2016年1月20日水曜日

「カナダの歴史」を読んで

木村和男、フィリップ・バックナー、ノーマン・ヒルマー共著、1997年、刀水書房
 サブタイトル「大英帝国の忠実な長女 17131982年」
 本書は、カナダの特色を「イギリス性」にあるとして、カナダの歴史を大英帝国との関係で、通史的に叙述したものです。私が知る限り、カナダ史を扱った専門書はあまり多くないと思います。
もともとイギリスとフランスはニューファンドランド沖合の漁業権を巡って争っていましたが、スペイン継承戦争の結果締結された1763年のパリ条約でカナダがイギリス領となります。その後、イギリスはカナダへの入植を進めますが、アメリカ植民の場合13植民地を希望する人が多く、イギリス領カナダではフランス人の比率が圧倒的に多いというのが実情でした。
 カナダがイギリス性を強めていった大きな理由は、アメリカ合衆国の存在にありました。まず、アメリカ独立戦争の際に王党派として戦った人々の一部はカナダに亡命します。その後カナダは、常にアメリカ合衆国の膨張圧力に晒されます。例えば19世紀半ばに、西部のオレゴンの境界を巡って対立し、さらにアメリカ合衆国がロシアからアラスカを購入したため、カナダは危機意識を強めます。こうしたことを背景に、カナダにも国民意識が形成されてくる分けですが、その国民意識の特色は、アメリカ合衆国との違いを明白にする「イギリス性」を強調することでした。
 しかし、20世紀に入ると、イギリスはカナダよりアメリカ合衆国との関係を重視するようになり、カナダもアメリカ合衆国との経済関係がますます強化され、イギリスとの関係が希薄になっていきます。そして1982年、カナダは自主憲法を制定し、これまでイギリス議会が保持していたカナダ憲法の修正権は消滅します。さらにこの年、イギリスとアルゼンチンとの間でフォークランド紛争が起きますが、カナダでは、イギリス側に立って戦うべきだという世論は、ほとんど生まれませんでした。
 「熟年のカップルとしての英加両国は、離婚こそしなかったが、別れ別れに住むようになった。両国は共に、NATOとコモンウェルスのメンバーであり続けている。両国間の貿易は輸出入合わせて約45億ドルという相当の額ではあるが、いまではイギリスでもないヨーロッパでもない日本が、カナダにとって第二の通商相手国となっている。いまでも多数のイギリスからの移民がカナダに流入しており、その数は他のどの国からの移民よりもずっと多い。英加双方の個人や諸グループは、文化的、専門的に広いネットワークを形成し、協同している。しかし、一つの家族としての意識は、1899年、1914年、39年当時とまったく変わってしまったし、これからも決して元には戻らぬであろう。」


