2016年7月30日土曜日

キュリー夫人

1943年にアメリカで制作された映画で、タイトルの通り、ラジウムの発見で知られる女性科学者マリ・キュリーの半生を描いたものです。この映画は、キュリー夫人の次女によって書かれた母の伝記に基づいて制作されました。
キュリー夫人は1867年にポーランドのワルシャワで生まれ、出生時の名はマリア・サロメア・スクウォドフスカですが、以後フランス語風にマリと書くことにします。彼女は小貴族の家に生まれ、父も祖父も科学者でしたが、家は貧しかったので大学には行けず、家庭教師で生計を立てていました。1891年、24歳の時、恋に破れた彼女は、フランス行を決意し、ソルボンヌ大学(パリ大学)に入学します。そしてドラマは、ここから始まります。
大学では数学と物理を専攻しますが、パリでの生活は大変でした。屋根裏部屋に住み、昼は学校で勉強し、夜は働き、食べるものもろくにありませんでした。そうした中で、彼女に研究室を貸してくれた科学者ピエール・キュリーと恋をし、1895年に結婚します。ピエールは、女性は感情で動くので、科学には向かないと考えていましたが、彼はマリの科学への愛と才能に魅かれたのでした。結婚式は質素で、新婚旅行は自転車で田舎を回るというものでした。二人とも、研究以外に趣味がなく、二人で研究に没頭し、やがて恩師から存在を暗示されていた放射性物質の研究を始めます。
 映画でマリは言います。「あらゆるエネルギーは消滅する。巻かなければ時計は止まる。火は勝手に消える。食べなければ生物は死ぬ。数百万年も太陽に当たらずに地中にあった鉱物が、そのままの状態で光線を出せる分けがない。エネルギーは、どこから来るのか。」まさにこれが問題です。原子は最小の単位で、それ以上分裂しないと考えられていましたが、分裂する原子があり、分裂する時にエネルギーが生まれるということであり、それは発想のコペルニクス的回転でした。
 二人は劣悪な環境のもとで研究を続け、1898年にポロニウムとラジウムという元素を発見し、さらに4年の歳月と7000回を超える実験によって、ラジウムの精製に成功します。それは、単に元素表に新たな元素を追加したというだけでなく、核分裂によってエネルギーが生まれることを実証したわけで、太陽が核融合によってエネルギーを生み出しているとするなら、物理学を根底から覆すものです。この功績により、1903年に二人はノーベル物理学賞を授与されます。そして1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表し、物理学的な宇宙観が決定的に変化していくことになります。
 この頃、放射線が生物の細胞に影響を与えることが知られるようになり、ピエールは自分の手にラジウムを塗って実験し、火傷をすることが判明しました。今日から見れば、無茶苦茶な実験です。もしラジウムが細胞を損傷させるなら、ラジウムによって悪政の腫瘍を破壊できるのではないかと考え、ラジウムを医療に役立てるため、ラジウムの精製方法に関する特許を放棄し、やがてラジウムは工業生産できるようになります。
 当時は、放射線のもつ危険性が十分認識されておらず、当時の研究者は放射性物質をポケットに入れて持ち歩いていましたので、多くの研究者が放射性障害で死亡しました。今日キュリー夫妻の記念館には、二人が使用した道具や原稿が保管されていますが、放射能が強いため、鉛の箱に保管してあるそうです。そしてマリ自身も、1934年に再生不良性貧血で死亡しました。しかし、その前にマリを大きな不幸が襲いました。1906年、ピエールが馬車に轢かれて死亡したのです。言わば交通事故です。47歳でした。マリは日記に、「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いたそうです。
 映画はここで終わります。その後彼女は夫の意志を次いで研究を続け、1911年にはノーベル化学賞を受賞します。後に彼女の長女もノーベル賞を受賞しますので、一家で4回もノーベル賞を受賞したことになります。次女のエーヴは、母の伝記の冒頭で、「その人は、女だった。他国の支配を受ける国に生まれた。貧しかった。美しかった」と書いており、アインシュタインはマリの追悼文で、「彼女の科学に対する大いなる業績は、大胆な洞察力ばかりではなく、想像しうる最も過酷な困難の下で実行する集中力と粘り強さの賜物である。・・・マリ・キュリーは、あらゆる有名人の中で、自らの名声によっても自分を見失わなかった唯一の人物である」と述べているそうです。(ブログ虹法師より)


