トゥルース 闇の告発
2010年に制作されたカナダ・ドイツの合作映画で、ボスニアにおける国連平和維持軍による人身売買事件を描いています。この事件は、実際にあった事件で、平和維持軍の一女性警察官による暴露に基づいているそうです。
ボスニアは、正式にはボスニア・ヘルツェゴヴィナといいますが、この地域の歴史は本当に複雑です。6世頃にスラヴ人がこの地域に侵入しますが、ギリシア正教会とローマ・カトリック教会がこの地域で布教合戦をおこなったため、両教徒が混在することになりました。15世紀にオスマン帝国の支配下に入り、多くの住民がイスラーム教に改宗したため、ボスニアの住民の半数近くがイスラーム教徒となり、これらはムスリム人と呼ばれるようになります。このように多様な民族・宗教が混在していたにも関わらず、オスマン帝国は宗教別の自治を認めていたため、大きな紛争は起きませんでした。
19世紀後半にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを獲得し、このことが原因で、1914年にオーストリア皇太子がサライェヴォで暗殺され、それが第一次世界大戦勃発のきっかけとなりました。第一次世界大戦後、セルビア人を中心にスロヴェニア人・クロアティア人などからなるユーゴスラヴィア(南スラヴ人の国)が誕生しますが、第二次世界大戦中ドイツに占領され、ナチスと結んだスロヴェニア人がセルビア人を激しく迫害しました。第二次世界大戦後、パルチザン闘争を行ってきたチトーが社会主義国家を建設しました。チトーは、ある程度言論の自由は許しましたが、民族主義的な言論に対しては厳しく弾圧したため、異なる民族が結婚したりして混在するようになります。しかしこの体制はチトーのカリスマ性に依存していたため、1980年にチトーが死ぬと、民族対立が顕在化してきます。
1990年にスロヴェニア・クロアティア・マケドニアが独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、カトリックのクロアティア人とムスリム人は独立を望み、ギリシア正教徒のセルビア人は独立に反対でした。一方、ムスリム人は多数派でしたので、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの主導権を握ろうとしますが、これにカトリックのクロアティア人が反発し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは三者が三つ巴となって内戦状態になります。これにクロアティア軍やセルビア軍が加わって、戦争は泥沼化します。こうしたて中で、相手民族を絶滅させようという「民族浄化」が行われ、大量の人々が虐殺されました。また、無差別に相手民族の女性を犯し、生まれた子供を自民族として引き入れる、といったことまで行われました。こうしたことは、一般にセルビア人の暴挙として報道されがちでしたが、クロアティア人も同じことを行っていたのです。
今まで、隣同士で仲良く暮らし、夫婦として伴に生活していた人々が引き裂かれ、互いに憎悪をむき出しにして殺しあうようになったのです。かつてスペイン内戦でも同じようなことが起き、人々は肉体的にも精神的にもボロボロになってしまいます。1995年に国連の調停で和平協定が成立し、紛争は一応終結しました。そして多国籍部隊(平和安定化部隊)が派遣され、停戦の監視と和平の履行を担当することになります。映画は、1999年にウクライナのキエフで二人の少女が誘拐されるところから始まり、一方同じ頃、アメリカの婦人警官キャシーが、個人的な事情で民間軍事会社に入り、そこから平和維持軍の警察官としてボスニアに派遣されます。
欧米を中心に、民間軍事会社と呼ばれる企業が多数存在します。これらの企業には、戦闘機から戦車まで保有するものもあり、国家に雇われて軍事行動を行いますが、かつての傭兵とことなるのは、運搬業務・警備・収容所の経営に至るまで、あらゆる業務を代行するところにあります。こうした民間軍事会社が急増した直接のきっかけは、冷戦終結後、各国が軍事力の削減を始め、そのため失業した軍人を雇う会社が生れてきました。彼らは、優れた軍事的能力をもっており、高給が支払われますが、新たに訓練をする必要がありません。特にテロ戦争が始まると、こうした会社が次々と生まれてきます。