2016年1月16日土曜日

映画「オリヴァー・トゥイスト」を観て

2005年にイギリスで制作された映画で、1837年に出版されたディケンズの同名の小説を映画化したものです。この小説も、過去に映画や舞台で何度も上演されました。この小説は、貧しかったディケンズの少年時代の経験から書かれたもので、彼の初期の作品には、こうした内容のものが多いようです。
映画は、9歳のオリヴァー・トゥイストが養育院から救貧院に連れて行かれるところから始まります。1834年の工場法で9以下の孤児を働かせることが禁止されましたので、孤児は9歳までは養育院で育てれ、9歳になったら救貧院に移して働かせます。同じ1834年に救貧法は最悪の改革が行われましたので、救貧院における待遇も最悪となりました。10歳の時オリヴァーは救貧院を脱走し、7日間歩いてロンドンに行きますが、そこで掏りの親玉に掏りの練習をさせられます。その後色々あって、善意ある人々に助けられ、最後は幸せになったという話です。要するに、正しい心をもっていれば、必ず救われるという話です、
ディケンズの小説は、ストーリーが単純で、善悪がはっきりしており、楽天主義と理想主義を基本とし、ほとんどハッピー・エンドに終わります。そのため、本書は「クリスマス・キャロル」などとともに、児童書としても読まれてきました。ただ、彼の小説の特色は、個性的な脇役を生き生きと描くことで、主人公を浮き上がらせるところにあります。映画でも、救貧院の監督官、意地悪な先輩、掏りの親玉など個性的な人物たちが、オリヴァーの不幸と善良さを際立たせていました。
ディケンズは、常に社会制度の欠陥と、それを受け入れる社会的風潮を問題とします。19世紀前半のイギリスでは、資本主義が猛烈に発展し、それと同時に社会矛盾も耐え難いほど拡大していました。労働者の長時間・低賃金労働、女性・児童の長時間労働、貧困者の増大、犯罪の多発、都市の衛生問題などです。映画では、こうした社会の底辺に生きる人々、役人たちの傍若無人なふるまいなどが描かれますが、都市が妙に綺麗でした。この時代のロンドンは、ほとんど掃き溜めといっていいほど不衛生な町でしたが、道路にはゴミ一つ落ちていませんでした。これは監督のアイロニーなのかも知れません。映画は、あり得ない程ハッピー・エンドで、美しい物語でしたが、これは「綺麗ごと」だという監督の意志表示なのかもしれません。
この映画の監督ポランスキーは、ポーランドのユダヤ人で、ナチスによる迫害を逃れて辛酸をなめた人物でした。その経験もあって、彼は「戦場のピアニスト」を制作し、高い評価を得ました。一方、彼は私生活でいろいろ話題の多い人物です。彼は女優シャロン・ステートと結婚しますが、翌年彼女がカルト集団に惨殺されるという悲劇に見舞われます。その後、アメリカで児童性愛の疑いで逮捕され、有罪となりますが、保釈中にヨーロッパに逃亡してしまいます。こんな彼が、「オリヴァー・ツイスト」のような単純で美しい映画を、素直に造るとは想像できません。

なお彼は、このブログでも紹介したシェイクスピアの「マクベス」を制作していますが、かなり血みどろの映画のようです。(「映画でシェイクスピアを観て マクベス」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_17.html)

2016年1月13日水曜日

「リンカーンの三分間」を読んで

ゲリー・ウィルズ著(1992) 北沢栄訳 共同通信社 1995
 本書は、サブタイトル「ゲティスバーグ演説の謎」にもあるように、リンカーンのゲティスバーグでの有名な演説を、さまざまな角度から論じています。18637月に、南北戦争で最大の激戦となったゲティスバーグの戦いが行われ、3日間に及ぶこの戦いで、両軍合わせて5万人近い死傷者がでました。この戦いで両軍ともに大きな打撃を受けましたが、人的資源の豊富な北部は軍隊の再建が可能でしたが、南部には困難であり、南部の敗北は決定的となっていきます。それとともに、翌年に控えたリンカーンの大統領再選の確率も高くなりました。
 その後連邦政府は、この戦場に戦没者を追悼するための公園墓地=霊園を建設し、1119日に行われた奉献式で、リンカーンの有名な演説が行われました。ただ、厳密に言えば、式典では高名な政治家・学者であるエヴァレットが2時間に及ぶ演説を行っており、これが本来のゲティスバーグ演説です。その後リンカーンが3分ほどのスピーチを行っており、2万人もの聴衆にはほとんど聞き取れませんでした。しかし、彼の演説内容が新聞に掲載されると、演説に対する評価がしだいに高まっていき、今日ではこの演説は、アメリカのみならず、世界の民主主義史上最も重要な演説の一つとされています。
この演説は、簡潔かつ抽象的で、この戦争についても奴隷制についてもほとんど触れていません。本書はこの演説を、当時流行していた古典ギリシア復興の観点、霊園というもの背景、エマソンやホーソンらにより普及した超絶主義の観点、思想の革命、文体の革命という観点から、とらえています。個々の点は分かりにくいのですが、アメリカ人はこの演説については子供の時から教えられているため、この種の本としては珍しくベスト・セラーとなったそうです。

リンカーンの演説は、常に憲法にではなく建国の精神に立ち返ろうとします。「ゲティスバーグ演説は独立宣言と同様にアメリカ精神の誇るべき表れとなり、おそらくそれ以上に影響力をもっている。それがわれわれの独立宣言の読み方までも左右するからである。現在、ほとんどの人にとって独立宣言の意味は、憲法自体を投げ捨てることなく修正することによってリンカーンが語った内容と重なっている。それは、精神の軌道修正であり、知的革命である。これによってリンカーンを超えて、初期の解釈へ引き戻そうとする試みはひどく無価値なものになってしまう。」「一つの理念を掲げた単一の国民というゲティスバーグ演説の概念を受け入れることにより、われわれは変わった。それゆえにわれわれは今、この新しいアメリカに生きているのである。」

