2014年6月4日水曜日

第7章 ラテン・アメリカ





















1)ラテン・アメリカの悲惨
スペイン人の植民地支配
 1992年はコロンブスの「新大陸発見」500周年にあたる。それ以前にはマヤ文明,アステカ文明,インカ文明などの古代文明が栄えていたが,これらの文明はスペイン人によってすべて破壊され,以後組織的なカトリックの布教とスペイン人の移住によりラテン・アメリカ世界が形成された。ラテン・アメリカに定住したスペイン人はクリオーリョと呼ばれ,アシエンダと呼ばれる広大な土地を所有して,インディオやインディオとスペイン人との混血であるメスティーソを支配した。
 19世紀に多くの植民地が独立したが,その独立を担ったのはクリオーリョであり,したがって独立後も彼らは支配階級としての地位を維持し,そればかりか彼らの利害関係の対立から多数の国に分裂してしまった。言語・宗教・民族が基本的に同じであるにもかかわらず,またシモン・ボリバルによる統一への動きがあっかにもかかわらず,クリオーリョたちの地域主義が高まり,スペインの植民地統治の支配区分を基盤に分裂していったので
ある。
 やがて,クリオーリョはイギリス・アメリカなどの外国資本と結びついてモノカルチュア(単一栽培)経済を推進し,インディオやメスティーソに対する搾取を強化していった。アシエンダと呼ばれる広大な土地で,地主は多くのインディオを農奴的に使役し,絶対的権力をふるった。ペオンと呼ばれる農民はわずかな賃金で働かされただけでなく,地主が生活必需品を農民に掛け売りしたため,実際に渡される現金はほとんどわずかで,しかも農民の無知につけこんで不必要なものまで買わせて借金を負わせ,子孫の代まで縛りつけていた。だから他の条件のよい仕事に移ることもできなかった。教会もまた大上地所有者としてインディオを搾取し,地主への反逆は神への裏切りであると教えたのである(なお,一般大衆と直接接する下級神父の中に,インディオに同情して解放運動を行なう人々も現われ,「解放の神学」を生み出していったことも忘れてはならない)。
 このような支配体制を維持するため,ラテン・アメリカ諸国では軍事独裁政権が一般的となり,下層階級の反抗を抑圧し続け,欧米諸国もこのような独裁政権を支持して彼らの利益の擁護に努めてきたのである。

アメリカのカリブ海・中米への進出
 19世紀末になるとアメリカは, 1889年第一回汎米会議を開いて汎米主義を提唱し,中南米への本格的進出を開始した。
 まず,カリブ海・中米への進出が本格化してカリブ海は「アメリカの裏庭」と呼ばれるようになり,第二次大戦後には中南米全体におけるアメリカの影響力は圧倒的となった。 1947年には米州共同防衛条約(リオ協定)が締結されて共産主義に対する地域的安全保障体制が作られ, 1948年ボゴタ憲章に基づいて米州機構(OAS)が結成され,中南米はアメリカの軍事体制の中に組み込まれていった。
 このような中で,大地主・独裁政権・アメリカ資本の癒着はますます強化され,中南米はアメリカ経済の繁栄を支える重要な地域となっていった。しかしそれはインディオなどの下層階級の自由と生活をさらに圧迫し,各地で反米闘争や革命が頻発したが,アメリカと結びついた独裁政権はこれらをことごとく弾圧した。アメリカは、かつてソ連が東欧諸国の動きに対して非常に過敏に反応していたのと同様の動きを、ラテン・アメリカ諸国に対してしてきた。そのことは1983年のグレナダ侵攻を見れば明らかである。グレナダはカリブ海に浮かぶ入口約10万の小さな島で,ここに親ソ政権が成立したのを嫌ったアメリカは,カリブ6カ国の軍隊とともに侵攻してこの政権をつぶしてしまった。アメリカは直接の軍事介入だけでなく、C I Aによる破壊工作などによっても,反米的とアメリカが見なす政権を打倒してきた。

バルガス・ペロンのポピュリスト体制
 第二次世界大戦前後に,このような支配体制を克服しようとする一つの試みが行なわれた。それはブラジルのバルガスやアルゼンチンのペロンによって代表されるポピュリスト体制と呼ばれるもので,地主に対抗してブルジョワと労働者が同盟を結び,その結果生まれた独裁体制である。
 バルガスは世界恐慌によりブラジル経済が破綻する中で、1930年労働者の支持を受けて大統領になり,労働者の地位の向上を図るとともに,経済の自立化を進めたが,第二次大戦後の民主主義要求の高まりの中で辞任した(その後大統領に返り咲いたが軍部などの圧力で自殺)
 ペロンも労働者の熱狂的支持を背景に1946年に大統領となり,労働者・婦人保護の法律をつぎつぎと成立させていったが、1955年軍の蜂起で失脚した。亡命していたペロンは1973年奇跡的に政権に復帰したが,翌年死亡した。

アメリカ中南米政策の破綻
 第二次世界大戦後,アメリカの中南米政策に最大の打撃を与えたのはキューバ革命であり,この事件はアメリカに中南米政策の見直しを迫った。
 ケネディ大統領は,中南米のアメリカ離れと社会主義化の傾向は、これらの国における貧困と社会矛盾にあることを認識し,「進歩のための同盟」を結成して各国に改革と近代化を迫った。ドミニカ共和国でアメリカの支援の下に31年間にわたって独裁政治を維持してきたトルヒーリョ大統領が1961年に暗殺されたが,独裁こそ革命の温床だとするアメリカがかかわったとされている。
 しかしこの同盟は,改革のための資金援助が行なわれなかったため,結果として改革なき工業化のみの近代化に終わり,二つの結果を生み出した。
 一つは,革命運動を抑圧するため各地で軍事クーデターによる独裁政権が成立し,アメリカも親米的でありさえすれば独裁政権を支持する方向に転じた。1964年にはブラジルで軍事クーデターが起き,結局ドミニカも内戦状態に陥ったうえアメリカ軍が上陸した。中南米の軍隊は,キューバを除けば,対外戦争用というより国内の治安維持のために存在しており,民衆運動はすべて軍隊に封殺されていくことになる。チリで1970年に平和的に成立したアジェンデ社会主義政権も, 1973年のクーデターにより打倒され(アジェンデは死亡),ピノチェト独裁政権が成立した。この際にもアメリカが関与していたとされる。
 いま一つは,無理な工業化が石油危機による先進国経済の停滞を原因にした輸出の鈍化等によって行きづまり,財政破綻を生み出したことだ。
 しかし,   1980年代になると,軍政はその人権抑圧で国際非難を浴び,経済政策の失敗とあいまって民政への移行が進んだ。
 1988年,チリではピノチェト政権の存続を問う国民投票が行なわれたが,過半数が「ノー」を投じた。また,1989年ブラジルでも29年ぶりに大統領選挙が行なわれた。しかしこれら文民政権は軍部の圧力とクーデターの恐怖に脅え,さらに崩壊した経済の再建に有効な手段もなく立ち往生させられているのである。
 198912月,アメリカはパナマのノリエガ独裁政権打倒のためパナマに侵攻,翌年1月ノリエガを逮捕して身柄をアメリカに拘束した。さらに, 1990年には,ペルーに日系のフジモリ大統領が誕生した。
 これらは,前述のような背景を知らなければ理解できない。前者は独裁政権を支持し続けたアメリカの政策の破綻であり,後者は独立以来の社会矛盾を放置し続けたことに対する民衆の不満の結果なのである。