 なお、物理学に関して述べた部分は間違っているかもしれません。そもそも私は、相対性理論をほとんど理解していません。

2016年7月27日水曜日

「アメリカのユダヤ人」を読んで

C.E.シルバーマン著(1985)、武田奈保子訳 サイマル出版社(1988)
 アメリカのユダヤ人の過半数は、1900年前後に東欧から逃れてきたユダヤ人で、著者もそうしたユダヤ人の一人です。著者は、アメリカのユダヤ人は世界で最も幸福なユダヤ人だと考えますが、それでも、著者の世代のアメリカのユダヤ人たちは、深刻な不安に悩まされているそうです。「彼らは反ユダヤ主義が増していると心配し、彼ら自身の成功や新たに得たばかりの名声が、とりもなおさず危険のもとになるのではないか、せっかく眠っている人々の羨望や鬱積した怒りをよびさまし、たとえ全世界とまではいわなくとも、一国家を支配しようとするユダヤ人の陰謀ではないかという、伝統的なユダヤ人への疑惑を復活させることを憂えるのだ。ユダヤ人家庭での子供への躾の土台は、「しいっ、静かに」だったそうです。要するに、目だたないようにすることです。
 以前に、「映画でヒトラーを観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_24.html)や「映画「屋根の上のバイオリン弾き」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_7.html)で、ユダヤ人問題について触れました。特に私の心に残っている映画は「紳士協定」と「屋根の上のバイオリン弾き」で、著者が言うようなユダヤ人の不安な気持ちをよく描いているように思いました。本書は、アメリカのユダヤ人のそうした気持ちを、さまざまな角度から、豊富な実例をあげて描き出しています。

 興味深い内容はたくさんありますが、一例のみあげておきます。「アメリカのユダヤ人にとって、クリスマスは一年を通して最も落着けない時期であった。……世界中が、急にクリスチャン一色になってしまうからだ。家々も公共の場も、クリスマスツリーやデコレーションだらけになり、デパートや街角にサンタクロースが出没する。」こうした現象を見ると、ユダヤ人たちは、自分たちがいかに異なった存在であるかを思い出すのだそうです。確かにその通りで、ユダヤ人にとっては辛い時期であろうと思います。ただ、最近では、ユダヤ人の家でも、クリスマスツリーを飾り、家族で楽しむのだそうです。ユダヤ教徒が、イエスの誕生を祝うというのは、何とも皮肉な話ではないでしょうか。


2016年7月23日土曜日

映画「天草四郎時貞」を観て

1962年に制作された映画で、1637年に勃発した島原の乱の指導者天草四郎時貞を描いています。ただこの映画は、60年安保闘争と重ねている節があり、内容に無理なこじつけがあるように思いました。
 島原はキリシタン大名有馬氏の領地でしたが、1614年に有馬氏が転封となり、代わって松倉重政が入封しました。彼は言語道断の悪政を行い、その子勝家は父を凌ぐほどの悪政を行ったため、反乱鎮圧後、責任を問われて斬首されます。江戸時代を通じて斬首された大名は、彼だけです。一方天草は、キリシタン大名小西行長の領地でしたが、行長が関ヶ原の戦いで敗北し斬首されたため、当時は唐津藩の領地となっており、ここでも悪政が行われていました。
島原にも天草にも、有馬氏や小西氏に仕えていた多数の武士が、浪人となって住んでおり、彼らが島原の乱で大きな役割を果たしたようです。天草四郎(益田四郎)は、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として生まれました。彼については伝説の方が多く、実像はほとんど分かりません。彼が様々な奇跡を行ったとか、実は女だったとか、荒唐無稽な話が多すぎます。映画では、彼が反乱軍を指導したことになっていますが、彼はまだ10代半ばの少年にすぎず、多分反乱軍の象徴として担ぎ出されたというのが、事実に近いだろうと思われます。ただ、何故彼が象徴になりえたのかについては、よく分かりません。また、島原の乱はキリシタンの反乱と言われることが多いのですが、キリシタン以外の人々も相当数参加しており、農民反乱とも言われますが、多数の武士も加わっていますので、この反乱が何だったのかについて、私にはよく分かりません。ただ、この反乱で戦国時代来の膿が一気に噴き出し、これを鎮圧することで幕藩体制が確立していったのかもしれません。

