2015年5月6日水曜日

「酒池肉林 中国の贅沢三昧」を読んで

井波律子著 1993年 講談社現代新書
 酒池肉林とは、殷の最後の君主紂王の放蕩三昧の生活を表現したもので、紂王に代表される中国の贅沢三昧の例を多数紹介するとともに、その特色と意味を述べています。なお 紂王については、このブログの「映画で中国史を観る 封神演義」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4967.html
を参照して下さい。
 贅沢はなぜ行われるのか。権力者の場合、「権力が強化されればされるほど、彼らの心には逆に、いかにしても埋めることの真空状態が徐々に広がっていく。独裁者の内なるブラック・ホールともいうべきこうした心の空洞をなんとか埋めようと、皇帝たちは、けばけばしい奢侈の物量作戦をエスカレートさせていくのだ。」ということだそうです。権力者が物量の多さや絢爛豪華さに贅沢を求めたとするなら、六朝時代以降の貴族たちは、質的な贅沢、精神的な贅沢を求めます。

 その他に、商人たちの贅沢、権力から逃れることの贅沢など、さまざまな贅沢について述べられており、大変興味深い内容でした。確かにこうした贅沢は無駄としか言いようがありませんし、そうした贅沢を可能にするには、多くの人々からの搾取が不可欠だったことも間違いないでしょう。ただ同時に、こうした無駄な贅沢が文化の発展に大きく貢献してきたことも事実だろうと思います。

2015年5月2日土曜日

映画で古代ギリシアを観て(2)

インモータルズ -神々の戦い-

 2011年にアメリカで制作された映画で、ギリシア神話を題材としています。「インモータル」とは「不死」とか「神」といった意味で、複数形なので「神々」といった意味だと思います。ここでいう「神」とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教でいうような絶対的な神ではありません。ギリシア神話における神々は、人間と同じように感じ、考え、生活する神であり、もちろん人間よりはるかに大きな能力を持ちますが、人間との決定的な違いは「不死」であるという点だけです。
 ギリシア神話によれば、最初に混沌=カオスがあり、やがて大地=ガイアが現れ、天=ウラノスと交わってさまざまな神々が生み出されます。その子クロノスはウラノスを追放して王となり、さらにクロノスの子ゼウスがクロノスを追放して王となります。一方、クロノスの兄弟姉妹たちはタイタン(ティーターン)と呼ばれ、クロノスは彼らを使ってゼウスとその兄弟たちと戦争します。結局ゼウスたちが戦争に勝ち、ゼウスはタイタン一族をタルタロスと呼ばれる冥界に閉じ込めます。こうしてゼウスを頂点とする神々の秩序が形成されますが、それを確固たるものにする前に、もう一つの凄まじい戦いが行われることになります。
 映画はここから始まります。ハイペリオンという人間の君主が、妻子が死んだことに怨みを抱き、タイタン一族を解き放って神々に復讐しようとしたのです。タイタン一族を解き放つには、エピロスの弓という強力な弓でタルタロスの扉を破らねばならないため、ハイペリオンは、村々を襲って弓を捜し始めました。時は、紀元前1228年ということになっていますが、この年号にどういう意味があるのか分かりません。丁度トロイア戦争の頃に当たります。いずれにしても、この限りでは人間同士の戦いであり、神が手を下すことはできません。そこでゼウスは、テセウスという青年に戦いを委ねます。
 初めテセウスは神を信じていませんでしたが、色々あって神を信じるようになり、ハイペリオンと戦います。しかしハイペリオンはエピロスの弓を手に入れ、タイタン族を解放してしまいます。ここで神々が介入し、タイタン族と神々との凄まじい戦闘が展開され、アテナイやポセイドンが戦死しますが、ゼウスはタイタン族の封じ込めに成功します。アテナイやポセイドンは神(インモータル)であり、彼らは不死(インモータル)のはずなのに、死んでしまいました。この辺の事情はよく分かりませんが、テセウスもハイペリオンを殺し、自らも死にますが、その功績により神となります。

 神々とタイタン族との戦いは、ギリシア神話でよく語られていることですが、映画における話の大部分は創作かもしれません。神々によるタイタン族との戦いは、多分ギリシア人による先住民族の征服過程が神話化されたものと思われます。丁度日本の「古事記」や「日本書紀」のようなものではないかと思います。

300 〈スリーハンドレッド〉

2007年にアメリカで制作された映画で、紀元前5世紀におけるペルシア戦争でのテルモピレー(テルモピュライ)の戦いを扱っています。
 8世紀頃ギリシア各地にポリスが誕生し、それぞれ独立性が高く、制度的にも微妙に異なっていました。その中でも異色だったのは、スパルタです。スパルタでは、虚弱な新生児は山奥に捨てられ、男子は7歳になると家庭から離されて共同生活を送るようになり、日々厳しい肉体的な訓練と軍事的な訓練を受けるようになります。18歳になると成人と見做されますが、それでも共同で食事をし、妻をもっても夜は兵舎で過ごさねばなりませんでした。一般にスパルタ教育として知られる、このような特異なシステムがなぜスパルタで形成されたのでしょうか。
 一言で言えば、スパルタは先住民であるアカイア人をヘイロタイと呼ばれる奴隷とし、彼らの搾取の上に成り立っていたからです。スパルタによる奴隷支配は過酷を極めたため、しばしば奴隷が反乱を起こしました。当時ヘイロタイの数は15万から25万とされ、それに対して成人スパルタ人の数は8千から1万で、家族を含めても5万程度でした。したがってスパルタ人は奴隷反乱に対処するため、まったく労働することなく軍事訓練に明け暮れ、ヘイロタイの家に盗みに入ったり、彼らを殺したりすることが推奨されたとされます。