2016年1月9日土曜日

映画「遥かなる戦場」を観て


1968年にイギリスで制作された映画で、19世紀半ばのクリミア戦争を題材としています。1960年代に制作された戦争映画は、ヴィクトリア女王百週年を記念して、イギリス軍の勇敢な戦いを描いた映画がおおいのですが(「映画でアフリカ史を観て(2) http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/2.html「映画でアフリカ史を観て (3)http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/3.html)、 を参照して下さい)、この映画はイギリス軍の無能ぶりを怒りを込めて描いています。











 19世紀のヨーロッパは、ヨーロッパの歴史上稀に見る平和な時代だったと言われています。中世末の百年戦争以来、ヨーロッパは戦争の連続でしたが、1815年のワーテルローの戦い以降、確かにインドや中国での植民地戦争はありましたが、ヨーロッパの大国同士が戦うような大きな戦争はありませんでした。そして1853年から1856年のクリミア戦争は、イギリス・フランス・トルコが同盟し、ロシアと戦った戦いです。そこに至るには様々な背景がありますが、要するにロシアがトルコ領のバルカン半島への進出を企て、それを阻止するためにトルコを援助した分けです。
 映画は、ワーテルローの戦い以来実戦経験のない年老いた高級将校たちが、パーティーやゴシップに明け暮れ、下士官たちには残酷な扱いをしていました。そこへ、インドで戦ってきたノーラン大尉が帰国しますが、当時は「インド帰り」というのは蛮地の垢に染まった者として軽蔑される傾向にあり、さらに彼は直情型だったため、しばしば将軍たちと対立します。そんな時に、クリミア戦争が勃発します。映画では、しばしばアニメを用いて国際情勢の解説をしますが、このアニメが大変面白く、アニメだけ切り取って編集してみたいくらいです。
 戦争では、無能な将軍たちによる無謀な作戦により、ノーランが所属する騎兵隊は全滅し、ノーランも戦死、そして将軍たちが責任の擦り合いをしている場面で終わります。これは戦争というより、ほとんど虐殺でした。従来、この戦闘はイギリス騎兵隊の英雄的戦いとして描かれてきましたが、この映画では虚しい戦いとして描かれています。その後、イギリス・フランス・トルコの連合軍は、ロシア黒海艦隊の基地セヴァストポリを包囲しますが、膠着状態に陥って2年間がたちます。そして突破口を開いたのは連合軍ではなくサルデーニャ王国軍でした。サルデーニャ王国はクリミア戦争に直接関係がありませんでしたが、ここでフランス・イギリスの歓心を得て、イタリア統一に向けて有利な国際関係を築きたかったからです。15000のサルデーニャ兵は、この戦いにイタリア統一の命運がかかっていると信じ、決死の突入を行ってセヴァストポリを陥落させます。
 結局、この戦いには勝者も敗者もありませんでした。ロシアは多少の譲歩をしますが、セヴァストポリは返還され、南下への野心を持ち続け、やがて第一次世界大戦の火種となっていきます。なおクリミア半島は、第二次世界大戦後に行政上ソ連邦内のウクライナに移管されますが、1991年にソ連邦が崩壊してウクライナが独立したため、ロシアはセヴァストポリ軍港をウクライナから租借することになりました。ところが、2014年にウクライナで親欧米政権が成立したことをきっかけに、ロシアはクリミア半島を事実上併合してしまいます。セヴァストポリはロシアの軍港であると同時に、多くの血を流してきた港ですから、ロシアの心情は理解できます。まして、セヴァストポリにアメリカの艦船が入るとしたら、許しがたいことでしょう。しかし、それを言うなら南シナ海は、15世紀における鄭和の南海遠征以来、中国の海であり、中国が領有権を主張できることになります。現在の国際体制や国際法が、欧米に有利なように作られたものであったとしても、やはり今日では国際法に従うしかないのだと思います。
 イギリスは、とりあえずロシアの南下を阻止しましたが、1856年には中国でアロー戦争が起き、1857年にはインドでシパーヒーの乱が起き、多事多難でした。オスマン帝国は、英仏への従属を強め、没落への道を歩んでいきます。フランスは、ナポレオン戦争後国際舞台では低迷していましたが、この戦争後急速に拡大政策を促進することになります。一方、この戦いの過程で、イギリス・フランスはロシアを牽制するため、バルト海でも戦っており、さらに極東でカムチャッカ半島も砲撃していますので、クリミア戦争は地球的規模で戦われていたのです。そしてこの戦争が始まった1853年にペルーが日本に来航し、日本は開国を余儀なくされます。イギリスやフランスは、クリミア戦争に忙しく、日本に関わっている暇がありませんでした。色々な意味で、クリミア戦争はその後の世界の歴史に大きな影響を与えていたのです。