2)キューバ革命―カストロの挑戦
キューバの独立
 19世紀前半に中南米のほとんどの国が独立する中で,キューバは独立せずスペインの植民地としてとどまった。その理由は砂糖生産で経済的に繁栄していたため,クリオーリョが独立を望まなかったことと,イギリスの攻撃に備えて強力な軍隊が置かれていたからである。しかし,スペイン本国がヨーロッパの国際紛争に巻き込まれないように,植民地への物資輸送を中立国に委ねたため,しだいにアメリカが進出するようになった。アメリカもキューバを市場としてますます必要とするようになり,両者の関係は一層緊密になった。
 19世紀後半から独立闘争が始まると,その政治的・経済的混乱の中でアメリカ資本が進出した。 19世紀末スペインによる独立運動弾圧を契機にアメリカが介入し,1898年米西戦争が始まった。戦争の結果キューバの独立は達成されたが,それは名ばかりで, 1902年までアメリカの軍紋下におかれ, 1902年内政干渉を認めたプラット修正条項を盛り込んだ憲法により,事実上アメリカの保護国となった。
 その後のキューバにはアメリカ資本が怒濤のごとく押し寄せ,砂糖きび農場や製糖工場のほとんどがアメリカ資本によって支配されるようになった。さらにアメリカ資本は発電・輸送・その他の製造業にいたるまで独占し,また広大な土地を独占して砂糖きび以外の農業が発展する可能性を奪った。こうしてキューバはアメリカの砂糖工場と化したのであり,アメリカとの全面的対決を覚悟しない限りモノカルチュア経済体制を克服することは不可能となっていった。
 1934年アメリカはプラット修正条項を撤廃したためキューバは完全な独立国となり,   1940年バチスタが大統領となった。第二次世界大戦後キューバはインフレと労働争議に苦しめられ,人々はクーデターによって再び大統領となったバチスタに期待した。確かに彼の時代にキューバは世界一の砂糖生産国となり,比較的高い生低水準を享受したが,大多数の農民は上地を待たず,労働者の労働条件も改善されなかった。そして,バチスタはアメリカ資本と結びついて腐敗していった。

キューバ危機と社会主義宣言
 この頃からカストロを中心とする革命運動が本格化する。カストロは大地主の息子で,妻はバチスタ政権の高官の娘だったが,早くから革命運動に参加し, 1953年に兵舎を襲撃して逮捕された後,メキシコに亡命。その後彼はキューバに戻りゲリラ戦を展開し,しだいに支持者を増やしていった。
 カストロの行動は特にアメリカの同情をひき,ついに政府もバチスタに武器を売ることを中止した。その結果1959年バチスタは亡命し,カストロら反乱軍は農民・労働者の熱狂的声援の下にハバナに入城した。カストロ32歳のときである。彼は軍人が政治に関与すべきでないと考えて新政権には参加しなかった。ところが新政権は社会改革を実行しようとしないため,すぐにカストロが首相に就任し,以後急テンポで改革が実施されていくことになる。
 本来カストロは共産主義者ではなく,アメリカにはつねに親近感を持ち,アメリカとは友好関係を維持することを望んでいた。彼の行なった社会改革も社会主義というより,社会正義を実行したという程度のもので,アメリカも最初はその成り行きを見守っていた。
 しかし農地改革法が布告され,アメリカ企業が重大な被害を被る可能性が生まれると,さまざまな圧力を加えるようになった。1960年には医薬品と食糧を除くすべての交易を禁止する経済封鎖を実施した。このような中でソ連首脳が突如キューバを訪問し,砂糖買い付けと経済援助を約束した。1960年アメリカ資本の没収と国有化が行なわれ, 1961年にはケネディ政権はキューバに反革命軍を上陸させハバナ侵攻を企てたが失敗した。
1961年カストロは社会主義宣言を行ない,以後キューバは農地改革を本格的に実施し,主要企業を国有化して計画経済を実施していく。
 威信を傷付けられたアメリカは1962年米州機構からキューバを除名し,中南米諸国もキューバと断交した。キューバ革命に刺激されて各地で革命の動きが高まったが,アメリカの反乱鎮圧によって次々と失敗していった。
 これに対してカストロの友人だったゲバラは大陸革命を提唱し,国際的ゲリラ軍の提唱を呼びかけた。それは一国だけの革命ではアメリカにつぶされてしまうという危機感から生まれたものだった。彼はボリビアにゲリラの根拠地をおき,各地でゲリラ闘争を展開しようとしたが,結局ボリビア共産党とも対立して1967年戦死した。


キューバ危機の発生


こうしたキューバ革命の過程で,国際政治に大きな影響を与えた事件が勃発した。1962年のキューバ危機である。
 キューバの戦略的位置に着目したソ連は,キューバとの間で結んだ武器援助協定によりキューバにミサイル基地の建設を開始した。空中偵察によってこれを察知したアメリカは基地撤去を要求し,キューバを海上封鎖した。
ソ連は,通常海上戦力ではアメリカに太刀打ちできず,核戦争を覚惜しないかぎり海上封鎖に対抗できないため,結局基地撤去を発表し,アメリカもキューバ不侵攻を約束した。この間わずか1週間だったが,米ソの対立は頂点に達し,核戦争の危機さえはらんでいた。
 これを契機に米ソの接近が強まり, 1963年には部分的核実験停止条約が締結されるなど,平和共存への道が模索されることになる。一方,核戦力においてはソ連に依存せざるをえない中国にとってソ連の全面撤退は,ソ連が必ずしも頼りにならないことを明らかにするものだった。その結果, 1964年には中国も核実験を行ない,世界の多極化は一層進んでいった。

3)中央アメリカの悲劇
中央アメリカ連邦の分裂
 中米諸国は,1821年メキシコ独立の際メキシコとの合併を決定した。しかしメキシコでイトゥルビデ将軍の独裁化が進行したため,これを嫌い1823年中央アメリカ連邦として独立した。人口の大半がメスティーソとクリオーリョで,一握りの富裕なクリオーリョが支配しており,やがて彼ら支配層間の利害対立が表面化して,1838年にコスタリカ・ニカラグア・ホンジュラス・エルサルバドル・グアテマラの5カ国に分裂した。
 これらの国では19世紀後半にコーヒーのモノカルチュア経済が成立し,さらに20世紀に入るとアメリカの「バナナ資本」が進出。そのためこれらの国々の政権は民衆的基盤を欠いた独裁政権や外国資本のための政権となっていった。この地域に進出しているアメリカのフルーツ会社の実力は現地政府を凌ぐほどで,時にはアメリカ政府を動かして政府を打倒してしまうことさえあった。これに対して革命運動がしばしば起きたが,アメリカの介入によってことごとくつぶされてしまった。