 ギリシアで、多くの都市国家が成立し、都市国家同士、都市国家内部で争っている頃、東方では巨大なアケメネス朝ペルシア帝国が成立しており、全盛期を迎えていました。そのペルシアがギリシア征服に動き出したわけですが、その背景については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第6章 古代帝国の成立」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/6.html)参照して下さい。ただ、いろいろな理由はあったにせよ、破竹の勢いのペルシアが、西の端にほんの少し領土を広げようとした、ということだと思います。紀元前490年に、ダレイオス1世がギリシアに軍隊を派遣しますが失敗に終わり、ついで紀元前481年にクセルクセスが自ら軍を率いてギリシアに向かいます。これがこの映画の舞台です。
 ヘロドトスによれば、この時のペルシアの軍隊は200万を超えたとされますが、最近の研究では2030万程度とされています。当時ギリシアではペルシアと戦うことに反対する者が多かったようですが、スパルタの王レオニダスは300の精鋭を率いて出陣します。この他にスパルタ側には、各国の援軍が加わり、7000程度になっていたとのことです。かくして480年テルモピレーの戦いが始まります。戦闘は3日間続き、スパルタ軍は全滅しますが、この間にアテネはサラミスの海戦の準備をすることができました。
 映画の後半はほとんど戦闘場面で、かなり血みどろの場面が続きますので、私の好みにはあいません。スパルタ人たちは鋼鉄のような筋肉を持ち、生きた戦闘マシーンのようでした。映画はほとんどスタジオで作製され、背景などはほとんどCGだそうですが、それなりによくできていました。結局、この映画の目的は、戦闘マシーンによる戦闘場面を描き出すことだったのかもしれません。
 ところで映画では、しばしば「自由のために戦う」という言葉が出てきますが、これはアメリカ人が好きな言葉です。かつては、ペルシア戦争の勝利は、アジアの専制支配に対するヨーロッパの民主主義の勝利であると言われました。しかし、奴隷制が存在するギリシアに民主主義や自由を語る資格があるのでしょうか。ペルシアでさえ、スパルタ程過酷な奴隷制は存在しなかったでしょう。結局ペルシア軍は撤退しますが、ペルシアからすれば、これ以上の犠牲を出して貧しいギリシアを征服する意味がなかったのではないでしょうか。8世紀にイスラーム勢力がフランク王国に侵入し、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗北した後イベリア半島に撤退しますが、彼らイスラーム勢力にとっても、これ以上の犠牲を出して貧しいフランク王国を征服する意味がなかったからではないでしょうか。

 結局、古代ギリシアについて、あまり良い映画には出会えませんでした。私に発想の転換を迫るような、斬新な映画はないのでしょうか。


2015年4月29日水曜日

「中国漫画史話」を読んで

畢克官(ひつ こくかん、1982年) 落合茂訳 1984年 筑摩書房
 タイトルの通り、中国の漫画の歴史を扱ったものです。まず、問題は漫画とは何かということが問題となります。ウイキペディアによれば、「漫画は、現時性と線上性とが複合した一連の絵である。現時性とは「その全てを一望して把握できること」、線上性とは「流れの中で部分を辿り、把握していくこと」である」ということですが、今一よく分かりません。著者は、風刺画すなわち漫画とはいえないと述べ、漫画の特徴は構想方法と表現方法の特殊性にあると述べていますが、これも今一分かりません。もともと中国には「漫画」という表現はなかったようで、この表現を明治時代の日本から学んだそうです。では日本の「漫画」は何に由来するのでしょうか。どうも葛飾北斎の「北斎漫画」にあるようです。「北斎漫画」は絵による随筆といわれ、「気の向くままに漫然と描いた画」という意味だそうです。





 中国で漫画が盛んになるのは辛亥革命前後ころからだそうですが、それ以前にも、数は少ないけれども、中国には漫画の古い伝統があるのだそうです。この絵は、明代に描かれた「一団和気図」という絵です。大まかに見ると、目を細めて笑っている人の姿が一個の球体にまとめられています。しかし、仔細に見ると三人の人が抱き合って一団となっており、さらに一つの顔が三つの顔で構成されています。この絵は、中国ではよく知られているある故事を描いているのだそうです。「晋代に慧遠(えおん)という高僧がいて盧山の奥深いところに住まいし、外出を嫌い、訪客を送るときも、すぐ近くの虎渓の手前までしか行かなかった。あるとき陶淵明と道士陸修静が訪ねてきた。三人はたちまち意気投合し、時のたつのも忘れて歓談した。慧遠は客を送りながらもなお話に熱中し、つい虎渓を渡ってしまった。これに気づいた時、三人は思わず顔を見合わせて、大いに笑い止まるところを知らなかったという。」要するに、儒教、道教、仏教という三つの異なった信仰をもつものが、ともに歓談しうるといことに感銘して描かれた絵です。そこにはストーリー性や思想性があり、決してこの絵が単なる戯画ではないことを示しています。
  
