ある老女が言いました。
願いが叶うことが素晴らしいなら、叶わないことを願うことも、素晴らしいことなんだよって。だけど、ボクはそうは思わない。叶わないことなら最初から願わないし、願うことなら叶って欲しいと思うからだ。そんなふうに思うのは、至極一般論を受け止めがちなボクの性格のせいでもあるし、今のところボクの願いごとが成就していないせいもある。
ところでボクの名前はイズミ。十六歳。絶賛恋愛中。相手は軽音楽部に所属している先輩で、整頓された楽譜の上に散らばるおたまじゃくしを綺麗な音にしてなぞるのが得意な人だ。ボクはその音色に惹かれ、それを奏でる人を好きになった。好きになった理由はいやになるくらい簡単。ボクに優しくしてくれるからだ。ボクは名前も容姿も態度も女みたいだってよくからかわれたりしてるけれど、その人は一度もボクに向かって嫌なふうに笑ったりしない。わけ隔てなく他のみんなにするのと同じようにボクを見て、話してくれる。みんなと同じ。ネックであり最大の喜びである。それからもうひとつ最上級の課題がある。それは誰にも言ってない。老女以外には。
かがやかしい朝日の中で、濃紺の夜を纏ったあの老女のもとへ行くのはボクの日課だ。彼女は少ない音階で助言をくれボクを励ましてくれる唯一の友人だ。幾度となく繰り返し吐き出してきたような、生まれて初めて搾り出したような声でそっとボクを抱きしめる。彼女はボクのことがたまらなく好きだと言った。ボクもそれに応えたいけれど、彼女の好きとボクの好きは違うことはお互い分かっていた。そして彼女は決まってこう言う。どうしても超えられない何かがあっても、そこを踏ん張って頑張って乗り越えろなんて言う大人は決して信用してはいけませんって。
絶望が口を大きくあけてボクを待ち受けているというのに、ボクは知らん顔をしている。知らないフリが出来てしまうということが、すでに絶望的だ。
先輩の奏でるギターが一番よく聞こえる教室で目を閉じて耳を澄ませた。女の子の囀るような声も混じってる。ボクにはない、先輩にだってない、女の子特有の色とりどりの声で、棘だらけの柔らかさで、先輩の彼女になるために牽制しあってるんだ。
先輩は男の人だ。ボクと同じ。
どうしてこうなった。ボクだって最初から男の人が好きだったわけじゃない。たまたま好きになった人が先輩だっただけだ。それだけ。ねぇ、ボクはどうしたらいいのかな。どうしたって先輩の隣には座れない。望んだところで永久に手に入らないのに。どうしようもないのに。叶わないのに。絶対に叶わないなら願わないのが賢明だって言ってたじゃないか。超えられないものを超えるなんて不可能じゃないか。そんなの分かってる。分かってるけど、ボクは先輩が好きだ。どうしようもなく好きだ。先輩がボクの名前を呼んで振り向いて目を見て話しかけてくれることが、たまらなく苦しい。苦しくて嬉しくてどうにかなりそうだ。
彼女はボクを好きだと言った。どうしようもないって。彼女も同じ気持ちなんでしょう? こんな気持ちが素晴らしいなんて、どうしたら思える。分からないんだ。分かりたい。けど。分かりたくない。分からない。分かりたくない。
ふいにギターの音が止んだ。開け放たれた窓から先輩がボクに気付いて手を振ってくれていた。ボクが戸惑っていると先輩は気にする様子もなく微笑んだ。この世の全ての糖分をかき集めても足りないくらいの、極上の甘さで。ボクはほとんど泣きそうになったけど、精一杯笑顔で隠した。
少しだけ、ほんの少しだけぬるい希望のようなものがボクを満たした。それは宇宙創造の秘密に似た、不条理と摂理の彼岸のような救い。
絶対享受。
きらめく朝日の光を孕んだ夜のような彼女のことが思い浮かんだ。胸の奥底で、彼女がくれた言葉たちが、ボクの中で増殖の機会を待ってるような気がした。
(2008年10月16日)
ある老女が言いました。
