2016年5月4日水曜日

映画で旅芸人を観て

はなれ瞽女おりん

 水上勉が1975年に発表した同名の小説が、1977年に映画化されました。
 旅芸人とは、古代以来世界中どこにでもおり、サーカスや奇術師など、さらにヨーロッパ中世の吟遊詩人も旅芸人です。日本でも、古くから旅芸人はおり、江戸時代でも関所手形がなくても、芸を見せれば関所を通れたそうです。こうした旅芸人は、娯楽の少ない農村では、大変喜ばれたそうです。
そして、この映画の瞽女(ごぜ)も、旅芸人の一種です。瞽女とは、眼の見えない女性が、三味線などを弾いて門付を行う旅芸人で、すでに室町時代には存在していたとされます。瞽女は、地域ごとに集団を形成して生活し、幼い頃から芸を教えられ、集団で門付巡業を行っていました。こうした集団の中で育った少女は、初潮を迎えると、皆の前で三々九度の杯を壊して神の嫁にしてもらい、男性と交わらないことを誓います。こうした原則を守らなければ、女だけで旅をしていれば常に男性に襲われる危険があるし、子供が生まれても、盲目の女性が育てていくことは困難だからです。そのため、禁を犯した瞽女は集団から追放され、一人で暮らしていかなければなりません。こういう人を「はなれ瞽女」と呼びます。
この映画の主人公のおりんは、はなれ瞽女でした。眼の見えない女性が、一人で門付の旅をすることは、容易なことではありません。映画は、おりんが26歳の時から始まります。この頃、彼女は鶴川仙蔵という男性と出会い、彼と心が通い合うようになり、一緒に旅をしていました。男はほとんど彼女の体を求めるのですが、鶴川はまったく彼女に体を求めず、彼女にいつも優しくしてくれました。そうした中で、彼女は彼に自分の身の上を話すようになります。彼女は若狭の小浜で生まれ、生まれつき目が見えず、6歳の時に母がいなくなり、新潟の瞽女屋敷に連れて行かれ、そして二十歳の頃男に半ば無理やり犯され、瞽女屋敷を追放されました。以後、彼女は半ば瞽女として、半ば娼婦として生きてきましたが、彼女には暗さはなく、強かに生きていました。
彼女は鶴川という男性と知り合ってから、初めて女らしい幸せを求めるようになります。しかし鶴川は、自分の身の上について決して話そうとしませんでした。実は彼は脱走兵でした。当時は大正時代で、シベリア出兵が行われており、彼は金持ちの身代わりに徴収され、脱走しました。さらに彼は、おりんに乱暴を働いた男を殺したため、警察に捕らえられてしまい、おりんは生きる希望を失ってしまいます。それから、どれ程の歳月が流れたのかわかりませんが、小浜の岬の先に白骨化した女性の遺体が発見され、そばには薄汚れた赤い着物が落ちていました。彼女は自殺していたのです。彼女は、鶴川に合わなければ、一生強かに生きて行けたかもしれません。しかし鶴川に合い、幸せへの希望を抱き、そして鶴川を失ったとき、もはや生きていくことができなかったのだと思います。
映画では、北陸の厳しくも美しい風景や、大正時代の風俗がよく描かれており、悲しくも美しい映画でした。それにしても、篠田正浩という監督は、映画の中とはいえ、妻の岩下志保を裸にさせたり、暴行させたり、やりたい放題ですね。

竹山ひとり旅

1977年に制作された映画で、津軽三味線の名手高橋竹山(本名定蔵)の一生を描いた映画で、当時まだ存命していた竹山自身が語りを務めています。
 津軽三味線というのは、弦を打つように強く弾く奏法のことです。三味線自体は、新潟の瞽女を通してかなり以前から津軽に普及していましたが、幕末の頃にボサマ(仁太坊」(にたぼう))という人物が革新的な奏法を導入したといわれます。それは、お祭りなどでは多くの奏者が並んで三味線を弾くため、より目立つための奏法だとされます。ここに津軽三味線と呼ばれる奏法が生まれる分けですが、三味線で門付をする人はボサマと呼ばれるようになります。
 竹山は1910年に生まれ、2~3歳の頃麻疹による高熱で失明し、15歳の時にボサマに弟子入りして三味線を習い、17歳頃からボサマとして各地を放浪します。時代的には、前に述べたおりんとほぼ同じです。映画にストーリーはほとんどなく、竹山の放浪の姿を描いているだけですが、その間に色々な人と出会います。泥棒、飴売り、年老いたボサマなどで、こうした人々との出会いを通じて、彼の人間形成が行われていきました。まもなく第二次世界大戦が始まり、人々にボサマに恵む余裕がなくなり、ボサマとしての生活が困難となります。一度結婚しますが失敗し、1938年に同い年のナヨという盲目のイタコと再婚します。
 イタコというのは、霊媒師、祈祷師、シャーマンといった意味ですが、彼女の場合、人々の悩みを聞いたりするカウンセラーのような役割も果たしており、竹山より稼ぎがよかったため、竹山の仕事がなくなっても、竹山を支え続けました。この間にも、多くの人との出会いや苦しみがあり、そうした経験を通じて、竹山の三味線に心が宿るようになっていきます。そして、1950年から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者となり、しだいに竹山の名が世に知られるようになります。1975年に自伝「津軽三味線ひとり旅」が出版され、1977年にこの映画が制作されました。1986年にはアメリカ公演が行われ、アメリカの評論家たちから絶賛され、今や高橋竹山と津軽三味線の名声は不動のものとなりました。そして1998年に、竹山は87歳で死亡します。
 映画では、東北地方の厳しい自然と貧困が描き出され、そこに自然にボサマが溶け込んでいるように思われました。盲人は常にどんな地域にもおり、北陸の瞽女もそうですが、彼らは決して厄介者ではなく、その地方に溶け込んで生きていました。また、竹山の母は、くじけそうになる息子を常に叱咤激励し、決して見捨てることはありませんでした。こうした人々に支えられて、竹山は芸を極めることができたのだと思います。
しかし、戦争がそうした生活を困難にし、さらに戦後、ラジオ・テレビなど娯楽が普及すると、旅芸人の存在意義が失われていきます。こうした芸は伝統的な民衆芸能であり、それらは、戦後次々と失われていきましたが、その一部は、竹山などを通して広く知られるようになりました。

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