2018年10月8日月曜日

小説(12-5) ラビリンスドール(麻実)


結局、りさは尾行に気づいていなかったみたいだ。
 それにしても、相変わらず、りさの行動は理解不能だ。りさに対して、考えすぎてたのかもしれない。振り返って考えると、自分の行動が恥ずかしい。
 あきらはデスクに散乱する書類の山に頭を突っ伏して、翔のことを考えていた。翔にしても、いつものように家を抜け出したりはしているが、特段、変わった様子はない。いつも通り。自分の殼に閉じこもって、私に心を開いてくれない。翔の心はどこにあるのだろうか。寂しい気持ちが胸を締め付ける。
 急かしてはダメだ。こういうことには時間がかかるものなのだ、きっと。心配しても仕方がない。
 街が夜に包まれている。今日は春子さんとワインの美味しいレストランで食事をする約束だ。どうせ、今日も残業だろうから、夕食くらい贅沢をしたい。
 「それは杞憂ね」
 来店直後、メニューに瞳を落としながら、春子さんは事もなげに言った。
 あきらは、自分白身の悩みを、打ち消してもらえたようで安心した。
 春子さんはいつもより、少し濃い艶やかなメイクをしていた。薄暗い照明の下では、とても魅力的に見えるけれど、心なしか、疲れが滲んでいるようにも見えた。外国の貨幣をペンダントにして、大事そうに触っている。
 ワインに定評のあるお店らしく、料理も凝っていて、大振りのお皿にアートのような前菜やメインが並べられる。ワインを控えなくてはいけないのが残念だ。店員さんの気配りも絶妙で、あきらはすぐに気に入った。
 「翔くん、仕事のことで悩んでたりするんじやないの? 聞き出しにくいとは思うけど、結婚を考えてるなら、話し合ってみるのも必要よ」
 それはその通りだと思う。でも。
 あきらは翔の仕事内容に関しては、あまり関心が持てない。強がりでも何でもなく、本当に、写真の良し悪しが、分からないのだ。だからこそ、関係が上手く行っているような気がする。誰だって自分の仕事に口出しされたくないものだ。よく分からないけれど、お世辞でも何でも、翔が撮るものなら、何でも認めてあげたい気持ちになるから、いつも、
褒めることを忘れない。分かってあげたい。
 翔が諦めたように、微笑むのも、叱られた子供のように戸惑っているのも、とても可愛く思う。低い声で、独特の、柔らかい話し方、いつでもあきらを気遣ってくれてる優しさ。
 時々、見せる男らしい表情。本人は、そんなつもりはないみたいだけど、お茶目なところも、全部、愛しい。誰にも渡したくない。
 「結婚ねぇ…」
 翔が結婚を意識しているかも甚だ怪しい。二十二歳の翔が、そんな発想も予定も、持ち合わせていなくても、不思議には思わない。
 結婚という単語に含まれている様々な重力にはたして翔は耐えられるだろうか。無理な気がする。それでも法律という有無を言わさぬ鳥籠に閉じ込め、親族、家族、友人、を巻き込んでこんな大それたことをすれば、翔を私のものにできる、という淡い願望と欲望が心を支配する。自分勝手な独占欲がどうしても首をもたげる。どうすれば翔の納得を得られるか、彼のフォローはもちろん、経済面、精神面、すべて受け入れて支える覚悟だってあるのに。
 あきらの憂鬱を晴らそうと、春子はアルコールの低いワインをあきらに勧めてくれた。
 「でも、基本的に男って結婚したくないのが、本音な部分もあるから、ある程度の妥協や強引さは必要よ」
 あきらは首肯した。幸い、明後日から仕事で出張。4日間、一人になれる。それでじっくりどうしたいか考えよう。
 「そういえば、春子さんの記事見ました! なんでか分からないですけど、りさちゃんが家に訪ねてきて、驚きました」
 「ああ、りさちゃんが気を利かせて持ってってくれたのね。見てくれて嬉しいけど、本当に小さい記事だから恥ずかしいわ」
 あきらは、前から疑問に思っていたことを口にした。
 「春子さんは、りさちゃんとはどういうふうに知り合ったんですか、なんていうか想像がつかなくて」
春子は少し目を伏せ、記憶を辿るようにゆっくり、なぜかうっとりとした口調で呟いた。
 「りさちゃんは天使なのよ。覚えてる? 私か流産した話。子供を失ってそれは本当にショックだったわ。もう立ち直れないくらい落ち込んでいたの。そんな時、りさちゃんと知り合ってね。すごく鮮明に覚えてるわ。病院の食堂で、同席することが何度があってね。りさちゃんが、励ましてくれたわけでも、同じ境遇たったわけでもないし、何をしたってわけじやないんだけど、心が少しずつ穏やかになっていったの。馬鹿げた妄想だけど、なくなった子供が姿を現して、傍にいてくれてるみたいだったの。りさちゃんのことは、自分の子供のように可愛く思ってるの。変でしょ」
 あきらはその話に、分かったような分からないような曖昧な相槌を入れた。当事者にしか分からないことなのだから、変、だと決めつけるのはよくないけれど、どこか釈然としない。りさが天使? 私には悪魔のように思える。でも、それも私の妄想だ。
 春子がりさに信頼をよせてる理由が分かった。思っているほど、りさは危険な人物ではないのかもしれない、そう思いたい。