 辛亥革命後、反帝国主義闘争の啓蒙を目的とした漫画が多数発表されました。魯迅も、漫画の重要性を繰り返し強調しています。一目でストーリーも情感も思想も理解できるような漫画が、人々にいかに強烈な印象を与えるかということを、この絵が示しています。この絵は、孫文の「革命いまだ成功せず」という悲痛な叫びを描いています。















2015年4月25日土曜日

映画で古代ギリシアを観て(1)

はじめに
 ホメロスの叙事詩に関する三本の映画を紹介したいと思います。ただその前に、ホメロスと彼が吟唱したトロイア戦争についてふれておく必要があります。結論から先に言えば、どちらについても、歴史的に証明されていることは、非常に少ないということです。

 ホメロスは、8世紀末頃ころのギリシアで「イーリアス」「オデュッセイア」を吟遊した盲目の詩人です。しかし、まずホメロスの実在そのものが証明できないし、「盲目」というのは、当時の詩人のステイタス・シンボルのようなものなので、これもはっきりしません。また上記二大叙事詩をホメロスが創作したかどうかも分かりません。多分、長い年月の間に様々な詩人によって造られてきたものを、ホメロスが集大成したのだろうと考えられます。なお、上記二大叙事詩は朗誦されたものであり、これらが文字化されるのは、前7世紀から前6世紀ですので、この文字化の過程でも、変更が加えられたと思われます。こうした問題があるとしても、ここでは一応、二大叙事詩は8世紀末頃にホメロスによって創作されたということにしておきましょう。

次に、トロイア(当時はイリオスと呼ばれていました)という都市は存在したのか、トロイア戦争は実際に行われたのか、行われたとすれば、それは何時かという問題です。トロイアの存在は19世紀末のシュリーマンの発掘によって確認されました。しかし、これが「イーリアス」の舞台となったトロイアかどうかは、確定されていません。そもそもトロイア戦争なるものはあったかのか。ウイキペディアによれば、トロイア戦争は「紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた出来事を核として形成されたであろう神話である」とされています。ただ、紀元前1250年頃に大規模な戦争があったとされており、一般にはこれがトロイア戦争ということになっているようですが、これも基本的には仮説の上に成り立った推測です。
 この戦争が起こったとされる時代は、ミュケナイ時代の末期にあたります。ミュケナイ文明はギリシアのミュケナイを中心に発展した高度な文明ですが、その文明がオリエントの強い影響を受けていたことは間違いありません。ミュケナイから見れば、オリエントは富と文明の象徴であり、ミュケナイが憧れのオリエントに侵略しようとしたことは在り得ることで、トロイア戦争もそうした戦争の一環だったと思われます。
 ところが、トロイア戦争が終わってまもなく、紀元前1200年頃、東地中海一帯が大混乱に陥ります。一般に「紀元前1200年のカタルシス(破局)」と呼ばれているものです。このカタルシスが何故起き、どの様なものだったかについては、意見が多すぎて紹介し切れません。また、これをきっかけに「暗黒時代」と呼ばれる時代が数百年つづきますが、その実態もよく分かりません。この時代が本当に「暗黒時代」だったのかについても異論があり、むしろこの時代について何も知らない我々が「暗黒」なのではないか、とさえ言われています。

 いずれにせよ、紀元前8世紀にギリシアの各地にポリスが形成され、ミュケナイ文明とは異なる「ギリシア文明」が形成されてきます。このギリシア文明の形成の出発点となったのが、ホメロスの二編の叙事詩です。そこで、この叙事詩の内容を、映画を通じてみていきたいと思います。