ニカラグア―サンディニスタ民族解放戦線の結成
 ニカラグアでは,20世紀初頭,アメリカの内政干渉と軍事占領が続いた。サンディーノを指導者とする解放軍がゲリラ戦を展開し,アメリカ軍の支援を受けた保守党と撤退を求める自由党の内戦が統いていた。
 1930年代になると解放軍の優勢が決定的となり,アメリカが善隣外交に転換したこともあって, 1932年大統領選挙が行なわれ,自由党のサカサが大統領となった。その後サンディーノは奥地に撤収して農業開発に従事していたが, 1934年国家警備隊のソモサに殺された。やがてサカサも追放され, 1936年ソモサが大統領となると,彼はその政治権力を利用して富を蓄積した。
 1950年代になると綿花やコーヒーの輸出が増加したためプランテーション経営が普及し,農民は土地から追い出された。
 1956年にソモサが暗殺されたが息子がそのまま権力を引き継いだため,反ソモサ運動が活発となった。サンディーノの死後も彼の率いた解放軍が活動を続けていたが,1961年この解放軍を中心にサンディニスタ民族解放戦線が結成される。このような中で1972年に起こったマナグア大地震の際の援助金の着服は,ソモサに対する国民の怒りを頂点にまで高めた。これに対してアメリカ国内でもソモサ支援に対する批判が高まり,折りから人権外交を展開していたカーター大統領もソモサを見放した。危機に陥ったソモサは大量虐殺を繰り返し,全土は戦場と化し, 1979年ソモサはついに亡命した。
 新政権はアメリカと対立する意志はなく,アメリカもカーター大統領が中米の現状変革は不可避であるという認識のもとに,革命政権に柔軟な姿勢をとった。
 しかしレーガン政権は中米危機を東西対立の中でとらえ,力による解決の方針を打ち出した。CIAを通して反政府ゲリラ(コントラ)を援助し,その結果ニカラグアは再び内戦状態に陥り,追いつめられた解放戦線側では共産主義者が台頭し、ソ連に接近していった。
 今や内戦は地域紛争から東西両陣営の対立に発展していったため,危機を感じた周辺諸国が地域自決の平和解決のための調停に乗り出し、1991年総選挙が実施された。長い内戦による経済混乱に苦しめられた国民は反政府勢力を支持し,解放戦線側は政権を離れた。しかしまもなく新政権内部の対立が表面化し,ニカラグアの情勢はなお流動的である。

パナマ運河―アメリカの中南米戦略基地
 パナマ運河はすでに19世紀末に,スエズ運河を建設したレセップスが開削を開始していたが,さまざまな困難に直面して挫折し,その後アメリカが運河建設に乗り出した。パナマ地帯は当時コロンビア領だったので,アメリカは運河の排他的支配を目的とした租借条約をコロンビア政府との間で締結しようとしたが失敗した。
 そこでアメリカは当時パナマで起こっていた独立運動を援助し、1903年独立したパナマとの間でアメリカにきわめて有利な租借条約を締結した。こうして1914年パナマ運河が開通するが,この運河はアメリカの戦略上きわめて重要な意味を持つため,軍部に運河会社を経営させた。運河地帯は幅16キロメートルの帯状の土地で,アメリカ軍が駐屯し,軍隊はパナマ国内で行動することも認められており,事実上パナマ政府の権限が及ばないアメリカの植民地となっている。したがってこの地域はアメリカのラテン・アメリカに対する戦略的な要であり,キューバ革命後には反ゲリラ訓練所や米州警察学校が設置され,中南米におけるゲリラ対策の拠点とされた。
196070年代にかけて,ここで訓練を受けた多くの軍人が中南米諸国の独裁政権の指導者となり,国内の保守勢力とアメリカの利益擁護のために活躍した。1991年米軍によって逮捕されたノリエガ将軍はこの警察学校の卒業生であり, C I Aと結びついて中南米での破壊工作に重要な役割を果たしてきた人物だった。しかし,彼はしだいにアメリカのコントロールからはみだしはじめ,しかも独裁と腐敗に対する内外の批判が強まったため,結局アメリカは軍隊を投入して逮捕に踏み切ったのである。
 一方,パナマ国民の間では早くから運河地帯返還の要求が高まり, 1977年運河条約を改訂して1999年末に返還されることが決定されている。

ホンジュラス・エルサルバドル・グアテマラ
 ホンジュラスは典型的な「バナナ共和国]で,しかも周辺諸国との国境紛争や内政干渉に苦しめられ,一部の白人が政治を私物化し,軍事クーデターが繰り返された。
 エルサルバドルでは左翼ゲリラ組織と,アメリカの軍事援助を受けた政府軍との内戦が続いている。
 グアテマラも親米が基本だが,政府は不安定であり,左翼ゲリラ組織の活動も継続している。

フォークランド紛争
 中南米におけるアメリカの影響力はなお圧倒的であるが,同時に多くの矛盾が発生してきている。
 1982年フォークランド諸島(イギリス領)の帰属をめぐってアルゼンチンとイギリスが武力衝突した際(フォークランド紛争),アメリカがイギリスを支持したのに対し,米州機構はアルゼンチンを支持し,またアメリカのパナマ侵攻に際しても反対を表明した。
 また,メキシコ国境から大量に流れ込む不法入国者の問題や麻薬の流入問題にもアメリカは悩まされている。
 しかも,中南米を覆う経済危機と累積債務の問題は,アメリカに直接跳ね返る危険性もある。
 これらラテン・アメリカ諸国の諸問題は,アメリカと中南米との関係を見直し,新しい関係を構築する必要性を示しているように思われる。




第8章 アフリカ





















1)ヨーロッパ繁栄の裏に

ヨーロッパ列強のアフリカ分割
 アフリカ大陸はヨーロッパのきわめて身近に存在する大陸だったが,この地域へのヨーロッパの進出は,アジアやアメリカに比べると極めておそく,本格的な進出は19世紀後半になってからである。その理由としては,ヨ-ロッパの対岸にある北アフリカには強大なオスマン帝国の支配が存在していたために容易に進出できなかったこと,内陸部に関しては,あまりに厳しい自然条件と猛威をふるう風土病のために容易に入り込めなかったことなどがあげられる。
まずヨーロッパ各国の進出の対象となったのはインド航路上の中織地で,ポルトガルがアンゴラやモザンビークに,オランダおよびその後にイギリスがケープなどに植民地を築いた。さらに北アフリカでオスマン帝国の勢力が後退すると,エジプトがイギリスの,チュニジア・アルジェリア・モロッコがフランスの,リビアがイタリアの植民地となっていった。
 19世紀後半にリヴイングストンとスタンレーがアフリカ内陸部を探検し,内陸部の地理が明らかとなると,列強はようやく内陸部にも目を向けるようになる。
 ヨーロッパ列強によるアフリカ分割は,ベルギー国王レオポルド2世が広大なコンゴ川流域の植民地化に着干したことと, 1881年以降イギリスがエジプトの単独支配を開始したことに端を発する。さらにこの頃,アフリカで貿易活動に従事していた企業家や余剰資本のはけ口を求めていた金融資本家たちが,他の列強の手に落ちる前に自国の植民地とすべきであると考え始めた。
 このような中,将来予想される争いを事前に回避するため,188485年ヨーロッパ諸国とオスマン帝国・アメリカなども参加したアフリカ分割のためのベルリン会議が開催された。ここで決定された境界がほぼ現在のアフリカ諸国の国境となっている。その際,ベルギー国王レオポルド2世が主宰するコンゴ国際協会に対してコンゴ川流域の所有が認められたが,それは事実上レオポルド2世個人の私領だったのである(コンゴ自由国)。
 レオポルド2世はコンゴ経営にあたり,傭兵隊を組織し,原住民に過酷な重労働を強制し,巨万の富を築き上げた。やがて陰惨な植民地経営の実態が明るみに出され,国際的な非難を浴びるようになると,ベルギー政府はコンゴを国王から取り上げ,ベルギー領コンゴとした。