国家の側から言えば、ゼロから新兵を訓練することを考えれば、こうした会社に委託した方が安上がりです。また、国家は兵員の数を際限もなく増やすことは難しく、とくにヴェトナム戦争以降、大量の兵士の死傷については、国民の批判が高まっていました。しかし、民間軍事会社の兵士の死傷は、正規兵の死傷者としてカウントされませんので、国民の批判を逸らすことができます。イラク戦争では、アメリカ軍のおよそ1割が民間軍事会社の兵士だったそうで、当然彼らの死はアメリカ兵の死としてはカウントされていません。さらに、正規兵には行えない違法な行為を、秘密裏に行わせることも可能です。こうしたことから、民間軍事会社が急成長していったわけです。
キャシーは首都のサライェヴォで、たまたまキエフから誘拐されてきた二人の少女に出会い、彼女たちを通して人身売買組織が存在すること、さらにこの組織には平和維持軍の多数の兵士が関わっていることを知ります。そこで彼女は、事実を詳細に調査して上司に訴えますが、相手にされません。上司は、そんなことは承知の上だったのです。本国にとっても、国連にとっても、このような不祥事を表ざたにすることはできません。何しろ、平和維持という崇高なる目的のために派遣されている人々が人身売買をしていたなどということは、少なくとも表面的には、あってはならないことです。結局、彼女は解雇され、密かに資料をもってイギリスにわたり、マスコミに暴露します。
その結果、多くの関係者が本国に送還されましたが、処罰された人はいなかったとのことで、彼女はもとの仕事に復帰できず、人身売買は今も続いているとのことです。国連によって派遣された人々には訴追免除という特権があります。つまり何をしても逮捕されないということです。特に治安維持軍の兵士による暴行事件が頻発しており、国連もようやく実態解明に乗り出しましたが、具体的な氏名は公表されませんでした。おそらく該当者を本国に送還し、本国が処罰することになるのでしょうが、結局本国は何もせず、事件はうやむやになっていきます。
一般に国際機関には司法の手が入りにくく、国連しかり、オリンピック、サッカーなどの国際機関でも、常に不正が取沙汰されています。世界のグローバル化がますます進行する中で、こうした国際機関に所属する人々の不正に対する罰則を明確にする必要があるのではないでしょうか。
サラエボの花
2007年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで制作された映画で、ボスニア紛争の傷跡の深さを、一人の少女を例として描いています。
映画では、しばしばチェトニクという言葉が出てきます。チェトニクは、第二次世界大戦中ドイツによる占領に対抗して生まれた軍事組織で、強烈なセルビア民族主義と反共産主義を掲げて、ドイツと戦うより、クロアティア人やムスリム人の大量虐殺を行い、その指導者は戦後処刑されました。そしてボスニア紛争でも、セルビアの民兵の中にチェトニクがかなり混ざっており、暴行や虐殺を扇動したとされます。もともと、ムスリム人、セルビア人、クロアティア人は、宗教と歴史的経緯がことなるだけで、言語も文化もほとんど同じでしたが、セルビアを中心としたユーゴスラヴィアが解体していく中で、異常な民族意識が高まったようです。
映画の主人公はエスマという女性と、その子で12歳のサラという少女です。サラは、男の子に交じってサッカーをするような活発な少女で、修学旅行に行くことを楽しみにしていました。しかし家庭は貧しく、エスマは政府からの援助金をもらい、昼は裁縫師として働き、夜もキャバレーで働いていました。紛争によってボスニアの経済は崩壊し、ボスニアは未だに経済の再建ができていませんでした。とりあえず、問題は修学旅行の費用を支払わなければなりませんでしたが、エスマにはそのお金がありませんでした。当時、父親が戦争で死んだ殉教者であれば、修学旅行の費用は免除されたのですが、免除されるためには殉教者証明が必要で、それがこの映画の核心でした。
実は、エスマは紛争中にチェトニクに集団暴行されました。毎日何回も違う男が彼女に乱暴し、その結果妊娠したのです。彼女は、お腹の子が憎く、何度も殺してしまおうと考えたのですが、生まれた子を見た瞬間、「こんなに美しいものを見たことがない」と感じ、育てることにしました。娘には父親は殉教者だと教えてあったため、娘が殉教者証明を求めた時、彼女には渡すことができず、何とかお金を工面して修学旅行の費用を払います。
やがて、サラは友人から銃を借り、父親の事を話すよう母に迫ります。結局、母はすべてを娘に話します。サラは、12歳とはいえ、自分のような境遇の子が沢山いることを知っていました。彼女は髪の毛を切り、丸坊主になって修学旅行に出発します。その時サラは、遠ざかるバスの中から、明るく笑って母に手を振り、映画は終わります。紛争は、多くの人々の肉体や心に傷を負わせ、戦後12年がたっても、まだ癒されていませんでした。おそらく、エスマとサラのようにケースは、決して珍しいことではなかったでしょう。