トロイのヘレン
 2003年に制作されたアメリカのテレビ・ドラマです。ホメロスの「イーリアス」は、10年に及ぶトロイア戦争の最後の年を扱っているだけですが、このドラマは戦争の原因から始まって、経過と結末を時代順に描いているため、内容的に分かりやすいと思います。ドラマでは、スパルタの王女ヘレネー(ヘレン)とトロイアの王子パリスとの運命的な恋、トロイアの姫カッサンドラーの予言、ミュケナイの王アガメムノーンの野心などが描かれます。
 パリスはトロイアの第二王子として生まれますが、彼の姉で予知能力があるとされるカッサンドラーが、この子はやがてトロイアを滅ぼすと予言したため、彼は山に捨てられて山羊飼いとして育てられます。彼は成長すると三人の女神から、三人の内最も美しいのは誰か選ぶよう求められます。一人の女神は自分を選べば富を、もう一人は王座を、そしてもう一人は世界一の美女を与えると約束し、彼は美女をもらうことを選びました。それがヘレネーです。やがてパリスの身分が明らかとなり、王宮に戻り、使節としてスパルタに派遣され、そこでヘレネーと出会います。
 一方、ヘレネーはスパルタの王女として生まれ、絶世の美女だったそうです。彼女への求婚者がギリシア中から集まったため、婚約者を籤で選ぶことになりました。その際、外れた者が怨みを持たないように、誰が選ばれても、その男が困難な状況に陥った場合には、全員がその男を助ける、という約束をします。そしてアガメムノーンの弟メネラーオスが選ばれ、彼がヘレネーと結婚してスパルタ王となります。そこへパリスがやってきて、ヘレネーは彼に一目ぼれし、そのままトロイアへ逃亡します。ヘレネーがトロイアに現れた時、カッサンドラーは再びトロイアの滅亡を予言します。こうしたことから、カッサンドラーという名前は、今日でも「不吉・破局」といった意味で使われるそうです。
 いずれにしても、ここで「全員が助ける」という約束が果たされることになります。ヘレネーを取り戻すため、アガメムノーンを総大将として、総勢10万、1168隻の大艦隊がトロイアに向かうことになります。この遠征には、エーゲ海の覇権を握ろうとするアガメムノーンの野心があったとされ、オデュッセウスやアキレウスは参加したくなかったのですが、結局断りきれず参加することになります。いよいよ出発の準備が整いましたが、逆風が吹き続け、なかなか出帆できません。ところがアガメムノーンの娘を生贄にすれば風向きが変わるというお告げを受け、アガメムノーンは苦悩の末、娘を生贄とします。これに怨みを抱いた妻は、戦後、帰国したアガムノーンを殺害することになります。
この戦いは10年を要し、神々もそれぞれの側について対立します。そして10年目が訪れる分けですが、これは次の映画で述べたいと思います。
 

 この映画で語られていることは、欧米の人ならほとんどが知っている内容だと思います。ただ、誰に焦点を当てるかで、それぞれの性格付けが異なってきます。映画では、ヘレネーは野性的で天真爛漫な少女として描かれますが、やがて運命に翻弄されて悲劇の女性へと変わっていきます。パリスは、自分のせいで戦争が起きた割には、平然としています。アガメムノーンは、傲慢で非情、所有欲の強い男として描かれます。また、アキレウスは、なんとスキンヘッドの凶暴な男として描かれていました。全体に、一貫性も深みもない映画でしたが、内容を整理するには役立つ映画でした。

トロイ

2004年にアメリカで制作された映画です。この映画は、トロイア戦争についての若干の前史が描かれますが、後はホメロスの「イーリアス」と同様、戦争が始まって10年目におけるアガメムノーンとアキレウスとの対立が中心となって描かれます。ただ、この映画は、ホメロスの「イーリアス」とはかなり異なっており、「イーリアス」を題材とした創作ものというべきです。
アキレウスの母は海の女神テティスとされ、彼女は息子を不死の体にするために冥府を流れる川の水に息子を浸しましたが、そのとき、テティスの手はアキレウスのかかとを掴んでいたためにそこだけは水に浸からず、かかとのみは不死身となりませんでした。これが後にアキレス腱と呼ばれるものです。ギリシア神話には、アキレスのように女神から生まれた者、神が人間の女に生ませた者が沢山おり、それは神話と現実の世界との境界が不明朗だった時代であるとともに、私などには不倫の結果生まれた子についての言い訳のように思えます。
 アガメムノーンとアキレウスが対立するようになった事情はかなり複雑ですが、結論だけ言えば、アガメムノーンがアキレウスが戦利品として得た女性ブリセイスを奪い取ろうとしたからです。怒ったアキレウスは戦線から離脱してしまい、戦争はギリシア側が不利となります。そうした中で、パリスとメネラーオスとの一騎打ちも行われますが、決着がつきません。映画では、この時メネラーオスがトロイアの第一王子ヘクトールに殺されますが、「イーリアス」ではメネラーオスは生きてトロイアを去ります。
 戦争はギリシアが劣勢となりますが、ここでアキレウスが再び戦闘に参加します。理由は、彼が可愛がっていた甥が戦闘中にヘクトールに殺されたからです。アキレウスはヘクトールに決戦を挑み、ヘクトールを倒して彼の遺体を戦車で引きずりまわします。しかしアキレウスはヘクトールの父の懇請で遺体をトロイアに帰し、「イーリアス」はヘクトールの盛大な火葬の儀式の中で終わります。それは後継者の死んだトロイアの滅亡を象徴する事件でした。
 その後アキレウスはパリスの放った矢によって踵を射抜かれて死亡し、パリスもまた戦闘中に死にます。こうした中で、ギリシア軍で最も聡明なオデュッセウスが一計を案じます。つまり「トロイアの木馬」の経略です。ギリシア軍を一旦撤退させ、その後に巨大な木馬を残し、中に何人かのギリシア兵が隠れ、夜中に木馬から出て、トロイアを内側から滅ぼすというものです。今日でも、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指して「トロイの木馬」と呼ぶことがあり、インターネットのウィルスにも「トロイの木馬」というのがあります。映画ではこの時の戦闘でアキレウスが死ぬことになっています。作戦は成功し、トロイアは炎上し、男たちは殺され、女たちは奴隷とされました。それはミュケナイ文明の終焉を予告するような光景でした。
 勝利したギリシアの男たちの運命も過酷でした。アガメムノーンは、映画ではヘレネーに殺されますが、「イーリアス」では帰国後妻に暗殺され、オデュッセウスは10年も海を漂流します。ただ、ヘレネーとメネラーオスは寄りを戻し、帰国して静かに暮らしたとのことです。結局この戦争は何だったのでしようか。この戦争後100年もたたないうちにミュケナイは廃墟となります。トロイア戦争は、ミュケナイ文明滅亡過程の一環だったのかもしれません。
この映画は、英雄アキレウスとアガメムノーンに奪われた人質の女性ブリセイスとの愛を描いたもので、結局二人とも死んでしまいます。したがって、この映画はホメロスの「イーリアス」とはかなり内容が異なるため、この映画に対する評価はあまり高くありませんでしたが、「イーリアス」をよく知る欧米人はともかく、ほとんど基礎知識のない私にとっては、些細な相違はどうでもよいことで、映画そのものは面白く観ることができました。


