1965年にアメリカで制作された映画で、システィナ礼拝堂にミケランジェロが「天地創造」の天井画を描く過程が描かれています。原題は「苦悩と歓喜」で、何となくベートーヴェンを思い出させるようなタイトルです。
ミケランジェロは少年時代から、そのずば抜けた才能によって広く知られており、また彼の手記・手紙を初め同時代の証言が多数あり、さらに生存中に彼の伝記が書かれていますので、彼の90年に近い生涯については、多くのことを知ることができます。それにも関わらず、彼の作品の解釈については多くの議論がなされており、私ごときが陳腐な解説を追加するのは止めておきたいと思います。ただ、「すごい」としか言いようがありません。
映画は、ローマ教皇ユリウス2世がミケランジェロに天井壁画を依頼するところから始まります。1503年に教皇となったユリウス2世は、教皇領とイタリアから外国の影響を排除することを目指し、まさにマキァヴェリ的な外交戦略を駆使し、自ら鎧兜に身を固めて戦争を指揮しました。彼の政治的手腕は高く評価されていますが、結局彼の目標は達成されず、その権謀術数がかえってイタリアの分裂を深めることになりました。映画では、彼の活動がかなり詳しく描き出され、大変興味深く観ることができました。
一方、彼はローマを美しくすることにも熱心でした。西ローマ帝国の滅亡後、ローマでは大規模な建設は行われず、あちこちにローマ時代の廃墟がそのまま残されており、道はぬかるみ、アヒルや羊が走り回っていました。しかも、一時教皇庁がアヴィニョンに移され、その後も戦乱が続き、ローマはますます荒廃していきました。彼は、西欧キリスト教世界の中心ともいうべき教皇庁の所在地ローマが、このような廃墟であってはならないと考えました。そのため多くの芸術家を雇います。ブラマンテにはサン・ピエトロ大聖堂の建築を命じ、ミケランジェロには、何の変哲もないシスティナ礼拝堂の天井に壁画を書くことを命じたのです。
ミケランジェロは、少年時代には画家として訓練を受けましたが、この頃には自分は彫刻家であることを自負していました。そのためミケランジェロは、最初仕事を断ったのですが、ユリウス2世はミケランジェロに強引に仕事をさせます。今や彫刻家として並ぶもののないミケランジェロに壁画を描かせるという発想は、まさにユリウス2世の炯眼としかいいようがありません。ユリウス2世は、12使徒を書くように命じたのですが、まもなくミケランジェロは、壮大かつ複雑な天地創造の壁画に変更します。4年間かけて、彼は20メートルの高さの天井に、ほとんど一人で天地創造の壁画を描き切ります。
この間に、ユリウス2世は、早く完成させろと毎日のように催促し、ミケランジェロも不眠不休で働きますが、彼は自分が納得したものでなければ描きません。そのため二人はしばしば対立し、映画では二人のやり取りが詳しく描かれます。しかし、ユリウス2世こそが、ミケランジェロの最もよき理解者であり、彼はミケランジェロの才能を見事に引き出しました。ユリウス2世は言います。「ミケランジェロの血管に流れているのは絵具だ」とか、「残念だが後世に残るのは私の武勲ではなく、ミケランジェロに絵を強要した功績だ」などと言います。まさにミケランジェロにこの絵を描かせたことが、ユリウス2世の名を不朽のものにしたといえるでしょう。
映画自体は面白く観ることができましたが、掘り下げが足りませんでした。そもそもミケランジェロは異様な風体をしていたといわれており、また内面から湧き上がる異常な力に人々が圧倒されたとされますが、これを長身・ハンサムなチャールトン・ヘストンが演じるには無理がありました。ミケランジェロの生涯は苦悩の連続だったとされますが、彼の苦悩とは、一体なんだったのでしょうか。当時は宗教改革が始まる直前であり、教会に対する不信感が頂点に達していた時代でした。そうした中でミケランジェロは、信仰とは何か、神とは何か、人間とは何か、愛とは何か、そしてそれをどのように表現したらよいのか、といった問題に真剣に悩んでいたはずです。それこそが、彼の苦悩だったと思います。映画は、そうした彼の苦悩を、もっと掘り下げるべきだったと思います。
ところで、彼の仕事の速さは驚異的でした。映画の最初に彼はブラマンテに、石の中にすでに像がある、自分はそれを切り出すだけだ、といいます。おそらく壁画においても、彼にとっては、すでに壁に絵があり、自分はそれに色を塗るだけだ、と思っていたのではないでしょうか。まさにミケランジェロは「神の手」でした。
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