 映画では、反乱を起こすべきかどうかで、四郎や農民たちとの間で激しい議論が行われますが、学生の集団討論のようでした。四郎の意見には一貫性がなく、反乱を起こそうとしているのか、止めようとしているのか、よく分かりませんでした。どうもこの監督(大島渚)の映画は、問題意識ばかりが先走って、空振りすることが多いようで、率直に言ってつまらない映画でした。

2016年7月20日水曜日

「アメリカ文化論」を読んで

ホイジンガ著、1918年、橋本富朗訳、世界思想社、1989
 ホイジンガは、20世紀前半に活躍したオランダの歴史家で、とくに「中世の秋」の著者として知られています。私は以前に、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んで衝撃を受け、その後の私の歴史観の形成に大きな影響を受けました。彼は、「遊戯が人間生活の本質である」「戦っている人だけが歴史を作っているわけではない」と言います。以前にある生徒が、「歴史にはどうしてこんなに戦争が多いのだ」と質問しましたが、確かに歴史の教科書にはやたらに戦争の記述が多いのは確かです。これでは、戦争をしている人たちのみが、歴史をつくっているかのごとくです。もちろんホイジンガが言う「戦っている人」とは、戦争をしている人だけでなく、宗教闘争や階級闘争・政治闘争などあらゆる分野で戦っている人々も含まれますので、歴史の教科書はそういう人々や事件で溢れています。
 本書は、「中世の秋」の著者による著書としては、唐突な感じがします。私は、ホイジンガについてあまりよく知らないのですが、彼は歴史家というより、文明批評家と言うべきなのかもしれません。本書が出版された1918年というのは、第一次世界大戦の末期、アメリカが大規模に戦争に介入し、連合国を勝利に導こうとしていた時代でした。今まで、ヨーロッパの人々はアメリカについて、経済的繁栄という点では意識していても、アメリカについて深く考えることはありませんでした。「はじめてアメリカ合衆国の歴史を研究しようとする人なら、望遠鏡をのぞいているのになかなか焦点が合わないような感想を抱いたとしても、無理からぬ話であろう。望遠鏡を伸ばしたり縮めたりするのだが、像はぼうとしてかすんだままになっている。もっと複雑な比喩をお望みなら、厳格で透徹した古典音楽の形式に慣れた人が、初めて現代音楽を聴いているようなものだ。」

 アメリカについて論じた古典としてはトクヴィルの「アメリカにおけるデモクラシー」とブライスの「アメリカ共和国」が知られており、前者はアメリカに民主主義の理念型を求め、後者はアメリカの制度と国民をあるがままに記述しようとしました。そしてホイジンガは、アメリカ精神の真髄を探ろうとしました。本書は、今日ではアメリカについて論じた三番目の古典として定着し、アメリカ史に関する多くの本で引用されています。ただ、本書はアメリカを一刀両断するのではなく、「およそ文化の進展とは、絶えざる矛盾の平衡状態のなかで説明されてはじめて把握しうるものであり、……アメリカ以上にこのことが当てはまる国はどこにあろうか」というホイジンガの主張に基づいて書かれており、アメリカを多様な側面から論じている名著です。