 その後形成されるギリシア文明は、ホメロスの二大叙事詩から流れ出したといっても言い過ぎではありません。事実、紀元前5世紀頃多くの悲劇が創作されますが、その多くがこれら叙事詩から題材を得ています。したがって、ヨーロッパ文明の源流も、この二大叙事詩にあると言えるでしょう。

オデュッセイア/魔の海の大航海

1997年にアメリカで制作されたテレビ映画です。ホメロスの「イーリアス」の続編にあたり、オデュッセウスの苦難の帰国の旅を描いています。「イーリアス」においては、アガメムノーンは冷酷な野心家、アキレウスはずば抜けた戦士として描かれますが、オデュッセウスは言わば智将として描かれます。木馬を考案したのも、オデュッセウスでした。こうして10年の歳月を経ていよいよ帰国するわけですが、その帰国に10年の歳月を要することになります。
 ここでも、事の起こりは神でした。オデュッセウスは、ゼウスに次いで力のある海の神ポセイドンを怒らせてしまったのです。理由は、トロイアの勝利に対して、オデュッセウスがポセイドンに感謝しなかったからだというのです。オデュッセウスは、各地の海を放浪し、多くの困難に遭遇し、それを知恵と勇気で切り抜けます。そこでは、さまざまな神々が登場し、ギリシア神話に関心のある人には興味深いと思いますが、私は少し退屈しました。
 一方、オデュッセウスの故郷でも大変でした。彼の故郷はイタカーという島で、今日ギリシア西方に同名の島がありますが、これが彼の島であったかどうかは、はっきりしていないようです。彼はこの国の王であり、子供が生れた直後にトロイアに出陣して以来、20年間不在だった分けです。オデュッセウスはすでに死んだものと思われ、多くの男たちが彼の王位と財産を狙って彼の妻ペネローペに求婚し、彼女もしだいに断りきれなくなっていました。そうした絶望的な状況の中で、オデュッセウスが帰国し、求婚者たちを倒して、ハッピーエンドとなります。

 「オデュッセイア」という一大叙事詩が、人々に何を伝えようとしているのか、私にはよく分かりません。ただ私に伝わったのは、一つは当時の海上航行の危険性です。地中海は一見静かな内海のように見えますが、冬の疾風が吹く季節には、風向きは激しく変化し、予想もつかない逆波や横波が生じるため、この時期の航海は困難です。また、多くの神々が人間に関わってきますが、オデュッセウスはそれを神の意志だからと諦めることなく、敢然と立ち向かいました。そもそも彼はポセイドンの意志に逆らって船出し、さまざまな苦難に遭遇しますが、彼はそれらを理性と勇気によって克服していきます。紀元前13世紀のオデュッセウスの時代には、まだ人間と神々の境界は不明確でしたが、紀元前8世紀頃のホメロスの時代には、人間は神々を尊敬しつつも、しだいに人間の意志や理性の果たす役割が大きくなっていきます。そしてこの叙事詩の作者と見做されるホメロスは、紀元前8世紀の人ですから、当然叙事詩には彼が生きた時代が繁栄されていたはずです。トロイア戦争からホメロスの時代までの空白の時代に、一体何が起きたのでしょうか。


2015年4月22日水曜日

「図説 漢字の歴史」を読んで


阿辻哲次著 1989年 大修館書店

甲骨文字が生み出されてから今日に至るまでの、3千年以上に及ぶ漢字の歴史が、多くの図版を用いて、非常に分かりやすく述べられています。中国の歴史にはいつも驚かされることばかりですが、最も驚くべきことは、やはり漢字の発明だと思います。象形文字や楔形文字は忘れ去られ、それを基に生まれた文字は別の言語で用いられましたが、漢字は3千年以上前に発明されてから今日至るまで、基本的に同じ言語で用いられてきました。このような例は、他にはないのではないかと思います。甲骨文字が発見されてから、数十年の内に、甲骨文字はほぼ完全に解読されてしまいますが、その理由は、甲骨文字は基本的に現在使用されている文字と同じだからです。





