国境線をめぐる問題①―民族間の対立
 ヨーロッパ列強のアフリカ支配が残した第一の問題は国境線の問題である。
 列強はアフリカ内部の地理や言語の分布にはまったく考慮することなく人為的に植民地の境界線を引いた。そのため一つの国の中に多くの言語文化が共存したり,一つの言語文化がいくつかの国に分散するという事態が生じた。


 例えば,人口約1000万のカメルーンには,約200の異なる言語文化が存在する。こうした国では共通語を持つことができず,そのため旧宗主国の言語が公用語として使用されることが多い。カメルーンは本来ドイツの植民地だったが,第一次世界大戦後イギリスとフランスの委任統治領となったため英語圏と仏語圏に分かれ,そのため両言語を公用語としている。
 スーダンは地理的に南北に分断されており,人種的にも北部がアラブ人で南部が黒人であり,歴史的にも南北の交流はほとんどなかった。そのうえイギリス・エジプト共同統治の時代,北部ではイスラーム教が維持されたが,南部ではイギリスの意向でキリスト教が浸透した。しかし、1956年の独立以降北部アラブ人が南部黒人を支配・搾取することになったため,南部に反政府組織が結成され,やがて本格的な武装闘争に発展した。この内乱と早魅・飢餓によりスーダンはますます混迷を深めている。
 チャドでも北部のアラブ系遊牧民とキリスト教が浸透し、西欧化した南部黒人との対立が存在し,これにチャドヘの進出をねらうリビアと旧宗主国フランスが介入して内乱状態に陥った。
 ナイジェリアでは,南西部に古くから王朝を発達させたヨルバ族が,北部にはイスラーム教の影響を受けた諸族が,南東部にはヨーロッパとの交易で早くから西欧文化を受け入れた諸族が,それぞれ別個の文化を形成していた。ナイジェリアは1960年にイギリスから独立したが,しだいに部族・宗教対立が激化し、1967年イボ族の独立宣言(ビアフラ共和国)を契機にビアフラ戦争と呼ばれる内乱に突入した。戦争は3年続き,その間100万人以上の人が戦禍と飢えで死亡した。

国境線をめぐる問題②―オガデン解放闘争
 一方,―つの言語圈が分断されている場合は,国境紛争を引き起こす場合が多い。
 アフリカの角と呼ばるソマリアは,紅海の出口という戦略上の重要地点にあたるため,早くから列強に注目され,19世紀末にイタリア・イギリス・フランスによって分割された。そのうちフランス領はジブチとして独立し(1977),イタリア領とイギリス領がソマリアとして独立した(1960)。しかしソマリア人は現在のソマリアの国境を越えて多数存在しており,人種的には黒人だが、宗教はイスラーム教であるため,各地のソマリア人を統一して大ソマリアを建国することがソマリアの悲願である。
統合の対象と考えているのは,一つはジブチであり,もう一つはケニアのソマリア人であり,さらにエチオピアのオガデン州のソマリア人である。オガデンでは早くから分離運動が起きていたが,  1974年にエチオピアで軍部による革命が起きて政情不安となったため(1975年帝政廃止),ソマリアが本格的にオガデン解放闘争を支援するようになった。このエチオピアに成立した社会主義政権にソ連が軍事援助を開始したため,従来ソ連から軍事援助を受けていたソマリアは反発し,アメリカに接近することになる。結局,11年間に及ぶ紛争は, 1988年エチオピア・ソマリアの和解の成立で終結した。
国境線をめぐる問題③―エリトリア分離独立闘争
 一方,エチオピアはもう一つ民族問題を抱えている。エリトリア分離独立闘争である。紅海に面しているエリトリアは長くエチオピアの支配下にあったが,やがてイスラーム教徒によって支配されるようになり,19世紀末にイタリアがここを支配してエチオピア侵入の足場とした。第二次大戦後エチオピアはエリトリアの併合を望み,エリトリアは独立を主張した。結局国連の仲裁で1950年エリトリア・エチオピア連合としてエリトリアの自治が大幅に認められたが,   1962年にエチオピアが強引にエリトリアを併合した。それに対してエリトリア人はエリトリア解放戦線を結成して武装闘争を展開し,さらに解放戦線から社会主義を掲げるエリトリア人民解放戦線(EPLF)が分離して独立の闘争を展開した。 1974年のエチオピア革命後も,エチオピアの社会主義政権はソ連の軍事援助を受けて解放闘争を弾圧し続けたが,政権の不安定と国民の不満からEPLFのほかエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)などの反政府闘争が始まり,しかもソ連の軍事援助を失って、1991EPRDFはアジスアベバを占領,臨時政府を樹立した。
ヨーロツパヘの経済的従属
 ヨーロッパ列強がアフリカに残したもう一つの大きな問題は,経済上の問題である。
 ヨーロッパ諸国はアフリカの民衆を搾取することによって,その繁栄を維持した。彼らは,従来の自給自足の経済を破壊し,サバンナ地帯には落花生・綿花を,熱帯地帯にはココア・コーヒー・バナナなど単一作物を強制的に栽培させた。また,ヨーロッパの通貨が植民地に浸透し,植民地がヨーロッパの資本主義体制の中に完全に組み込まれていった。さらには,課税や上地の支配など,さまざまな形で民衆を搾取していった。
 第二次大戦後多くのアフリカ諸国が独立していくが,その際ヨーロッパ諸国はできるだけ自己の勢力と利益を維持していこうとした。
 イギリスは,独立の承認に先立って過激な反英団体を徹底的に弾圧し,さらに植民地内に親英的団体を育成し、そのうえで独立を承認した。したがって多くの地域ではイギリスの経済的な利権はそのまま維持された。
 フランスでもド・ゴールが,利権を守るためフランス連合の枠内での独立を認めた。しかしセク・トゥーレの指導するギニアでは,国民投票によってフランス連合からの離脱を決定した。これに対するド・ゴールの報復は徹底的なものであった。一方,フランス連合内に留まったセネガルは,植民地時代以来の落花生を栽培し,それをフランス人の貿易会社に売ることが義務づけられていた。そして価格はつねに安く押えられ,逆にフランスに依存する消費物価はフランスのインフレに連動して上昇する一方だった。またフランス領コンゴでも,政権はフランスの傀儡政権にすぎなかった。
 独立国の多くは,その独立がどのような形で行なわれたとしても,世界資本主義体制に組み込まれている以上,結局商品作物の栽培による経済体制を維持していかざるをえない。 しかし商品作物は国際市場に左右されやすく,しかも市場価格は生産者であるアフリカではなく欧米によって決定される。市場価格が低迷している状況で旱魅が発生すると,外貨が不足して食糧を輸入できず,商品作物の生産のため自給体制が崩壊しているから,たちまち飢餓が発生するのだ。さらに,第二次大戦後は,現地の地主をダミーにして事実上広大な上地を所有し,欧米向きの商品作物を集中的に生産させるというアメリカのビジネスが進出し,食糧生産はさらに後退した。このビジネスではアジアなどから食糧が輸入されるが,支払い能力がなくなればただちに販売が停止される。世界的に食糧が余っていても,アフリカで飢餓が発生する理由はここにあるのである。
 このような中でアフリカ各国の政情はきわめて不安定で,1960年代以降繰り返し軍事クーデターが起きるようになった。その背景には,以上に述べたさまざまな内部矛盾が存在しているのである。