 ところで、この頃から戦争における死者の数が非常に増大するようになりました。その原因は、兵器の発達ということもありますが、同時には鉄道の普及があります。鉄道により、大量の兵士や武器を戦場に送ることが可能になったからです。クリミア戦争では、きわめて多くの負傷者が出たため、ナイチンゲールは従軍看護婦として戦地に向かいます。病院では、軍隊特有の縦割りの命令系統に苦労しますが、何よりも問題だったのは衛生管理でした。なにしろ、病院では負傷による死者よりも、病院内での感染症による死者の方が多かったのです。

 話は逸れますが、以前に「女たちの大英帝国」(井野瀬久美恵著、1989年、講談社現代新書)という本を読みました。それによれば、19世紀半ばのイギリスではヴィクトリア女王を模範とする家族道徳、つまり家庭の天子となることが女性に求められていましたが、現実には、男たちが次々と海外に出て行ったため、「女性余り」現象が生れており、結婚できない女性が増えてきたということです。その結果、女性たち自身が積極的に社会に関わったり、海外に出かけていくようになったということです。ナイチンゲールが海外で活躍した背景には、そうした事情もあったようです。そうした事情はともかく、この時代に勇気ある女性たちが、海外で大きな役割を果たしたことは、まぎれもない事実です。

 さらに話が逸れますが、1859年にサルデーニャ王国がイタリア統一戦争を開始しますが、ここでも多くの死者がでました。スイスのデュナンという人物が、たまたま戦場を通りかかり、その悲惨さに3日間寝食を忘れて、負傷者の救助に没頭します。彼は、戦場での負傷者たちの中には、すぐ手当をすれば助かる人々が沢山いるのに、そのまま放置されて苦しみながら死んでいくことは許されない、と考えました。そこで、彼は敵味方に関係なく、負傷者を救助するための国際的な組織と取決めが必要であることを訴え、やがて国際赤十字社が設立されます。ただ、ナイチンゲールは、もともと財政基盤のしっかりした組織の必要性を主張していましたので、このようなボランティア的な運動には批判的だったようで、彼女は赤十字社の設立には関わりませんでした。
















スイスの国旗
















赤十字
















赤新月


 ところで、赤十字社の標章を知らない人はいないと思いますが、「赤十字」はデュナンの祖国スイスの国旗の色を逆にしたものです。スイスの国旗の由来については、はっきりしませんが、「戦場の血と神」を意味するとか、「文明の十字路」を意味するとか、色々な意見があります。問題は、赤十字社を全世界に広めていく際に、特にイスラーム世界で十字の旗を掲げることに抵抗がありました。そこで、イスラーム世界ではイスラーム教のシンボルである「赤新月」の標章が認められました。実は、その他にも赤十字社の標章には何種類もあり、赤十字社が全世界に広がるには、多くの苦労があった分けです。


 話が完全に映画から外れてしまいましたが、それ程クリミア戦争は後の時代に大きな影響を残したということです。この映画は、興業的にはあまり成功しませんでしたが、私は色々な意味で興味深く観ることができました。なお、騎兵隊の戦闘場面では、あまりに多くの馬が怪我をしたため、以後こうした場面を撮ることが難しくなったそうです。