 また甲骨文字の発明や発見・解読に関して、多くのエピソードが語られており、大変興味深いものでした。太古の帝王の時代に、蒼頡(そうけつ)という記録係が、鳥や獣の足跡をヒントに甲骨文字を発明したという伝説があります。確かに甲骨文字は、鳥や獣の足跡に似ていなくは在りません。言い伝えによれば、彼は観察眼が非常に鋭く、目が4つあったとされます。もちろんこれは伝承にすぎませんが、彼より1500年以上後の漢代に描かれた彼の肖像画には、目が4つ書かれています。こういう人物を「文化英雄」と呼ぶのだそうですが、そういう意味ではギリシアのホメロスなども「文化英雄」と呼べるのではないでしょうか。
 象形文字や楔形文字と同様、甲骨文字についても絵から文字への転換の過程を正確に跡付けることはできませんが、甲骨文字から現代の漢字に至る過程については、本書でも、多くのエピソードとともに詳しく述べられており、大変参考になります。漢代に著された「説文解字」は、漢字の成り立や部首による分類を行っており、この著作こそが漢字文化の発展に大きく貢献することになりました。

 本書では「紙」についても述べられています。後漢の蔡倫以前に紙があったかどうかつにいて、物を包んだりするためのものとして類似した材質のものはあったとしても、文字を書くためのものとしての「紙」は存在しなかったとのことです。また「紙」の発明が、文字文化の在り方に決定的な役割を果たします。「それまでの文字を書くための素材は、(原則的には)すべて文字を書こうとする者が自ら材料を調達し、加工したものであり、他所から買ってくるというような性質のものではなかった。しかし紙は文字を書こうとする者が自分で作ったものではない。紙の製造には大きな設備と労力を必要とするから、……個人では紙の製造はまず不可能である。だから紙を使う記録者は、誰かが作った紙を買うなどして手に入れ、それに文字を書いたのである。逆にいえば、紙は記録者以外の人によって作られ、また販売されるという形態をとった初めての素材であった。このような形態の確立によって、誰でも金さえ出せば文字書写の素材を入手できるという状態が出現したのである。この点でも紙は文字そのものが広範囲に普及することに大きく作用したことと思われる。」


2015年4月18日土曜日

映画でアフリカを観て(4)

アルジェの戦い
   
 1966年にイタリアで制作された映画で、1950年代におけるアルジェリアの独立戦争を描いています。



















アルジェリアは、1830年にフランスの侵略を受けて以来フランスの植民地となりますが、アルジェリアの場合他の植民地とは異なり、特異な位置づけがなされました。一般に植民地では、形式的とはいえ現地人による行政府が置かれるのが普通ですが、アルジェリアの場合本国同様の行政単位=県が置かれ、コロンと呼ばれる入植者は本国政治に関与することができました。つまりアルジェリアは行政上、植民地というより、フランスに編入されたのです。もちろんその際、在来のアラブ人やベルベル人は一切権利が与えられませんでした。
その結果多くのヨーロッパ人が入植し、肥沃な土地はほとんど彼らコロンによって奪われ、ブドウを中心としたプランテーション経営が進められました。第一次世界大戦が終わった頃、アルジェリア人口600万弱のうち70万強がヨーロッパ人となっていました。第二次世界大戦後独立運動が高まったため、フランス政府はアルジェリアに自治を与えようとしますが、特権を維持することを望むコロンが激しく反発したため、アルジェリア人はゲリラ闘争を本格化させます。一方、フランスはヴェトナムでの戦いに敗れ、1954年にヴェトナムの独立を認め、さらにアルジェリアの隣のモロッコとチュニジアの独立を認めます。
しかしアルジェリアには多くのフランス人が住み、財産を築いていますので、容易に独立を認めることができませんでした。こうした中で、1954年からアルジェリア人はテロ闘争を展開するようになります。映画は、この時代の首都アルジェにおけるテロ活動とそれに対するフランスの対応を描いています。テロ組織は極めてよく組織されており、警察は彼らの動きに翻弄されます。これに対してフランスは軍隊を投入し、徹底的に組織の壊滅を図り、結局1957年に組織のリーダーが殺されて、アルジェの戦いは終わります。この映画は、テロ活動とその弾圧の教科書とさえ言われ、広く人々に鑑賞されました。

その後も独立戦争は続き、独立に反対するコロンや現地軍人たちがクーデタを起こし、本土征服さえ企てるようになります。こうした中で、事態の収拾のために、1959年に第二次世界大戦の英雄ド・ゴールが大統領に就任します。コロンたちはド・ゴールに独立運動の弾圧を期待したのですが、コロンたちによるアルジェリアでの残虐行為に対する国際世論の批判が高まっており、またフランス国内でも独立を支持へする世論が高まり、結局ド・ゴールは1961年にアルジェリアの独立を承認します。これに対して、現地軍やコロンは暴動を起こしたり、テロを行ったりして、アルジェリアは大混乱に陥ります。そうした中で、100万人ものヨーロッパ系アルジェリア人がフランスに移住することになります。

その後フランス政府は忘却政策を行い、アルジェリア戦争に関する報道を規制し、そこで行われた非道な行為を覆い隠そうとしました。1990年代になってようやく、アルジェリア戦争に関する事実が報道されるようになりますが、「言論の自由の国」フランスが、聞いて呆れるような話です。また、今日広く言われている「残虐なるテロ」という言葉を、当時のアルジェリア人の活動に当てはめることができるのでしょうか。彼らには、フランスの暴虐に対抗する手段が、それしかなかったのです。