2)アフリカ諸国の独立
独立を維持したリベリアとエチオピア
 第二次大戦直後の段階で独立していたアフリカの国は,リベリア・エチオピア・南アフリカ連邦・エジプトだけである。持にリベリアとエチオピアの2カ国は,アフリカにあっては例外的にどこの植民地にもなることなく独立を維持した国である。
 リベリアは,アメリカで解放された黒人たちが1821年に現在のリベリアの一部を買い取って生まれた国で,「自由」という意味からリベリアと名づけられ,これに協力した米大統領モンローにちなんで首都をモンロビアとし, 1847年に独立宣言を行なってアフリカ最初の共和国となった。アメリカがリリベリア建国を援助したのは,アメリカがアフリカ進出の足掛かりを得たかったからで,事実20世紀に入るとアメリカのタイヤ・メーカーが大規模な天然ゴムのプランテーションを開発することになる。
 移民の子孫はほんのわずかだが,彼らが政治・経済の実権を握っており,現地人との争いが絶えなかったが,1980年には現地人軍人による軍事クーデターが起こった。
以後,ドウ政権はアメリカ系支配層の排除を図ったが,1989年には反政府組織との間で内戦がおこった(1990年ドウ大統領は死亡)。

 エチオピアは,紀元前2世紀頃から連綿と統いてきた王朝で,4世紀にはコプト派のキリスト教を受け入れ,7世紀以降周囲がイスラーム化していく中でキリスト教を守り続けた。19世紀末にイタリアの侵入を撃退して独立を維持したが,1936年再度イタリアに侵入を受けて占領された。しかし第二大大戦後独立を回復した。1930年に皇帝となったハイレ・セラシェは,戦後行政機構の整備や教育の普及など近代化に努めるが,やがて革命によって倒されることになる。

北アフリカ諸国の独立

第二次世界大戦後のアフリカ諸国の独立では, 1950年代にまず北アフリカが独立していく。
 リビアは大戦中連合国に占領されていたが、1951年に王国として独立。1956年には英領スーダン,仏領モロッコ・チュニジアがつぎつぎと独立し,北アフリカで植民地として留まっているのはスペイン領モロッコと仏領アルジェリアのみとなった。
 チュニジアはブルギバという優れた指導者を得て,フランスとの話し合いで独立し,その後アルジェリアなどの独立運動を支援し,さらに国際的には中立主義を掲げた。そのためブルギバは「小さな国の巨人」と称されている。

ガーナ・ギニアの独立
 1950年代にはサハラ以南のブラック・アフリカで2つの国が独立した。 1957年英領ガーナの独立と、1958年仏領ギニアの独立である。
 ガ一ナは早くから即時独立を主張して闘争を展開し,1957年に英連邦の一員として独立を達成した。しかし1960年にエンクルマが大統領となると,彼け国内的には社会主義による経済建設をめざし,対外的には反西欧的な中立主義を掲げるとともに,パン・アフリカ主義を掲げてアフリカのもっとも過激な民族主義の指導者となった。しかし,国内では多くの部族が分立し,さらにモノカルチュア経済の弱点がさらけ出され,これらを克服するために個人崇拝による独裁を強めていったため、1966年クーデターで失脚した。このクーデターにはアメリカが関与したとされており,西欧諸国からは好感をもって迎えられたが,その後のガーナの政情は不安定な状態が続き,軍事クーデターが相次いで起こっている。
 ギニアは,19世紀末に「スーダンのボナパルト」(今日のスーダンは東スーダンで,当時はギニア方面もスーダンと呼ばれていた)と言われたサモリ・トゥーレがフランスの進出に激しく抵抗した。そのサモリ・トゥーレの子孫にあたるセク・トゥーレは, 1958年「豊かさの中の従属より貧困の中の自由を選ぶ」と叫んでフランス共同体から離脱し,社会主義を掲げて経済再建に努めたが,フランスの報復により経済再建は進まず,セク・トゥーレの死後軍事クーデターが起きた。

「アフリカの年」
 1950年代後半になると,イギリスやフランスはアフリカ植民地の独立は不可避であるという認識を持つようになり, 1960年代には多くの国が独立した。特に1960年には一気に17の国が独立したため「アフリカの年」と呼ばれている。しかしその際,イギリスもフランスも可能な限り自国の影響力と経済的利権を残すように心掛けた。
 旧宗主国へのアフリカ各国の対応には次のようなパターンがあった。第一は旧宗主国に依存して一部の独裁者が権力を維持していくパターン,第二は旧宗主国と協調しつつ独立の路線をとろうとするパターン,第三は旧宗主国の影響力を徹底的に排除しようとするパターンである。
 第一のケースとしては仏領セネガルや仏領中央アフリカ,英領ウガンダがある。中央アフリカでは経済再建ができず,結局1965年に軍事クーデターが起き,ボカサ独裁という最悪の事態を迎えた。やがて彼はフランスの軍事的支援を受け,ナポレオン風の戴冠式を挙行して皇帝となり,反対派の徹底的な弾圧を行なった。結局1979年クーデターで失脚し,中央アフリカは共和制にもどった。
 ウガンダは1962年イギリスから王国として独立したが,経済的にはイギリスが導入したインド人が実権を握っており,  1966年にはクーデターで独裁政権が成立,さらに1971年にはクーデターでアミンによる最悪の独裁政権が成立した。彼は反対勢力を残酷に弾圧し,膨大な数の人が虐殺された。アミンは1979年クーデターで失脚。
 第二のケースとしては,チュニジアやケニアがあげられる。ケニアでは1950年代に入るとマオマオ団の独立運動か激化し,イギリスに徹底的に弾圧されたが、1963年に穏健派のケニヤッタによって話し合いで独立が達成されると,マオマオ団は武器を捨てて農村に帰っていった。ケニヤッタは,国内的には多数部族の統合のため「皆で一緒に」をスローガンとし,対外的には非同盟の下で親西欧路線をとった。ケニアはアフリカの優等生といわれ,欧米からの経済援助を受けて経済成長をとげた。チュニジアの場合もケニアの場合も,他のアフリカ諸国に比べると比較的うまくいっているほうだが,それでも内部には経済的弱さと部族問題を抱えている。

ザイールの独立
 第三のケースは,しばしば激しい紛争を引き起こすことになる。
 ベルギー領コンゴは1960年ベルギーとの話し合いで独立することになり,カサブブを大統領に,ルムンバを首相として独立を達成した。しかしベルギーは豊かな鉱物資源の集中するカタンガ州の分離独立を図り,ここに軍隊を投入したため,ルムンバは国連軍を要請したが,国進軍は事態を収拾することができなかった。こうした中で,急速にソ連に傾斜しようとするルムンバと穏健派のカサブブが対立して事態は一層混乱したため,軍司令官モブツはルムンバを逮捕して処刑した。こうしてルムンバの名は,悲劇の英雄として全アフリカに響きわたることになる。その後国連軍とカサブブ派・ルムンバ派がカタンガを制圧する。1965年には,軍事クーデターでモブツが大統領となり,欧米の支援を受けて国家の再建に努め,1971年には国名もザイールと変更して独裁政治を続けた。
コンゴは,地理的にアフリカの心臓部にあたるだけでなく,ザイール川流域を含み,さらに多くの鉱物資源を埋蔵するため戦略的に重要であり,その結果欧米諸国がさまざまな形で介入した。そのため紛争はこじれにこじれ,その過程で仲裁にあたった国連の事務総長ハマーショルドがアフリカ上空で謎の飛行機事故で死亡するという事件も起きたのである。