2016年7月16日土曜日

映画「白鯨」を観て

MOBY DICK (1部 冒 /2部  )は、アメリカのメルヴィルが19世紀半ばに著した同名の小説をもとに、2010年にドイツ・オーストリアで、テレビ番組用に制作されました。
 メルヴィルは、1819年にニューヨークで生まれ、父が破産したため、小学校の教員など色々な仕事を転々とした後、1839年に船員となり、1844年に帰国しますが、この間に様々な苦しい経験をします。こうした経験をもとに、1851年に「白鯨」を発表しますが、ほとんど評価されず、その後も多くの小説を書き続けますが、生活はニューヨークの税関での仕事でかろうじて維持、家族の不幸も相次ぎ、1891年死亡します。報われることの少ない一生でした。彼の作品は象徴的で難解であったため評価されず、彼の死の30年後にようやく再評価が行われます。「白鯨」はサマセット・モームの「世界の十大小説」に入っており、また何度も映画化されました。
 クジラは、種類も豊富で、北極海から南極海まで分布し、人類は古くから捕鯨を行っていました。近代になると、ヨーロッパ人が良質の灯油用の鯨油を求めて大規模な捕鯨を行うようになり、17世紀末には鯨油貿易はアジアの香辛料貿易を上回るほどでした。18世紀に入ると資源が枯渇し始めたため、北米植民地の人々が大型帆船で太平洋に乗り出すようになります。捕鯨の範囲は北極海から南極海に及び、1820年代には日本近海が資源豊富な漁場として、多くの捕鯨船が集まるようになります。1841年に遭難したジョン万次郎を助けたのはアメリカの捕鯨船であり、1853年にペリーが来航したのも、捕鯨船の寄港地が欲しかったからです。
 ドラマは、捕鯨船の船長エイハブが巨大な白鯨に片足を食いちぎられ、その復讐に執念を燃している所から始まります。このクジラはマッコウクジラで、背が灰色で、大きなものは20メートルを超えるそうです。船長を襲ったクジラはモビィ・ディックと呼ばれ、30メートルを超す巨体で、人々に恐れられていました。この船の一等航海士スターバックは非常に実直な人物でしたが、モビィ・ディックを倒すと言う船長の冒険には一貫して反対していました。なお、コーヒー・チェーン店のスターバックスは、この名前に由来するそうです。そしてこの物語の語り部がイシュメイルという青年で、クジラに憧れてやってきました。エイハブのモビィ・ディックに対する執念は凄まじく、太平洋を縦横に走り回って追いかけ、凄まじい戦いの結果敗北し、イシュメイル以外は全員が死亡します。
 私は原作を読んでいないのですが、本書は文庫本で1000ページに及ぶ大作だそうで、捕鯨についての詳細な説明があり、19世紀のアメリカ捕鯨の貴重な資料にもなっているそうです。全体に象徴性に富み、「モビィ・ディックは悪の象徴、エイハブ船長は多種多様な人種を統率した人間の善の象徴、作品の背後にある広大な海を人生に例えるのが一般的な解釈」なのだそうです。ただ、エイハブという名前は旧約聖書にあるアハブであり、アハブは偶像崇拝を受け入れた悪王です。事実、船員にはインディアン(先住民)も黒人(アフリカ系アメリカ人)もおり、人種的・宗教的差別のない世界であり、南北戦争が近づいている当時としては、むしろ特異な世界といえるでしょう。もしかするとエイハブは、絶対的な服従を求める神モビィ・ディックに挑戦したのかもしれません。
それに対して、スターバックは信仰深い人間であり、神に挑戦しようとする船長を必死になだめていたのかもしれません。一方、イシュメイルも旧約聖書にある名前でイシュマエルといい、アブラハムの庶子として生まれ、後に母とともに砂漠に追放された人物です。イシュメイルは小柄で腕力もなく、周りから浮いた存在でしたが、エイハブを父のように慕い、モビィ・ディックを倒すことに熱中し、結局彼だけが生き残ります。このことが何を意味するのか、映画だけではよく分かりませんでした。とはいえ、今から原作を読む気力は、私にはありません。