 「ジャッカルの日」(1973年、イギリス・フランス)という映画があります。この映画は同名のスリラー小説を映画化したもので、アルジェリア独立反対の秘密軍事組織によるド・ゴール暗殺計画を描いたもので、非常に緊迫感あふれる映画です。この映画で語られている内容は創作ですが、実際にド・ゴール暗殺計画は何度も試みられたとのことです。















神々と男たち


2010年にフランスで制作された映画で、実際に起きた事件を扱っています。その事件とは、1996年にアルジェリアにあるティビリヌ修道院の7人の修道士が誘拐され、殺害された事件です。
 アルジェリアは独立後社会主義政策を採り、周辺諸国と幾つかの国境紛争はありましたが、比較的安定した政権が維持されていました。しかし、アラブ人と少数派のベルベル人との対立や宗教勢力が増大したため、1889年に複数政党制が認められ、1991年に選挙が行われてイスラーム主義政党が圧勝しました。ところが翌年軍部がクーデタを起こし、選挙結果を無効としたため、イスラーム主義の過激派であるイスラーム救国戦線との間に、10年にわたり内戦が続きました。この間にイスラーム主義勢力はアルカイーダとの関係を深め、テロ活動など過激な行動を行うようになります。そして、事件が起きたのは、こうした時代でした。
 ティビリヌ修道院は、アルジェから90キロほど南に行った小さな修道院で、自給自足の生活をし、地元の農村とも溶け合って暮らしていました。映画の大半は、修道士たちの単調な日常生活を描いています。しかしこの平穏な村にも内戦が波及しつつあり、修道士たちはアルジェリア政府から退去命令を受けていました。修道士たちは、どうするか何度も議論を重ねましたが、結局ここに留まることは神の意志であるとして、留まることになりました。そして1996年にイスラーム主義の軍事集団が修道院を襲い、7人の修道士を誘拐しました。犯人は過激派の釈放を要求し、政府が拒否したため、2か月後に修道士たちは殺害されました。発見されたのは頭部だけです。この事件については、イスラーム主義者たちの評判を落とすために、アルジェリアの政府か軍部が行ったのではないか、という憶測が存在しますが、真偽のほどは不明です。
 いずれにしても、この事件について私はどう考えてよいのか分かりません。第一、アルジェリアの修道院で暮らす修道士たちの気持ちは、私には分かりません。ただ、人間にはさまざまな生き方があり、修道士たちはそれぞれの事情から神への奉仕の道を選んだのでしょう。また、イスラーム武装集団の気持ちも分かりません。ただ、欧米的価値観に踏みにじられてきた人々の激しい怒りを感じるのみです。その後のアルジェリアでは、一応内戦も終わり、2009年には19年間維持されてきた国家非常事態宣言も解除され、最近不安定が続く中東諸国の中では、比較的安定した国の一つとされています。
 ただ、2013年にリビア国境に近いイナメナス付近の天然ガス精製プラントにおいて、アルカイーダ系の武装勢力による人質拘束事件が起きました。この事件で、日本人10人を含む8か国200人近い人が人質となり、武装集団はイスラーム系過激派の釈放を要求しました。まもなくアルジェリア軍が現地を攻撃して武装集団を制圧しましたが、8カ国の合計37名が死亡し、その中に日本人10名が含まれていました。
 こうした事件を、私はどのように捉えたらよいのか分かりません。現在、中近東の混迷とともに、アフリカ内陸部でも、何か重大な変化が起きつつあるように思われます。