アルジェリアの独立
 アルジェリアは1830年にフランスに征服された後,フランスに対して激しい抵抗を行なった。そのため同じフランス植民地のモロッコやチュニジアが保護領という形で一定の自治を許されたのに対し,アルジェリアはフランスの海外県として併合されてフランスヘの同化を強制され,その下でアルジェリア人はフランス人に徹底的な人種差別を受けた。また約100万人ものフランス人入植者が住み,彼らが政治・経済を支配していた。
 1954年インドシナでヴェトミンが勝利すると,チュニジア・アルジェリア・モロッコで一斉に独立運動が高まった。アルジェリアでも同年,アルジェリア民族解放戦線(FLN)が結成されて本格的な武装闘争が始まった。
 フランスは三国の独立闘争を相手にしなければならなかったため,まず比較的穏健な政権の成立が期待できるモロッコとチュニジアを独立させ(1956年),アルジェリアの民族運動の弾圧に専念した。弾圧は過酷をきわめたが,解放戦線はチュニジアに本拠をおいて執拗に抵抗したため、1962年ド・ゴールはエヴィアン協定によってアルジェリアの独立を承認した。 1963年に大統領となったFLNの指導者ベンベラは社会主義路線を決定し,外交的には非同盟中立を採用した。
 だが、1965年アルジェリアで予定されていた第二回アジア・アフリカ会議開催の直前にクーデターが起き,ベンベラ政権は崩壊する。そのため第二回アジア・アフリカ会議は流産したが,アルジェリアの内政・外交方針は基本的にはベンベラ時代の政策を踏襲している。ところで,チュニジアの援助を受けて独立したアルジェリアは,独立後南部アフリカの独立運動を援助し,やがて独立した南部アフリカ諸国はアパルトヘイトに苦しむ南アフリカ共和国の黒人運動を支援し続けていくのである。

パン・アフリカ主義とアフリカ統―機構の結成
 1960年代にアフリカ諸国の独立は頂点に達したが,それとともにパン・アフリカ主義の声が高まってきた。パン・アフリカ会議は1900年に初めてロンドンで開かれ,第五回会議にはガーナのエンクルマやケニアのケニヤッタが参加しており,やがて彼らがパン・アフリカ主義の指導者となっていく。
 パン・アフリカ主義とは,植民地主義と人種主義に反対するアフリカ民族主義であり,   1945年以前にはヨーロッパ在住のアフリカ人の運動だったが, 1945年の第五回会議以降アフリカ大陸内部の民族運動と直接結びついていった。1957年ガーナ独立にあたってエンクルマは,ガーナ独立は全アフリカ大陸の解放と結びつかねば無味味だ」と宣言し,以後彼はパン=アフリカ主義の中心人物となっていく。
 1958年には二つの重要なパン・アフリカ会議が開催された。一つはアフリカ独立国会議,もう一つは全アフリカ人民会議で,どちらもガーナのアクラで聞かれた。
1960年にはアフリカ統合の動きも見られたが,単一的な統合と社会主義化を推進しようとするガーナ・ギニア・マリなどのカサブランカ・グループと,機能別協力を主張するリベリア・ナイジェリア・旧フランス領諸国のモンロヴィア・グループとが対立した。
 この対立は,どちらにも属さないエチオピアの仲介で一応和解し, 1963年エチオピアのアジスアベバで開催された首脳会議でアフリカ統一機構(OAU)が結成された。OAUはその後のアフリカ諸国の独立などに大きな役割を果たしたが,エンクルマの失脚とともに活動も低迷するようになり,特に80年代になると国境紛争・内乱・飢餓問題などでOAU内部の対立が表面化することがしばしばあった。

アフリカの社会主義
 アフリカ諸国の中には社会主義を志向する国も多く,またそれらの中には反欧米・親ソの外交方針を採用する国も多い。すでに50年代に独立したガ一ナとギニアも社会主義路線を採用したし,コンゴのルムンバも社会主義路線を推進しようとして失脚した。
 アフリカの社会主義に共通する特色は,ヨーロッパの社会主義の模倣ではなく,伝統的な共同体の中にもともと存在していた社会主義的要素を復活させようとするもので,タンザニアが代表的である。
 1964年タンガニーカとインド洋の島国ザンジバルが合併してタンザニア連合共和国が生まれたが,ニエレレ大統領は選挙権を肌の色で区別しないということから白人にも参政権を与え,家族共同体を基盤としたウジャマーと呼ばれる共同農業生産の運動を推進したが,その発足段階から停滞しているのが現実である。
 アルジェリアは西欧型の社会主義をとり,石油の発見もあって比較的順調に改革が進められたが,石油危機以降経済危機に陥り,構造改革の必要に迫られ、1989年には複数政党制に転換した。
 特異なのはリビアである。リビアは経済的には無に等しく欧米からの経済援助を受けて,その見返りに欧米に軍事基地を提供していた。1960年頃石油が発見されるが,その利権は欧米に握られ,リビア人は不安定な未熟練労働者の地位におかれ,インフレにより生活はさらに困窮した。こうした中で, 1969年当時弱冠27歳の軍人カダフィがクーデターを起こして政権を握ると,外国の軍事基地撤去・石油の国有化などをつぎつぎと実現し,反帝国主義・反シオニズム・アラブナショナリズムを提唱し,アフリカおよびアラブ世界でもっとも過激な方向を打ち出した。そして豊富なオイル・ダラーを民生に用いたため,国民生活は向上していった。こうした状況を背景にやがて彼は「第三の普遍理論」を提唱し,外国のイデオロギーを打破して,コーランの教えに基づいた社会の再建をめざした。 
対外的には,決して欧米との関係を一方的に切りはしなかったが,大国主義を激しく非難して現在の欧米型国際秩序に激しく反発し,各地の民族運動を支援したためアメリカと対立した。その結果アメリカがリビアを爆撃するという事件まで起きた。
 皇帝独裁の下に封建的社会体制が維持されていたエチオピアでは, 1974年にクーデターが起き,それはしだいに過激な革命へと転換していった。軍事政権はやがて皇帝を逮捕し,つぎに貴族や政府高官を処刑し,やがて内部で血で血をあらう粛正が行なわれ,恐怖政治へと発展していった。またソ連から大量の武器を購入してエリトリアの解放運動を弾圧し,そのために財政難に陥った。
初期には社会改革が推進されようとしたが,財政的裏付けのない上からの指令だけで改革が行なわれるはずもなく,民衆の生活は革命以前よりさらに悪化した。こうした中で反政府勢力が生まれ,やがて彼らはエリトリア人民解放戦線と結び付いていった。さらにソ通が革命政権への軍事援助を打ち切ったこともあって,  1991年反政府勢力がアジスアベバを陥落させたのである。
 アフリカでさまざまな社会主義の実験が行なわれ,そしてそれらの多くが挫折していった。その挫折の理由はさまざまだが,社会主義であるがゆえに挫折したというより,アフリカのかかえる内的矛盾のゆえに挫折したというべきであろう。これらの国々は西側からの援助を期待できないため,同じ社会主義国であるソ連に援助を求めた。そのためにアフリカに冷戦が持ち込まれることになる。しかし一般にソ遠の援助は役にたたないことが多かった。その結果これらの国々の中にはソ通から離れて欧米との接触を模索する国が多くなってきた。ギニアはアメリカ資本を導入し,タンザニアもソ通と友好を保ってはいるが経済的にはあまり期待していないし,内戦中あれほどソ連の軍事援助を受けたアンゴラさえも国内開発をソ通にまかせていない。
 結局ソ連にできることは軍事援助でのみであり,そのことはかえって紛争を長びかせることになった。ソ連が、対立するソマリアとエチオピアの両方に軍事援助を行なったことが,このことをよく示している。