なお、イシュマエルはやがてアラブ人の祖先となったとされ、イスラーム教ではイスマーイールの名で尊敬されています。

2016年7月13日水曜日

「「他者」との遭遇」を読んで

 1992年、コロンブスによる「発見」500周年を記念して出版された「南北アメリカの500年」シリーズの第一巻で、歴史学研究会によって編纂されました(青木書店)。当時、500周年を記念した本が多数出版され、ここでも何冊か紹介しましたが、どれも「発見」という言葉の不当性を主張しており、この論点には少し飽きてきました。もちろんヨーロッパ人によるアメリカ大陸征服の不当性は言うまでもないことですが、当時のヨーロッパ人が突然未知なる他者と出会い、偏見をもって彼らに接した時の戸惑いは、今日の我々にも言えることだと思います。我々が今日未知なる他者と出会ったとき、偏見なしに彼らと接することは不可能であり、むしろ我々は歴史上で我々が犯してきた多くの誤りを学び、そうした誤りを繰り返さないように努力すべきではないかと思います。そしてこのことは、日常的に起きる個人と個人との出会いについても、言えるのではないと思います。
 本書は、この「発見」を「他者との遭遇」という観点で捉え、興味深い内容も含まれていました。そもそもスペインは、中南米の支配に当たり、先住民の労働力を必要としましたから、現地社会の温存を図り、そのため現地の共同体は今日まで残っていますが、北米に植民した清教徒にとって、先住民は打倒すべき異教徒でしたから、先住民の伝統はほとんど消滅してしまいました。また、ヨーロッパ人は最初先住民をどのように解釈してよいのか分からず、そもそも人間なのか獣なのかで議論となりました。この点については、ローマ教皇が先住民はアダムの子孫であると認定して、一応決着がつきました。
 一方、北米の先住民は、しばしば宣教師に、「あなた方はなぜ我々をインディアンと呼ぶのか」と尋ねました。もともと、この土地をインドと勘違いしたコロンブスが、先住民をインディオと呼んだことに始まり、その後ヨーロッパ人は、先住民を一括してインディオ・インディアンと呼ぶようになりました。しかし先住民の側からすれば、現地には多くの部族があり、それらはまったく別物でしたから、先住民にとっては一括して呼ばれることは不愉快だったでしょう。もっとも、この点についてはヨーロッパ人も同様で、ヨーロッパには多くの国がありましたが、彼らはアメリカ大陸で先住民をインディオと一括して呼ぶようになってから、自分たちを一括してヨーロッパ人と考えるようになりました。こうして、インディオとヨーロッパ人、野蛮と文明、異教徒とキリスト教徒という対立する構図が形成されていきました。
 また、北米で活動するイギリスやオランダの宣教師は、一様に先住民の男を怠惰とみなし、女は土を耕すが、男は狩りか釣りか戦争しかしないと報告しています。そのため、先住民社会について、怠惰な男と奴隷のように働く女というイメージが形成され、ヨーロッパで定着しました。どうしてこのようなイメージが形成されたのでしょうか。宣教師が先住民の村を訪れるのはほとんど夏で、狩りのシーズンは秋から冬であり、夏は農作業のシーズンで、農作業は女の仕事だったからです。また、ヨーロッパでは狩りは富裕者のスポーツであり、農業は男の仕事でしたから、このことが宣教師たちの誤ったイメージを生み出す原因となりました。

 偏見とは、このようにして生まれてくるものです。未知なる他者と遭遇した時、人は当然自分と比較して考えますが、決して安易に判断するのではなく、可能な限り客観的に、自己も他者も理解する努力が必要であることを、歴史は我々に語りかけています。

2016年7月9日土曜日

映画「水滸伝」を観て


2011年に中国で制作された連続テレビ・ドラマで、全86話からなります。北宋末期(12世紀初頭)に、山東省の梁山泊に集まった108人の英雄たちの物語で、中国で最も人気のある小説の一つです。「水滸伝」は、明代初頭(14世紀後半頃)に施耐庵か羅貫中によって編纂されたとされますが、はっきりしません。すでに、講談などでひろく知られていた内容を編纂したものとされ、初めは36人の盗賊集団の物語でしたが、やがて皇帝への忠義を掲げ、腐敗を正す義賊の集団という話になっていったようです。



