2016年1月6日水曜日

「時計と人間―アメリカの時間の歴史」を読んで


マイケル・オマーリー著(1990)、高島平吾訳 晶文社 1994
 本書は、機械時計は「与えられたものとしての時」と「自ら使いこなすものとしての時」という二重性をもった時であり、この二重の時がアメリカでどのように浸透していったかを論じています。本書は、高度な専門書ではではありますが、幾分コミカルなタッチで描かれており、大変面白い内容ではありますが、それでもかなり集中して読まないと、論理を追うことができませんでした。
 本書はまず、1826年以来コネチカット州ニューヘブンの町で起こった論争から始まります。この年に、役所は時計を据え付け、自分たちは規則正しい生活をしていることを世に示そうとしました。ところが、この町にあるもう一つの時計、イェール・カレッジの時計と少しずつズレていくことが判明しました。まず役所の時計が少しずつ遅れ始め、次に追いつき始め、さらに追い越すようになったのです。人々は混乱し、大論争が展開されました。神が造りたもうた「時」に間違いがあるはずがない。どちらかの時計が壊れているのではないか、そもそも神の創造物である「時」を機械で切り刻んでよいのか、などです。
 これは「時」とは何かという根本的な問題を孕んでいると同時に、時計という機械に遭遇した人々の最初の混乱でした。時計自体は古くからありましたが、それは修道院でのお祈りの時間を知らせたり、昼の時間を知らせたりする程度のもので、普通の人々が、少なくともこの村の人々が、身近に時を切り刻むのを目撃したのは初めてでした。結局、この「ズレ」が生じた原因は、イェール・カレッジの時計が太陽が真上に来たときを正午とする太陽時計だったのに対し、役所の時計は平均時(標準時)だったということです。ここで、一体どちらの時間を信じるべきなのか、という大論争が起きることになります。
 また、鉄道が西に向かって急速に伸びていくと、今度は時差の問題が起きてきます。鉄道で東西に30分載っているだけで、時差が発生します。では、鉄道の時刻表は、太陽時計(現地時間)に従うのか、標準時に従うのか。さらに工場で労働者が、決められた時間から決められた時間まで働くようになると、時間は売買の対象ともなります。また、20世紀に入って映画が普及すると、「普通のできごとの、予期される、常識的な時間感覚と過程を驚くべき効率をもって侵犯した。映画は通常のできごとのスピードと方向とを、両方とも変えてしまった-リンゴは上に向かって落ち、人々はあとずさりして歩き、花はまたたくまに無から生じ、砕かれた荒石が建物に舞い上がってもとの壁におさまる、という具合。」
 以上にあげた内容は、本書のほんの一部でしかありません。全体にこうした極めて興味深い話が語られています。時計が普及し、その時から時計と人間の戦いが始まる、という物語です。
 なお、本書の訳者解説に、興味深い内容が描かれていました。明治5(18721119)、政府は突如太陽暦に変えることを決定し、同年123日をもって明治6年1月1日とすることが決定されました。決定から実施まで、わずか14日しかなかったわけですから、議論の暇もありませんでした。しかし、政府の命令にも関わらず、かなり長い間123日に正月を祝う人はほとんどいなかったようです。私の祖母は明治生まれでしたので、ずっと旧正月を祝っていました。



2016年1月2日土曜日

映画「パルムの僧院」を読んで



1948年にフランス制作された映画で、1839年にフランスで出版されたスタンダールの同名の小説を映画化したものです。ナポレオン戦争直後のイタリアのパルマ(フランス語でパルム)を舞台としており、王侯貴族は復活し、民衆を抑圧し、自由主義運動が高まっていました。
















