統一の維持であり、そのためなら、奴隷制を認めてもよいと考えていました。この時代は、国民国家の時代であり、イタリアやドイツの統一、日本の明治維新のように、統一的な国民国家の形成が時代の趨勢となっており、リンカーンにとって連邦の統一が何よりも優先される課題でした。しかし戦争が長引くにつれ、また戦争による死傷者が異常に多かったこともあって、北部では厭戦気分が広がり、「南部が独立したければ、独立させればよいではないか」といった意見が強くなってきました。また対外的にも、イギリスは経済的に深く結びついた南部を支持しており、国際的にも北部が孤立する可能性がありました。
 そうした中で、リンカーンは戦争目的を明確にする必要に迫られ、その結果この戦争は、邪悪な奴隷制度を廃止するための戦いであることを明確にします。こうして1863年奴隷解放宣言が発せられ、国民もこれを支持し、奴隷制を禁止するイギリスは南部から手を引きました。この結果、1864年にリンカーンは再選され、また中間選挙で与党共和党も勝利します。しかし問題がありました。憲法上、奴隷制度の問題は州の問題であり、大統領も議会も州の問題に介入する権限がありませんでした。したがってリンカーンは、この宣言を最高司令官の職務としての軍事的指令として行ったのであり、それでも憲法がねじ曲がってしまう程拡大解釈した上での宣言でした。そしてこの宣言は、戦争が終われば無効となり、南部の議員が議会に戻ってくれば、奴隷制度の廃止は困難となります。そこでリンカーンは、戦争が終わる前に、憲法を修正して奴隷制度を禁止しようと考えます。
 映画は、ここから始まります。アメリカの憲法は、1787年に制定されてから今日に至るまで、一切変更されていません。ただ、修正条項が憲法に追加され、今日までに27の修正条項が加えられました。その内の第一修正から第10修正は、憲法発効と同時に、各州の意見を入れて追加されました。その後今日まで17の修正条項が追加される分けですが、その内容は、見方によっては憲法本文と矛盾するものもあります。しかし、矛盾が問題となった場合、連邦最高裁がその時その時の社会情勢に応じて柔軟に解釈しつつ、今日まで至っています。これは、見方によっては、かなりいい加減な憲法とも言えますが、非常に柔軟性のある憲法とも言えます。
 さて、リンカーンが企てたのは、修正13条です。憲法の修正は、議会の3分の2の賛成により各州に修正が提案され、その時の州の数の4分の3が批准して可能となります。これは容易なことではなく、憲法制定から今日まで1万件以上の修正案が提出されましたが、最初の10条をのぞくと、17件しか成立していないわけです。当時、与党の共和党は全員修正に賛成しており、これで過半数を超えていますが、野党の民主党が反対しているため、とうてい3分の2には達しませんでした。映画は、1865年の1月の1カ月間、リンカーンとその側近による多数派工作の過程を描いています。その過程はかなりスリリングで、説得、買収、脅しなど、あらゆる手段が用いられます。そして、131日の議会で、かろうじて3分の2を以上の賛成で可決され、21日にリンカーンが署名しました。もちろんこれで修正される分けではなく、4分の3の州が批准する必要がありますが、その目途はたっていました。したがって、修正13条は事実上成立した分けです。
 その後南部は敗北を重ね、186543日に南部の首都リッチモンドが陥落、9日にはリー将軍が降伏して、南北戦争は事実上終了しました。両軍合わせて60万人もの死者が出るという悲惨な戦争でした。4年間戦い、これ程の死者を出したのですから、リンカーンとしては、奴隷制度廃止という目に見える結果を出さなければ、死者に顔向けができなかったのでしょう。ただリンカーンの奴隷制廃止の思想には問題があります。確かに彼は奴隷制度廃止論者でしたが、黒人と白人の混血が進むのを嫌っており、解放された奴隷はアフリカに帰させるべきだ、という非現実的な考えをもっていました。なぜ非現実的なのかと言えば、今やアメリカの黒人のほとんどがアメリカ生まれであり、彼らはアフリカについて何も知らなかったのです。つまり、リンカーンの思想の根底には、白人優位主義的な側面があったと思われます。
 また、リンカーンはインディアに対しては冷酷でした。祖父がインディアに殺されたこともあるのでしょうが、インディア討伐隊にも加わっているし、大統領在任中は多くのインディアンの殺戮にも手を染めています。サウスダコタのスー族を滅ぼしたのも彼で、これについては、「映画でアメリカを観る(3)  ダンス・ウィズ・ウルブズ」を参照して下さい(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/3.html)。彼のインディアンに対する仕打ちは、「インディアン強制移住法」で悪名の高いジャクソン大統領も顔負けです。結局私には、リンカーンは、人道主義者、奴隷制度廃止論者、民主主義者である前に、優れてアメリカ的人間だったのではなかったのかと思われます。
 奴隷制度が廃止され、戦争にも勝利したリンカーンには、南部の再建という大きな仕事がまっていました。彼は、常々南部に対しては寛容の精神で当たるようにと言っていましたが、彼は414日に暗殺され、その後南部に対して非寛容な政策が行われるようになります。大統領暗殺の犯人は、大統領をはじめ政府高官を殺して連邦政府を混乱させ、その間に南部が再起できることを期待したそうですが、大統領が死亡、辞任、解任、執務不能となった場合、大統領の継承者として18番目まで序列が決まっていますので、即座に混乱が起きることはありません。これが独裁者が支配する国とは異なるところです。
 映画はリンカーンの死をもって終わりますが、映画では議会での討論と野次の応酬、リンカーンと妻子との関係、通信室に入り浸って戦争を指揮する姿などが描かれており、大変興味深い内容でした。
 なお、現在のオバマ大統領は第44代大統領であり、過去に10人の大統領が暗殺(4)あるいは暗殺未遂に合っています。そして犯人の多くが、情緒が不安定だったり、精神に疾患を抱えた人々で、こうした人々による犯行を阻止することは極めて困難であり、大統領職は相当リスクの高い職業だといえます。