「滸」は「ほとり」の意味で、「水滸伝」とは「水のほとりの物語」という意味です。ここでいう「水のほとり」とは、「水滸伝」の舞台である梁山泊のことで、日本でも浪曲や講談の出し物に「天保水滸伝」というのがありますが、これは利根川流域における侠客たちの物語です。梁山泊は、海抜0メートル以下の土地で、周りを山で囲まれた沼沢地です。宋代に黄河が氾濫を繰り返して川筋が変化し、この地域に黄河が流れ込んで大きな沼となりましたが、その後再び川筋が変化して、現在では沼はほとんど消滅しており、観光施設が残っているのみです。梁山泊の名は日本でもよく知られており、この名をとった商店も多く、また「有志の連合」の代名詞のように用いられることがあります。例えば、大隈重信の私邸には若手官僚が集まり、築地梁山泊と呼ばれましたし、手塚治虫などが住んでいたトキワ荘が「マンガ家の梁山泊」と呼ばれました。
物語の始まりは、昔々天界を追放された108の魔星が、ある伏魔殿に封印されていましたが、宋代になってから、ある人物が封印を解き、その結果108の魔星が天空に飛び散りました。こうした物語の設定は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」でも用いられています。なお、108とは仏教で言う煩悩の数でもあり、除夜の鐘で突かれる数でもあります。そして、この108の魔星が、梁山泊に集う108人の英雄・豪傑たちとなって不正と戦うことになるわけです。
当時の中国は、第8代皇帝徽宗(11001126)の時代で、彼は名君として知られた第6代皇帝神宗の六男でしたが、成り行き上彼が皇帝になってしまいました。これは中国にとっては不幸なことでした。徽宗は政治にあまり関心がなく、芸術に強い関心をもっていましたが、なまじ権力者が芸術に関心をもつとどうなるかという、見本のようなものでした。まず立派な庭園を造り、そのための珍しい石や木や動物を全国各地から集め、さらに立派な宮殿を立て、高価な書画・骨董を買い集めます。見識のある官僚は、当然こうした散財を批判しますが、徽宗はそうした人々を退け、皇帝にすり寄る奸臣たちを重用しました。その結果、政治は腐敗の極みに達していきます。

「水滸伝」では、政治腐敗の元凶として4人の奸臣があげられます。高俅(こうきゅう)は、「水滸伝」で最大の悪役に位置づけられています。彼は、大した能力もなかったのですが、蹴鞠が得意で、蹴鞠が好きな徽宗に気に入られて、軍隊を統括する大尉にまで出世しました。彼と彼の一族は私利私欲のために権力を濫用し、近衛軍である禁軍の師範林冲(りんちゅう)を流刑とします。ただし彼は、「水滸伝」で言われる程の悪党ではなかったようです。蔡京(さいけい) は、朝廷の最高権力者である宰相で、収賄で私腹を肥やします。彼は権力欲が強く、主義主張に節操がなく、皇帝に取り入って権力の頂点を極めます。童貫(どうかん)は宦官だったにも関わらず禁軍の総統となり、皇帝に媚を売って権勢をふるいます。楊戩(ようせん)は、四奸の中では一番影が薄い人物です。