3)南アフリカ諸国の独立とアパルトヘイト
独立の遅れた南アフリカ諸国
 南部アフリカは,旧ポルトガル領アンゴラとモザンビーク,旧イギリス領の南アフリカ共和国・レソト・スワジランド・ボツワナ・ジンバブエ・ザンビア・マラウイ,さらに旧ドイツ領で第一次大戦後南アフリカ連邦の委任統治領となっていたナミビア(南西アフリカ)からなっている。そしてこれらは,南アフリカ共和国を除けば,アフリカでもっとも独立が遅れた国々であり,南アフリカ共和国も黒人が主権を確立しないかぎり,真に独立したとはいえない。1960年代に多くのアフリカ諸国が独立していったとき,独立の動きはそのまま南部まで波及するかに思われたが,旧宗主国の抵抗,アフリカに定住する白人の抵抗,内部対立,人種差別などにより,容易に独立を達成することができなかったのである。

旧ポルトガル領諸国の独立
 アンゴラとモザンビークは,すでに16世紀にポルトガルがインド洋への中継基地として植民地化しており,特にモザンビークは天然の良港を多数抱えているため,基地として重要な役割を果たした。またアンゴラはアメリカ大陸への奴隷供給地となり, 300万人以上の黒人が送られた。19世紀にアメリカで奴隷制が廃止されると,綿花や煙草などの栽培が行なわれ,それにともない多くのポルトガル人が移住した。
 1960年代,両国で独立運動が起こったが,ポルトガルのファシズム政権はポルトガル経済を支える両国の独立を容認せず,独立運動に対して激しい弾圧を加えた。
 両国の独立の契機は,ポルトガルの側から起こった。アンゴラやモザンビークに勤務するポルトガルの下級将校たちの間に,原住民の弾圧に対する疑問が広がり,1974年彼らを中心にポルトガルでクーデターが発生してファシズム政権が崩壊したのだ。新政権はただちに独立交渉を開始し、1975年にギニアビサウとともにアンゴラ・モザンビークも独立を達成した。
 モザンビークでは社会主義政権が誕生したが,ポルトガル入植者が南アフリカ共和国の支援を受けて反政府活動を展開するようになった。南アフリカ共和国にとって,南部アフリカに安定した黒人政権が成立することは望ましくないため,さまざまな形で不安定化工作を推進したのである。
 一方,アンゴラでも独立達成とともに社会主義政権が成立したが,同時にさまざまな困難に直面することになる。まず大量のポルトガル人が一斉に退去しポルトガル人が現地人の養成をしなかったため,専門職や技術者が不足した(この人材不足に関しては,大量のキューバ人が派遣されて技術者の養成を進めている)。
 またそれ以上に困難な問題は内戦である。すでに独立闘争の段階から,社会主義的なアンゴラ解放人民運動(MPLA),ザイールの支援を受けコンゴ部族主義と反共を唱えるアンゴラ民族解放戦線(FNLA),やはり部族主義と反共を唱えるアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に分立していたが,独立後MPLAが政権を握ると後二者が連合して反政府闘争を展開し,内乱に発展した。
 まもなくザイールとアンゴラが和解したためFNLAは崩壊したが,UNITAはアメリカや南アフリカ共和国の支援を受けてゲリラ闘争を続けた。1980年代にはレーガン大統領の支持を受けた南アフリカ共和国軍が大挙侵入し,これに対して政府はキューバ・ソ連の援助で対抗した。しかし1988年にはキューバ・南アフリカ共和国軍の撤退が決定され,   1991年には内戦が一応終結した。
ジンバブエの独立
 白人入植者の多い南ローデシア(現在のジンバブエ)は,1953年ニヤサランド(現在のマラウイ)と北ローデシア(現在のザンビア)とともにローデシア・ニヤサランド連邦を結成したが,ニヤサランドと北ローデシアで独立運動が激化し、1964年それぞれマラウイ,ザンビアとして独立した。
 南ローデシアに関してイギリスは,徐々に黒人政治家を養成し,穏健な黒人政府ができた段階で独立を認める予定だった。ところが白人がこれに反発して1965年にローデシアとして独立を宣言したため(スミス政権),イギリスは問題を国連に持ち込んだ。国連は経済制裁を決定したが,隣国南アフリカ共和国とポルトガルの支配するアンゴラ・モザンビークが参加しなかったため効果がなかった。しかし,隣国のモザンビークが独立したことなどから1979年イギリスで和解が成立し、1980年総選挙の結果,黒人多数支配によるジンバブエとして独立し,その後ムガベ首相は白人を閣僚に加えるなど全民族融和の方針を打ち出した。
 この間隣国のザンビアは大変な苦しみを昧わった。ロ一デシアの白人政権は,ザンビアにさまざまな妨害工作を行なった。また,ザンビアは世界最大の銅産国だが,内陸国であるため,ローデシアやモザンビークに輸送を妨害されて経済危機に陥った。しかしザンビアはこの危機によく耐えてローデシアの黒人解放闘争を支持し続けた。
南アフリカ共和国と南アフリカ諸国の独立
 ベチュアナランドすなわち現在のボツワナも、1966年独立を達成したのち,経済的に南アフリカ共和国に依存しているにもかかわらず,ローデシアと南アフリカ共和国の黒人解放闘争を支援し続け,そのため両国の不安定化工作を受けて苦しみ続けた。
 またジンバブエも独立後,南アフリカ共和国の黒人解放闘争を援助し,南アフリカで新たに独立した国がつぎつぎと他の解放闘争を支援していったのである。
 そしてジンバブエの独立は,南部アフリカの国々を経済的に従属させようとする南アフリカ共和国の意図を最終的に打ち砕いた。そして南部アフリカ諸国は結束して南アフリカ共和国に対抗するようになり,その結果南アフリカ共和国は一層孤立を深めていくことになった。ただし南アフリカ共和国への経済的従属の強いマラウイ,レソト(1966年独立),スワジランド(1968年独立)は,南アフリカ共和国に対して曖昧な立場をとる。
 一方,ナミビアは南アフリカ共和国が委任統治を続け,1966年国連総会が南アフリカ共和国の撤退を決議したがその後も支配し続けた。これに対して南西アフリカ人民機構(SWAPO)を中心に激しい解放闘争が展開され,国際非難が高まる中で,南アフリカ共和国はナミビアの独立を承認し, 1990年独立が達成した。