イタリアは、中世以来小さな独立国家が多数存在し、一時ナポレオンにより征服されますが、ナポレオン失脚後再び分裂してしまいます。映画の舞台は、そうした小さな独立国家の一つパルマ公国です。実は、ナポレオンはオーストリア-ハプスブルク家の姫マリー・ルイーズを妻に迎えますが、ナポレオン失脚後彼女にはパルマ公国が与えられたため、この小説の時代のパルマの支配者はマリー・ルイーズでしたが、小説ではまったく別の専制君主が支配していたという設定になっています。 
 スタンダールは、富裕な家庭に生まれ、ナポレオンの下で軍人となりますが、ナポレオン失脚後イタリアに渡り、イタリアで遊びまくったようです。この映画は、この時の経験に基づいていると思われます。文芸思潮としては、当時ロマン主義が全盛でしたが、感情表現を重視するロマン主義に対して、事実をありのままに描く写実主義が生れつつありました。この小説は、こうした写実主義の先駆的な作品の一つとされています。
 主人公は、当時23歳のファブリス(ファブリウス)・デル・ドンゴ侯爵で、幾分軽薄ではありますが、あまり憎めない、直情型で女たらしの、ハンサムな青年です。彼は、ナポレオンに憧れ、ワーテルローの戦いに参戦しますが、ほとんど戦わない内に負傷して逃げ帰ります。パルムでは、叔母であるサンセヴェリーナ公爵夫人ジーナの世話になり、彼女のコネで聖職者の身分を手に入れます。しかも彼女はファブリスを男として愛するようになりますが、彼はあちこちで恋をし、決闘までし、さらに人を殺してしまいます。
 ジーナは、頼りないファブリスの面倒をみ、彼女に対する大臣や大公の好意を利用して、ファブリスのために聖職者の地位を手に入れてやったり、彼が捕らえられると脱獄させたり、大公の暗殺まで行います。一方ファブリスは、牢獄の窓から監獄長の美しい娘クレリアを見つめ、幸福に浸っています。呑気なものです。それに対して、クレリアは侯爵夫人のファブリス脱獄計画を手伝うことになりますが、それは父を裏切ることを意味しましたから、神の前で二度とファブリスに合わないことを誓い、父が決めた婚約者と結婚します。しかし、結局二人は不倫を重ね、小説と映画では多少異なりますが、恋が成就されないことを知ったファブリスは、パルムの修道院で生涯を送ることになりました。
スタンダールの代表作「赤と黒」の主人公もそうですが、どうも彼が描く主人公は、自分の欲望な忠実な人物のようです。そして、その欲望のために身を滅ぼしていきます。「赤と黒」も映画化されているようで、私ははるか昔に原作を読んだのですが、映画は観ていません。むしろ「赤と黒」の方が、王政復古期のフランスを描いており、歴史的にはこちらの方が参考になったかも知れませんが、「パルムの僧院」も、ナポレオン失脚後のイタリアを描いており、それなりに参考になりました。



2016年1月1日金曜日

映画でV.ユーゴーを観て

ヴィクトル・ユーゴーについて

 ヴィクトル・ユーゴーは、19世紀に活躍したフランス・ロマン主義の代表的な作家で、すでに二十歳頃から名声が高まっていました。18世紀ヨーロッパの文芸思潮は古典主義と呼ばれ、古典古代を模範として理性や調和と均衡を重んじ、理性を重視する啓蒙主義が普及しました。ところが、こうした理性重視の風潮が生み出したのは、フランス革命とナポレオン戦争という大混乱でした。その結果、19世紀になると、理性より感受性や主観を、普遍的な国家より国民国家を、古代よりは中世を重視するようになります。ヴィクトル・ユーゴーの小説は、教条主義によって抑圧されてきた個人の独自性を描き出しています。ここで紹介する二本の映画「ノートルダムのせむし男」と「レ・ミゼラブル」には過去に何度も映画化され、日本でも大変よく知られているものです。

 なお、ロマン主義の人々は、教条主義に対する個人の解放だけでなく、専制支配に対する人間性の解放を目指しますので、しばしば政治に関わることがありました。ヴィクトル・ユーゴーも政治と深く関わり、七月王政時代のルイ・フィリップ国王から貴族院議員に任命され、第二共和政時代にも保守派の議員として活躍し、1848年の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを強く支持します。しかし、ルイ・ナポレオンが独裁を強めていくと、ユーゴーは激しく彼を非難し、その後19年間に及ぶ亡命生活を余儀なくされます。1870年の普仏戦争でナポレオン3世が失脚すると、ユーゴーは帰国を決意し、英雄としてフランス国民に迎えられます。彼は、その後も執筆活動を続け、1885年に死亡します。83歳でした。