ラストキング・オブ・スコットランド


2006年にイギリスで制作された映画で、1970年代にウガンダの独裁者だったアミンという実在の人物を扱っています。



















 ウガンダは、ナイル川の源流であるヴィクトリア湖の北岸にあり、赤道直下に位置しながら、標高が高いため比較的温暖で、肥沃な土地が広がっています。16世紀頃から色々な王国が栄え、ザンジバルとの交易で繁栄しました。19世紀末にイギリスの植民地となり、1962年にイギリス連邦の一員として独立します。1966年にオボテ大統領が社会主義路線を打ち出したため、イギリスはアミンにクーデタを起こさせ、彼に政権を握らせます。そしてこのアミンの時代に、最悪の独裁政治が行われることになります。
 幼少時のアミンについてはほとんど分かっていませんが、1925年頃に生まれ、1946年にイギリス植民地軍の炊事係として雇われます。彼は193センチメートルという長身で、一時ボクシングのヘビー級チャンピオンだったことがあります。ウガンダ独立後、オボテに協力して参謀総長となり、1971年にクーデタで権力を握ります。彼は、西側諸国から左翼政権の排除を期待されて権力を握りましたので、当初西側諸国やイスラエルと友好関係を強めました。しかしアミンによる反対派に対する虐殺行為に対し、西側諸国が経済制裁を課したため、アミンは東側諸国との関係を強めていき、これに対してイギリスはアミン排除を画策するようになります。
 このアミンの時代に、スコットランドの一人の青年ニコラスがウガンダを訪れます。彼は医学校を卒業したばかりでしたが、冒険の旅に出ようと考え、地球儀を回して指があたった場所に行こうとしました。そしてそれがウガンダで、かなり軽薄な理由でした。彼はウガンダについて何も知らないまま、ウガンダに旅立ちます。ウガンダでバスに乗っている時に知り合った現地の女性と関係を持ち、さらに赴任先の村の診療所の医師の妻とも関係を持ちます。彼は好青年ではありましたが、相手の立場を全く考えず行動する、軽薄な人物でした。もちろん彼は架空の人物です。
 ふとしたことからアミンと知り合い、彼はアミンに大変気に入られ、アミンの主治医となります。ウガンダは長い間イギリス(イングランド)の植民地支配を受け、今ではイギリスに様々な妨害工作を行われていたため、アミンは、同様に長い間イングランドの支配を受け、イングランドを嫌っているスコットランドの青年に好感を持ち、自ら「スコットランド最後の王」と名乗ります。アミンはある記者会見で、「スコットランドの友人たちは、ここで私がイギリス人たちをやっつけたので、応援に来てくれと言っている」と、冗談交じりで述べています。もちろんそんなことは不可能ですが、それはイングランドに対する当てつけかもしれません。ニコラスはアミンの厚遇を受けますが、しだいにアミンの残虐性が見えてきます。アミンは反対派を何十万人も虐殺していたのです。この間にも、ニコラスはアミンの夫人と不倫を行い妊娠させてしまいます。そのため、夫人は殺され、ニコラスは拷問され、殺されそうになります。

 丁度この頃、重大事件が発生しました。1976年に起きたエールフランス機ハイジャック事件で、乗客・乗員合わせて256人を乗せたエールフランス機がリビアで給油した後にウガンダのエンテベ空港に向かったのです。犯人はパレスチナ・ゲリラの過激派で、イスラエルで服役中の40人のゲリラの釈放を要求しました。アミンはゲリラを支援していましたが、国際的に人道主義者であることをアピールするために、イスラエル人とユダヤ人以外の人質を解放させます。そのどさくさに紛れて、ニコラスはかろうじてウガンダからの脱出に成功します。
 一方、イスラエルは武力による人質奪回作戦を実行します。幸運だったのは、まだウガンダと友好関係にあった時代に、イスラエルがこの空港を建設したため、建物の配置を熟知していたということです。イスラエルは100名以上の兵士を4機の航空機に乗せ、エンテベ空港に着陸してウガンダ兵と交戦しつつ、100名以上の人実を救出して離陸しました。その間1時間弱で、誤算だったことは、3人の人質を犯人グループと間違えて射殺したこと、人質の一人が病院に入院していたため救出できなかったこと、そして救出作戦のリーダーが死んだことです。そのリーダーの名はネタニヤフで、現在のイスラエル首相の兄です。
 イスラエルは、過去にも同様の奇襲作戦を何度も行っており、目的を達成するためには道徳も国際法も無視し、国際的な非難も無視します。それが、世界中に敵を持つイスラエルが生きていく道なのでしょう。一方アミンは、完全にイスラエルにしてやられ、その権威は失墜し、1979年にイギリスに支援された反体制派の反乱により失脚し、サウジアラビアに亡命して、2003年に死亡しました。
 アフリカの場合、政治対立にはほとんどの場合、部族対立が関係しており、アミンのようにクーデタで権力を握った場合、反対派部族によるの攻撃は執拗となります。そして映画では、アミンがしだいに疑心暗鬼となり、孤立していく姿が描かれています。アミンが最も憎んだのは西欧諸国で、自分たちの都合でアミンに権力を握らせ、今度を追い出そうとしていることです。確かにアミンは多くの人を殺しましたが、当時流布された食人などといった話は、デマです。西欧諸国は不都合になったアミンをおとしめようとしたのです。それを最も象徴しているのが、ニコラスです。ニコラスは気まぐれでウガンダにやってきて、ウガンダのことなど何も知らずに勝手な振る舞いをし、そして去って行きます。ニコラスを捕らえた時アミンはニコラスに、「アフリカにでも行ってみよう。親切な白人を気取って楽しんでみよう」と思っていたのだろう、と問い詰めます。これこそが西欧諸国の態度でした。西欧諸国は、ウガンダのことなど何も理解しようとせず、勝手に政権を代え、利益だけをむさぼって去っていくのです。

 この映画は、非常によくできた映画でした。決してアミンを正当化するわけではありませんが、ニコラスを通じて西欧の傍若無人を描き出しています。アミンを演じたフォレスト・ウィテカーは、この映画でゴールデングラブ賞やアカデミー賞の主演男優賞など数々の賞を受賞しました。


2015年4月17日金曜日

VTS 01 1 ソロモンとシバの女王



ソロモンとシバの女王
 ソロモンはシバの女王との愛に溺れ、信仰を疎かにしたため、神から与えられた「知恵」を失ってしまいます。しかし彼は、イスラエルが滅亡の危機に瀕した時、信仰を取り戻し、「知恵」によって最後の戦いに臨みます。