 静かな夜が照らす、悲しみの結晶が、しらじらと、瞬いている、心もとなく翔は、その中を歩く。この冷たく儚い静寂に、心を置き去りにしたい。辛いときも、寂しいときも楽しいときも、どんな感情にも触れてこない、いつも、そこにある。
 静寂が優しく、心の奥の氷のような冷たい空洞さえ美しい音で反響させてくれる。
 手には一番、古い、使えるかどうかさえ、さだかじゃないデジカメを掴んでいる。
 何度もレンズを覗き込む。
 何かを撮りたいとか、そうじゃない、もっと曖昧な、何か。
 また家を抜け出してしまった。何だかあきらの様子が硬い気がする。
気のせいかもしれない、明日から、出張で県外に行くからしばらくのホテル暮らしに滅入っているだけなのかもしれない。それならいい、優しく癒してあげればいい。まさか、この間の浮気がばれたんだろうか。さすがにそれはないと思う。だって、あれは向こうから誘ってきて、強引だったし、断りにくかったし、不可抗力だ。浮気じゃない、身体を貸しただけだ。
 あきらには感謝している。ひとときでも、夜の冷たさに鈍感で居られるのは、隣で眠るあきらの重みのおかげだ。
 あきらの荒い優しさに浸っている現在を否定する理由はない。相手を変えても結局は、同じことの繰り返しになることくらい想像がつく。自分の問題なんだ。家を何度抜け出しても、そこに心がなくても、愛か何か分からなくても、別れるつもりはない。なんとか騙し騙しやっていけるのなら、それでいいじゃないか。
 現実なんて、必要じゃない。
 高架下まで歩くと、休の芯まで揺さぶられるような轟行が、上を通り抜ける。それから今回は逆たった。りさが地面に座っていた。上品な猫が暗闇で一休み、という感じだ。手元には夕日の写真。
 翔は、話しかけようとした、その時、りさの唇が無機質に動いた。
 「あなたの見たい景色はここ?」
 りさの大人とも子供ともつかない、ひんやりとした佇まい。
 闇に溶ける、波打つ黒髪。あどけないけれど、艶然とした瞳。
 少し離れたところでは、楽しそうに、酔っぱらった大人の群れが通り過ぎる声がした。
 また轟音が通り過ぎる。

 なにか、なにか言わないと。いつものように。
 送っていきますよ、寒いですね、偶然ですね、何かあったんですか、と穏やかな笑顔を創ればいい。なのに、どうして、できない。
 なにもかも見透かされてる気がする。俺の演技なんかたやすく、幼稚園の遊戯のように、拙すぎて、その鋭い瞳に、囚われ、動けないでいた。