ノートルダムのせむし男

1939年にアメリカで制作された映画で、1831年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ(パリのノートルダム)」を映画化したものです。
 まず、映画のタイトルについて、一言述べておきたいと思います。「ノートルダム」というのは、フランス語で「われらが貴婦人」、つまり聖母マリアのことを指しており、したがってノートルダムの名を冠した教会は世界中にあり、日本にもノートルダムを冠した大学が幾つかあります。そして、この映画ではパリのノートルダム大聖堂のことを指しています。ノートルダム大聖堂は、12世紀半ばから13世紀半ばにかけて、ほぼ1世紀かけて建設されました。高さ32.5メートル、9000人を収容できる広さがあり、この映画の舞台となった鐘楼には9つの鐘があります。そして主人公のカジモドは、この鐘楼守です。
 次に「せむし」ですが、これは「くる病」のことで、ビタミンD欠乏症による骨の石灰化障害です。主人公のカジモドは先天性のくる病のようで、彼はそのあまりの醜さの故に、生後まもなくノートルダム大聖堂の前に捨てられ、大聖堂で育てられ、そこの鐘楼守となりました。そして、当時26歳でした。ただし、「せむし」という言葉は、今日では差別用語となっています。この映画のタイトルが「せむし男」になっているため、日本語版ではそのまま訳したのだとおもいますが、原作のタイトルには「せむし」は用いられていません。
この映画のヒロインであるエスメラダは、ジプシーです。ジプシーは、今日差別用語として使用されませんが、北インドからヨーロッパに入ったジプシーはロマと呼ばれ、ここではロマという言葉を使います。ロマの出身ははっきりしませんが、北インドで歌舞音曲を生業とする下層カーストの集団と考えられています。いわば彼らは旅芸人で、11世紀頃から長い年月の間に少しずつ西へ移動し、その過程で地元の習慣や芸を取り入れ、独自の文化を形成していったようです。彼らは、15世紀初めにヨーロッパに出現し、しだいにヨーロッパの人々から、差別と偏見を受けるようになります。しかだって、この小説は、「せむし」と「ジプシー」とい、社会から排除された人々に光を当てている分けです。
ドラマの舞台となった時代は1482年のパリで、ヴァロワ朝のルイ11世の時代です。ルイ11世は、百年戦争を終結させたシャルル7世の子で、なかなか個性的な君主でした。彼は、権謀術数の限りを尽くして貴族勢力の弱体化に努め、また社会や経済の安定化に努めると同時に、知的好奇心も旺盛で、印刷術の普及に力を貸したり、珍しい動物を集めたり、さらに占星術に取りつかれるなど、変な君主でした。このルイ11世が、しばしば映画に登場します。印刷術に興味を示す場面があり、さらにロマの入国を認めたり、ヒロインのエスメラダの釈放を認めたりします。彼は、翌1483年に死にますので、映画に登場するのは、彼の晩年の姿です。
ドラマは、ノートルダムの醜い鐘つきカジモドが、美しいロマの娘エスメラダに恋をするという話です。エスメラダには別に好きな男性がいましたが、エスメラダに横恋慕する貴族がその男性を殺し、その罪をエスメラダになすり付けます。結局、エスメラダは裁判で処刑されることに決まりますが、ここから小説と映画とで内容が異なります。小説では、エスメラダは処刑され、何年か後に処刑台の近くの土の中から、若い女性と背骨が異様に曲がった男性が抱き合って、白骨化した死体が発見されました。あまりに悲惨な結末ですが、カジモドにとっては幸福な死だったのかも知れません。映画では、カジモドがエスメラダを救出し、エスメラダは好きな男性と抱き合って喜び、カジモドは「いっそ石になりたい」と言って、終わります。ほかの映画でも同じようなハッピー・エンドとなっているようですが、カジモドにとっては、こちらの方が不幸だったかもしれません。
 映画では、ノートルダム大聖堂を中心に、乞食や盗人の集団、大道芸人など、パリの最下層に生きる人々が描き出され、大変興味深く観ることができました。