南アフリカ連邦の発足
 ケープ植民地は,17世紀にオランダがインド航海の食糧供給地として開拓したのが始まりで,気候が温暖で農耕に適していたため,多くのオランダ人が移住した。彼らはほとんど農民だったためボーア=農民と呼ばれ,ボーア人は自らをアフリカーナーと呼ぶようになった。彼らの多くはカルヴァン派だったが,彼らはカルヴァンの説を独自に解釈し,かつてピューリタンがアメリカを征服していったように,彼らも神に選ばれた者と考え,独自のアフリカーナー民族主義を育てていった。
 1815年ウィーン条約でケープのイギリス領有が確定すると,イギリスの支配を嫌ったボーア人は北へ移住した。その移住は原住民との絶え間ない戦いを通して行なわれ,苦難に満ちたものだったが,19世紀の中頃,彼らはトランスヴァル共和国とオレンジ自由国を建国した。しかし彼らの土地で金やダイヤモンドが発見されるようになると,しだいにイギリスの介入が露骨になり,ついにイギリスとの間で二度にわたるボーア戦争(188081年,
18991902年)が始まった。この戦争はイギリスにとって苦しい戦争だったが,ボーア入にとってはさらに悲惨な戦争だった。イギリスはゲリラ戦を封じ込めるため村や田畑を焼き払う焦土作戦をとったため,多くの非戦闘員が殺され,国土は荒廃した。
 戦争の結果ボーア人の両国家はイギリスの植民地となったが、1910年オレンジ・トランスヴァル・ケープ・ナタールからなる南アフリカ連邦がイギリスの自治領として発足した。なお,その際イギリスはレソト・ボツワナ・スワジランドを英保護領として南アフリカ連邦から除外したため,これらの国は南アフリカ共和国のアパルトヘイトをまぬがれて比較的早く独立することができた。南アフリカ連邦は自治領ではあるが,経済的にイギリスに従属し,インド・オーストラリア・カナダとともにイギリス帝国を支える支柱の一つとなった。その際イギリスはボーア人を懐柔するため,アフリカ人の土地所有を制限し,また賃金や社会生活の面で差別を認める人種差別政策を容認した。またこの間アジアから流入したインド人・中国人労働者に対する差別も認められた。一方,戦争による荒廃で多くのボーア人が零落し,プア・ホワイトと呼ばれる階層が生まれたが,アパルトヘイトは彼らへの仕事の保障のためにも必要だったのであり,今日までアパルトヘイトをもっとも強硬に維持しようとした人々は彼らなのである。
 南アフリカ連邦成立後の首相は,初代ボタを初めすべてボーア人であり,三代までボーア戦争で戦った英雄である。これらの政権の課題は,ボーア戦争の荒廃から立ち直るため,イギリスと協調してイギリス連邦のよき一員となることであり,二つの世界大戦でもイギリスに協力した。だから第一次大戦中,ドイツ領南西アフリカに進軍し,これを委任統治領としたのである。しかし一方でアフリカーナー民族主義が高まり,それは貧困白人層の支持を受けて国民党の結成に至る。国民党はアパルトヘイト政策を強力に推進し,従来公用語は英語とオランダ語だったが,アフリカーンス語に変え,さらに国旗もイギリス国旗から南アフリカ連邦旗に変えるなど,民族主義的政策を推進した。

アパルトヘイト(人種隔離)政策
 第二次大戦後国民党の単独政権が成立すると,少数白人の生存と優位維持のためアパルトヘイト体制が制度的に強化され, 1950年にはその中核となる「人種別集団地域法」が制定された。1961年には共和制に移行,イギリス連邦を離脱したが,その後国民党は議会で安定多数を維持し続け,アパルトヘイトはさらに強化されていった。
 アパルトヘイトに対する国際的非難がしだいに高まっていく中で,ボタ政権(1978年発足)によりアパルトヘイト体制の手直しが発表された。例えば,圧倒的多数の黒人を10ヵ所のホームランドに帰属させ,それを南アフリカ共和国から独立させて黒人の南ア国籍を消滅させるという方法がとられた。そうすれば南アフリカ共和国には理屈のうえでは黒人はいないことになり,国際非難をかわせるというものだ。197080年代4つのホームランドが独立したが,これらの「国」は政治・経済・軍事すべてにわたって南アに依存せざるをえず,これらの国を承認した国はない。
 また三人種制を実施し,混血とインド人に選挙権を与えるという偽装改革を行なったが,内外とも評価されなかった。ただし,日本と台湾の中国人は名誉白人として扱われてきたが,これは両国が特に親南ア政策をとって南ア経済に貢献してきたからである。
 しかし,前述のような南部アフリカの内戦への介入は失敗に終わり,軍事費の増大による経済困難を引き起こし,また,欧米による南ア制裁のため,ホームランド政策も破綻した。
 それではアパルトヘイト(アフリカーンス語で隔離の意味)とはどのようなものなのか。南アフリカ共和国の人口は約3500万で,その内約2600万人が黒人,約300万人が混血(カラード)だが,最大民族である黒人は都市で働く際,黒人居住区から通勤しなければならなかった。その代表がヨハネスブルグ郊外のソウェトである。黒人は大学を卒業しても見習工か雑役夫扱いであり,パスを常時携帯していなければ逮捕された。また公共施設の利用も人種別に規制され,黒人と白人の結婚も禁止された。白人への反抗に対しては徹底的な弾圧が行なわれ,膨大な数の人間が逮捕・処刑されてきた。
アパルトヘイトの廃止
 このような中で,早くから黒人による解放闘争が展開されており,すでに1912年に結成されたアフリカ民族会議(ANC)が反アパルトヘイト闘争を展開してきたが,1960年黒人デモ隊に警官隊が無差別発砲した事件を契機に,闘争は本格化した。
 また, 1960年代末からは,「バンツー教育法」により白人支配を正当化する教育を受けた若者たちに,黒人の誇りを持とうとする黒人意識運動が起こった。1976年にはアフリカーンス語の強制学習に反対したソウェトの学生がデモを行ない,これを契機に各地で反アパルトヘイトの大規模な暴動が起こった。こうしてソウェトは,その後の反アパルトヘイト運動の象徴となっていった。さらに1984年からは,各地の黒人居住区でデモや暴動が頻発するようになり,これに対する政府の苛酷な弾圧に対して,国際的な非難の声はますます高まっていった。
 南アフリカ共和国は,その位置の戦略的重要性のみならず,多くの希少金属(ダイヤモンド,金等)を産出するため,欧米諸国は強い制裁措置をとれなかったが,国際的な非難の高まりの中で欧米諸国もついに1985年以降経済制裁に踏み切った。これによってもっとも打撃を受けるのは南ア経済を支配するイギリス系白人だが,彼らもしだいにアパルトヘイト反対の声を高めるようになり,彼らの支持によって進歩的な民主党の勢力が拡大してきた。こうした中で,ボタ政権もアパルトヘイト関連法を徐々に廃止し始め、1989年にボタ政権にかわってデクラーク政権が成立すると,ナミビアの独立承認,反アパルトヘイト組織の合法化、 ANCの指導者マンデラ(1990年訪日)の釈放などをあいついで行ない、   1991年にはアパルトヘイトの廃止を宣言した。