こうした人々が権力をふるう時代にあって、正義心溢れる人々は、彼らに抑圧され、追い詰められ、やがて梁山泊に集まってきます。後に梁山泊の指導者となる宋江は、押司(おうし)という下級官僚でしたが、義侠心に富み、多くの人々から尊敬されていました。中国の地方統治では、高級官僚は中央から派遣されてきますが、それぞれの地方の実務は胥吏と呼ばれる小役人が担当していました。彼らには、一般的には給料が支払われていませんでした。彼らの収入は様々な手続きなどに対する民衆からの手数料収入で賄われていました。そしてこの手数料収入を統括し、胥吏に分配するのが押司でしたから、押司は地元の顔役的存在であり、日本風に言えば、少し違うかも知れませんが、十手を預かるヤクザの親分のようなものです。手数料を幾らにし、胥吏に幾ら分配するかは、押司の胸三寸であり、まさにこの制度は腐敗の温床であり、押司は民衆の怨嗟の的でした。宋江は、「押司なのに公明正大だった」と言われていましたから、逆に腐敗していない押司などは、ほとんどいなかったということです。
 映画の前半では、全国の様々な所で、正義感と義侠心に溢れる人々が、不当な扱いを受け、追い詰められて梁山泊に集まってくる様子が描かれています。まず、禁軍(近衛軍)80万の師範であった林冲(りんちゅう)が無実の罪で流罪とされ、脱走して梁山泊に身を寄せました。また、宋江の同郷人である晁蓋(ちょうがい)は、政府が民衆から搾取した財物を強奪し、梁山泊に逃れてきました。当時、梁山泊を支配していたのは王倫(おうりん)という科挙の落第生で、非常に狭量な人物でした。そこで、林冲や晁蓋がクーデタを起こし、王倫を殺して梁山泊を乗っ取ってしまいます。ここに、忠義と正義を旗印とする梁山泊が誕生することになります。
 一方、梁山泊の近くに二龍山という天然の要塞があり、ここにも英雄たちが集まっていました。梁山泊は二龍山との統合を企図し、統合に際して宋江を棟梁として迎え入れようとします。宋江は、長い遍歴と苦しみを経験してきましたが、賊になることには抵抗がありました。しかし、追い詰められた宋江は、第41話でついに梁山泊に入ります。それとともに多くの好漢(英雄)たちも続々と集まり、梁山泊は一大勢力に発展します。そうした中で梁山泊は、「替天行道」(たいてんこうどう)をスローガンとして掲げます。つまり「天に替わって道を行う」ということで、それはまさに反乱でした。
 その後、梁山泊は周辺地域とも争って勢力を拡大し、梁山泊を制圧するために派遣された政府軍にも勝利します。そうした中で、内部対立も起こってきます。宋江たちは、自分たちの存在を朝廷に認めてもらい、奸臣を廃して国のために忠義をつくしたいと望んでおり、自分たちが「賊」であることに甘んじるべきではないいと考えていました。これに対して、もともと朝廷に反発して梁山泊に集まってきた人々が多く、さらに朝廷に組み込まれれば、梁山泊の自由がなくなるとして、宋江たちの考えに反対する人たちもいました。しかし宋江たちは、朝廷による承認を求め続け、映画の79話でようやく皇帝によって承認されることになります。こうした宋江たちの態度は、私たちには分かりにくく、中国でも文化大革命時代に、宋江たちの態度は裏切り行為だと批判されました。
 いずれにしても、朝廷による公認は、梁山泊の破滅につながっていきます。当時、江南で方臘(ほうろう)という人物を中心とした賊集団が、1120年には一大勢力に発展していました。そして朝廷は、1121年に梁山泊にその鎮圧を命じます。私たちの目から見れば、梁山泊も方臘も似たような賊集団に見えますが、宋江たちは方臘を国家に害をなす集団として鎮圧に向かいます。この戦いは相当凄まじい戦いで、結局鎮圧に成功しますが、108人いた梁山泊の英雄たちの内、都に帰れたのは27人しかいませんでした。さらに、残った27人に対して、朝廷は恩賞として官職を与え、地方に赴任させますので、梁山泊の人々はばらばらに分散し、集団としての梁山泊勢力は、事実上消滅することになります。
 その後、宋江は奸臣たちの策略で、毒酒を仰いで死にますが、このあたりの事情は、宋江について史実として知られていることとは異なるようで、あくまでも「水滸伝」での話です。結局、宋江たちは官職を得ることはできましたが、奸臣を廃することはできませんでした。しかし、北宋王朝も奸臣たちも、これより5年後の1126年に滅びることになります。この年に異民族が華北に侵入し、都を占領して徽宗らを拉致し、北宋は滅亡します。いわゆる靖康の変の勃発です。これ以降、中国は長い異民族支配の時代を迎えることになります。そうした苦難の時代に、民衆の間に「水滸伝」の伝説が形成されていくことになります。

 非常に長い連続テレビ・ドラマで、しかも全体の半分くらいが戦っている場面か酒を飲んでいる場面でしたので、途中からかなり飛ばして観ました。でも、「水滸伝」で語られている多くのエピソードが描かれており、非常に面白く観ることができました。おそらく、こうしたエピソードは独立して語り継がれてきたもので、それらが「水滸伝」の中に組み入れられていったものと思われます。