レ・ミゼラブル

1998年にアメリカで制作された映画で、1862年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの同名の小説を映画化したものです。この小説については、数えきれない程の映画化・舞台化・派生作品があり、日本でも、すでに明治時代に「ああ無情」というタイトルで完訳されています。「レ・ミゼラブル」というのは、「哀れな人々」といった意味で、日本の児童用のアニメなどでは、主人公の名前をとって「ジャン・バルジャン物語」としている場合もあります。
ヴスクトル・ユーゴーは、1840年代になると文芸思潮がロマン主義から写実主義へ移行していったこともあって、10年以上ほとんど執筆していませんでしたが、亡命中の1862年に本書が出版されました。出版当日には本屋に長蛇の列ができ、労働者はお金を出し合って購入し、回し読みしたといわれます。本書はかなりの長編で、折に触れて当時の歴史が語られるとともに、多くの人々の人生が語られ、それらの人生がジャン・バルジャンの人生と深く関わって行きます。
まず、ジャン・バルジャンの一生を年代順に追ってみたいと思います。彼は、1769年に南フランスの貧しい農家に生まれ、1789年にフランス革命が起きますが、彼の生活は何も変わりませんでした。1795年、彼が25歳の時に、空腹のため1本のパンを盗んで逮捕され、懲役5年の刑を言い渡されますが、4回脱走を企て、その度に刑期を延長されて、結局19年間重労働を強制される徒刑囚として過ごすことになり、そこで人間としての誇りを徹底的に踏みにじられます。この間にナポレオンが権力を握りますが、彼には何の関係もありませんでした。そして1815年、彼が46歳の時、ようやく釈放されます。この年、ナポレオンが最終的に失脚し、ブルボン朝が復活します。
ドラマはここから始まります。釈放されても生活の糧もなく、ただ怒りと不安のみが彼を支配していました。まさに彼は「哀れな人」でした。たまたま通りかかった司教館で、彼はミリエル司教に手厚くもてなされ、久々に人間らしい生活に戻りますが、その夜彼は銀のスプーンを盗んで逃げだしました。翌日彼は逮捕されて司教館に連行されますが、司教は自分がスプーンを与えたのだと主張し、燭台も与えたのになぜ持って行かなかったのだと言って、彼に燭台も与えます。これは非常に有名な話で、児童書などでも取り上げられているものです。そしてこの時から、彼の人生が変わります。
1819年、彼は北フランスのある町でマドレーヌと名乗って工場を経営し、人望があったことから、国王ルイ18世により市長に任命されました。1823年、ジャン・バルジャンの運命は、再び大きく転換します。かつてジャン・バルジャンがいた刑務所の看守ジャベールが、この町の警察署長として赴任してきたのです。囚人は釈放の1年後に警察に報告しなければなりませんが、ジャン・バルジャンはそれをしなかったため、脱獄囚扱いとなっていました。彼は町を出る決意をしますが、その前に2つのことを行う必要がありました。一つは、病に倒れた不幸な女性の死を看取り、里親に預けたコゼットという少女を引き取ることです。もう一つは、別の町で全くの別人がジャン・バルジャンとして逮捕され、裁判にかけられようとしていたため、この囚人の無実を証明するため、自分が名乗り出る必要がありました。この2つの問題を処理した後、ジャン・バルジャンはコゼットとともにパリに移ります。
 パリで、二人は父娘として穏やかに暮らし、そして10年の歳月が流れます。しかしパリに赴任していたジャベールが、1832年にジャン・バルジャンを追い詰めて逮捕しようとします。しかし、今までのジャン・バルジャンの行動を見てきたジャベールには、ジャン・バルジャンを逮捕することができませんでした。ジャベールは両親が刑務所の囚人であったため、刑務所で生まれ、成人後は看守となり、刑務所の外のことを何も知りませんでした。彼にとっては、法が絶対であり、法を守ることが自分の義務だと信じてきました。しかし、ジャン・バルジャンを見逃すということは、自ら法に背くことであり、彼はそのような自分を許せず、自らを罰するために自殺します。彼もまた「哀れな人」でした。
 小説では、さまざまな人間模様が描き出され、様々な「哀れな人々」が登場しますが、映画では、ジャン・バルジャンとジャベールの物語を中心に語られます。それでも、映画は充分ダイナミックであり、感動的でした。