「ただいま」 
 家に戻った時点で翔は問い詰められることは覚悟していた。
 出勤前のあきらは、きりっとした姿が似合っていて、今の翔を責めるために用意されたみたいだ。
 「朝帰りするなら、連絡くらいして欲しかったんだけど」
 「急な仕事が入ったんだ。ごめん」
 用意していた台詞を、サンプラーの出力装置のように自然に言う。
 あきらは通り過ぎる翔に不穏なものを感じた。朝帰りするのも、珍しくない。夜中に抜け出して帰ってこないこともしょっちゅうだ。そんなことは問題じゃない。言い訳も墟も、どうでもいい。翔が浮気をしていることも、一度や二度じゃない。だって、それは仕方ない、翔の関心はいつだって私にはないから。ただの気まぐれなら許してあげなくちゃ。でも、それでも、今はダメだ。翔の全身から、女の匂いがした。無味無臭の。
 そう確信にがったとき、あきらは猛烈な怒りと嫌悪を抑え込めなくなる衝動を感じたが、不味いものを無理やり飲みこむように我慢した。ここで必要以上に翔を問い詰めたら、翔はどこかへ居なくなってしまう。あっさりと。翔はこんなところに執着も未練も、ない。そもそも翔に、そんな感情があると期待してない、だから、翔をとどまらせるのに必要なのは寛容なのだ。分かってる。分かってる、だけど、だけど、あの女だけは、嫌だ。あの女だけは!

 ダイニングテーブルに腰を下ろし、翔は朝の清々しい景色を眺めた。淹れたての珈琲をゆっくり味わう。こんなに空か綺麗だと思ったのはいつぶりだろう。こんなに珈琲が美味しいと感じたのは。離れがたく、ふわふわした気持ちで、ああ、そうか、俺は今、清々しいんだ、と思い至った。翔は柔らかい溜息をついた。
 りさと、会ったあとのことを、抱きしめるように、何度も思い出した。
 翔は、りさをホテルに誘ったんだ。誘った? 違う、強引に、でも、強制じゃない、了解でもない。流されるように、道を示されるように、何かに促されるように、りさを抱いた。
 翔を突き動かす、得体の知れない、名前のない、衝動のまま。
 大丈夫だ。彼女は、だって、俺がどんなに粗野に扱おうが、酷いことをしようが、口汚く罵ろうが、抵抗しない。噛みつくように求めても、どんな風に振る舞ったって構わない。喉の渇きを癒すように、欲望のままに従えばいい。優しくするのは、そう、気が向いた時だけでいい。何も問題ない。それに、彼女の気流に触れているだけで、そばにいるだけで、居心地が良かった。心の奥にあった、誰にも触れられてない棘が、易しく溶かされているみたいだ。知られてもないのに。
 いつのまにか熟睡してしまっていたのだ。夢も見なかった。こんなことは初めてだ。だけれど、動揺はしなかった。どんな感覚も感情も枠を失ったみたいに、気流のように漂うだけで、放心するように安堵が広がり続ける。りさの憐れむような眼差しが、印象的だったな。
「徹夜で仕事だったんでしょ? 眠たくないの?」
 急に現実に引き戻されて、翔は慌てた。
 「ああ、そう、すごく眠くて、ぼぉっとしてたよ」
 「………」
 あきらは睨み付けるような、空気を隠そうとしない。いや、できない のだ。翔は観念した。
 「さすがに辛いからペットに横になろうかな。あきら、心配してくれてありがとね」
 さすがに今のは大げさすぎたか。
 あきらの刺すような視線を背に寝室の扉を閉めると、翔は、眠たい演技を忘れていたことを思い出した。
 でも、まあ、いいか。正直、今の気分を邪魔されたくない。
 俺に何も求めてこない、お人形さんのりさ。

眼を閉じゆっくりと深呼吸をする。やっと息ができた。
今は、絡みつく倦怠に、身をゆだねよう。
それがいい。
おわり










(この写真は、文章の内容とは関係ありません。)





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