2018年8月25日土曜日

タイ映画「ザ・キング」を観て



初めてタイの映画を観ました。以前にタイを扱った映画「王様と私」(映画で日本の第二次大戦を観て http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/09/blog-post_23.html)を観ましたが、この映画はタイでは上映禁止となっており、問題外の映画です。ここで紹介する映画は、16世紀のアユタヤ朝の名君ナレスワンを扱っており、全6部からなり、それぞれが3時間近くあるので、大変な大作です。この映画の原題は「キング・ナレスワン」で、2006年から2014年にかけて制作されましたが、私が観たのは「序章~アユタヤの若き英雄誕生~」と「第二部 ~アユタヤの勝利と栄光~」のみです。
インドシナを構成する民族の多くは、中国南部からメコン川、チャオプラヤー川、エーヤワディー(イラワディ)川などの大河に沿って南下してきた人たちで、ベトナム北部を除けば、インド文明の強い影響を受けて、独特の文明や国家を形成してきました。







 6世紀ころにメコン川流域にクメール人のクメール王国が、エヤワディー川からチャオプラヤー川にかけてモン人がドヴァーラヴァティー王国を建設しました。特にクメール王国は高度な文明を築き上げ、その後の東南アジア文明の形成に大きな果たしました。9世紀ころから、ビルマ人やタイ人が南下し、14世紀頃にはビルマ人がエーヤワディー川流域にタウングー朝を、タイ人がチャオプラヤー川流域にアユタヤ朝を建国します。ここに、今日のインドシナの国家の原型が出来上がることになります。





 アユタヤ朝は、豊かな稲作と交易の要衝として繁栄し、さらに東方のクメール地方に侵略し、高度なクメール文化を学び、さらにセイロンから上座部仏教の仏僧を招き、仏教理念に基づいた国家建設を行います。ただアユタヤ朝の国家形態は脆弱で、多数の独立した都市国家と同盟を結ぶ連合国家の形態を取っており、王位継承を巡ってしばしば対立が起ったり、王族が反乱を起こすこともありました。こうしたことを背景に、16世紀にはビルマのタウングー朝がしばしばタイへの侵入を繰り返します。









 タウングー朝は、ポルトガル人の鉄砲隊を雇い入れ、執拗にアユタヤを攻撃しました。2001年にタイで「スリヨータイ」という映画が制作されました。この映画は、1548年にビルマとの戦いで王を守って死んだとされる王妃スリヨータイを描いたものです(第一次緬泰戦争)。なお、この映画でスリヨータイを演じた女性は、タイ王室の出身だそうです。さらに、第二次緬泰戦争(156364年)、第三次緬泰戦争(156869)で難攻不落といわれたアユタヤが陥落し、アユタヤ王朝はビルマの属国(156984)となることを認めました。映画は、こうした時代を背景としています。








 ナレスワンは、1555年に生まれ、ビルマ軍が侵攻すると、1563年に王族の子として、ビルマの人質として連れていかれます。「序章~アユタヤの若き英雄誕生~」は、少年時代のナレスワンのビルマでの生活を描きます。彼は僧として修業し、親友を得、さらに幼い恋人に出会い、逞しく聡明な青年へと成長していきます。物語の途中で、当時のビルマとタイとの関係が説明されますが、これは難しくてよく分かりませんでした。ただ、当時のビルマやタイでの日常生活がしばしば描き出され、それがどこまで正確なのかは分かりませんが、大変興味深い内容ではありました。
 1569年にナレスワンの父がビルマの傀儡としてタイ王になると、その娘がビルマ王に嫁ぎ、代わりにナレスワンの帰国が認められます。「第二部 ~アユタヤの勝利と栄光~」は、ここから始まります。1581年にビルマ王が死ぬとビルマは弱体化したため、ナレスワンは挙兵し、1584年に独立を宣言します。この映画のかなりの部分が戦闘場面で、どの程度の時代考証が行われているかは分かりませんが、相当見ごたえのある場面が続きました。また、アユタヤの街並みが再現され、和服を着た日本人女性が歩いていました。なにしろアユタヤには日本人町がありますので、日本人が歩いていても、何の不思議もありません。さらに、傭兵として山田長政も登場しており、かなりきめ細かく制作されているように思われます。
 その後アユタヤ朝は国力も増強し、対外貿易も繁栄しますが、強力になりすぎた日本人を追放し、さらにアユタヤとの交易で対立したポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどヨーロッパ勢力を追放し、事実上鎖国体制をとるようになります。ビルマでは、その後タウングー朝が一時復活しますが、やがて内部対立が激化し、1752年に滅亡し、1754年にコンバウン(アラウンパヤー)朝が成立します。そしてこの王朝が、1767年にタイに侵入して、アユタヤ朝を滅ぼします。その後、1782年にタイでチャクリ朝が創設され、都をバンコクにおいたため、バンコク朝と呼ばれるようになり、これが現在のタイの王朝です。
 このように、タイとビルマが長年にわたって消耗戦を続けている間に、イギリスやフランスが力をつけ、やがてビルマはイギリスの植民地となります。

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