願いが叶うことが素晴らしいなら、叶わないことを願うことも、素晴らしいことなんだよって。だけど、ボクはそうは思わない。叶わないことなら最初から願わないし、願うことなら叶って欲しいと思うからだ。そんなふうに思うのは、至極一般論を受け止めがちなボクの性格のせいでもあるし、今のところボクの願いごとが成就していないせいもある。
ところでボクの名前はイズミ。十六歳。絶賛恋愛中。相手は軽音楽部に所属している先輩で、整頓された楽譜の上に散らばるおたまじゃくしを綺麗な音にしてなぞるのが得意な人だ。ボクはその音色に惹かれ、それを奏でる人を好きになった。好きになった理由はいやになるくらい簡単。ボクに優しくしてくれるからだ。ボクは名前も容姿も態度も女みたいだってよくからかわれたりしてるけれど、その人は一度もボクに向かって嫌なふうに笑ったりしない。わけ隔てなく他のみんなにするのと同じようにボクを見て、話してくれる。みんなと同じ。ネックであり最大の喜びである。それからもうひとつ最上級の課題がある。それは誰にも言ってない。老女以外には。
かがやかしい朝日の中で、濃紺の夜を纏ったあの老女のもとへ行くのはボクの日課だ。彼女は少ない音階で助言をくれボクを励ましてくれる唯一の友人だ。幾度となく繰り返し吐き出してきたような、生まれて初めて搾り出したような声でそっとボクを抱きしめる。彼女はボクのことがたまらなく好きだと言った。ボクもそれに応えたいけれど、彼女の好きとボクの好きは違うことはお互い分かっていた。そして彼女は決まってこう言う。どうしても超えられない何かがあっても、そこを踏ん張って頑張って乗り越えろなんて言う大人は決して信用してはいけませんって。
絶望が口を大きくあけてボクを待ち受けているというのに、ボクは知らん顔をしている。知らないフリが出来てしまうということが、すでに絶望的だ。
先輩の奏でるギターが一番よく聞こえる教室で目を閉じて耳を澄ませた。女の子の囀るような声も混じってる。ボクにはない、先輩にだってない、女の子特有の色とりどりの声で、棘だらけの柔らかさで、先輩の彼女になるために牽制しあってるんだ。
先輩は男の人だ。ボクと同じ。
どうしてこうなった。ボクだって最初から男の人が好きだったわけじゃない。たまたま好きになった人が先輩だっただけだ。それだけ。ねぇ、ボクはどうしたらいいのかな。どうしたって先輩の隣には座れない。望んだところで永久に手に入らないのに。どうしようもないのに。叶わないのに。絶対に叶わないなら願わないのが賢明だって言ってたじゃないか。超えられないものを超えるなんて不可能じゃないか。そんなの分かってる。分かってるけど、ボクは先輩が好きだ。どうしようもなく好きだ。先輩がボクの名前を呼んで振り向いて目を見て話しかけてくれることが、たまらなく苦しい。苦しくて嬉しくてどうにかなりそうだ。
彼女はボクを好きだと言った。どうしようもないって。彼女も同じ気持ちなんでしょう? こんな気持ちが素晴らしいなんて、どうしたら思える。分からないんだ。分かりたい。けど。分かりたくない。分からない。分かりたくない。
ふいにギターの音が止んだ。開け放たれた窓から先輩がボクに気付いて手を振ってくれていた。ボクが戸惑っていると先輩は気にする様子もなく微笑んだ。この世の全ての糖分をかき集めても足りないくらいの、極上の甘さで。ボクはほとんど泣きそうになったけど、精一杯笑顔で隠した。
少しだけ、ほんの少しだけぬるい希望のようなものがボクを満たした。それは宇宙創造の秘密に似た、不条理と摂理の彼岸のような救い。
絶対享受。
きらめく朝日の光を孕んだ夜のような彼女のことが思い浮かんだ。胸の奥底で、彼女がくれた言葉たちが、ボクの中で増殖の機会を待ってるような気がした。
(2008年10月16日)
(恋の水神社。写真と文章の内容とは、直接関係がありません)
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