1.アケメネス朝ペルシア帝国
2.アテネ海上帝国
3.アレクサンドロス帝国
4.ローマ帝国-地中海世界の成立
付録.パルミラの盛衰
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1.アケメネス朝ペルシア
王の道は2400キロに及び、日本の本州の端から端までが1500キロですから、いかに長いか分かります。駅伝111カ所置かれ、通常90日かかる旅程を早馬で7日で行くことができたとされます。
インドヨーロッパ語族に属するペルシア人が建国したアケメネス朝ペルシア帝国は、人類史上最初の「世界帝国」といわれています。ところで、「帝国」とは何か、それは「王国」とはどのように異なっているのでしょうか。「王国」とは比較的同質の民族・文化・言語・習俗などをもった集団あるいは領域を、特定の君主が統治する政治形態ですが、「帝国」とは、多様な民族・文化・言語・習俗をもつ多くの集団を政治的に統合し、かつ経済的にも一貫性をもったネットワークを形成するものであり、さらに「世界帝国」はその地域の過去の文化の集大成であるとともに、新しい文明の出発点となるような帝国です。
ペルセポリス
標高1100メートルの場所で山を削り、400メートル四方のテラスを造り建設されました。その主要な用途は帝国の新年祭を行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったとされます。
たしかに、すでにアッシリアがエジプトを含めたオリエント世界を統一しましたが、それは一時的な軍事的支配に終わりました。ペルシア帝国については、高校世界史の教科書の文章を引用してみます。「ダレイオス1世は「諸王の王」と称し、新都ペルセポリスを建設し、中央集権体制を強化した。全土を20余州に分け、サトラップ(総督)を任命して徴税や治安維持を行うとともに、中央から「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を派遣して、州行政の監視や商業情報の収集に当たらせた。そのために「王の道」と呼ばれる国道を整備し、駅伝制が設けられ、王都と地方を直結する体制がとられた。このような交通網の整備に加え、金貨・銀貨が発行され、商業交易の条件は有利になった。帝国内におけるアラム人、フェニキア人などの商人は交易活動の範囲を西地中海からインドにまで広げた。」(東京書籍))
紀元前4世紀にインドで成立した最初の統一王朝マウリヤ朝も、紀元前1世紀に成立したローマ帝国も、ペルシア帝国の強い影響を受けていました。8世紀末のフランク王国のカール大帝もペルシア帝国の行政制度を意識しており、教科書には「在地の豪族を伯に任命し、これを監督するために巡察使が派遣された」とありまが、この統治制度はペルシア帝国と酷似しています。一方、中国でも秦帝国が、全国を郡と県に分けて中央から役人を派遣し、これを監督するために監察が設置されるが、これもペルシア帝国によく似ています。この点について具体的な証拠はありませんが、ペルシア帝国が滅びたのが紀元前4世紀、秦帝国が成立したのは約1世紀後の紀元前3世紀であり、秦が西方の影響を受けやすい中国西部に位置していたことを考えると、ありえないことではありません。だとすれば、アケメネス朝ペルシアは、その後の世界史に登場する「帝国」のモデルとなったといえるでしょう。
ペルシアによるオリエントの政治的統一は、オリエントの交易ネットワークの完成を意味しました。しかも、ダレイオス1世はインダス川河口からペルシア湾への航海を行わせ、さらに成功はしませんでしたが、紅海とナイル川の間に運河の開削を試みている。まさに、彼は海と陸のネットワークの結合を目指したのです。そしてこのネットワークは、東はインドとシルクロードにつながり、西は地中海とつながっていました。そして地中海では、ペルシア帝国の保護のもとで活動していたフェニキア商人に対して、ギリシアが激しく挑戦し始めたのです。それが、5世紀に勃発したペルシア戦争の原因の一つです。
2.ギリシア人の登場
前12世紀頃、おそらく「海の民」と呼ばれる人々の侵入でエーゲ文明が滅び、エーゲ文明の後半期(ミケーネ文明)を担っていたギリシア人の世界は、以後400年近く混乱状態に陥いりました。この間にフェニキア人が地中海貿易で繁栄したことは、先に述べました。しかし紀元前8世紀頃、ギリシア人はフェニキア人の影響を受けてアルファベットを採用するとともに、再び海上貿易に乗り出した。エーゲ海は島が多く、目印になるとともに、嵐の時には寄港地になります。ただ、冬の疾風が吹く季節には、風向きは激しく変化し、予想もつかない逆波や横波が生じるため、この時期の航海は困難です。
ギリシアは平地が少なく、石灰質の土壌で、気候も乾燥しているため、食糧の自給ができず、交易に依存せねばならなりませんでした。また、人口増加もあって、過剰人口を外に排出する必要もありました。こうしたことを背景に、ギリシア人は本格的に交易と植民活動に乗り出し、ギリシア南部、黒海沿岸、エーゲ海、シチリア島、イタリア南部、南フランスなどに、人口数百人から数千人規模の千余りのポリスや植民市を建設していきました。すなわち、当時のギリシア人とは、今日のバルカン半島南部に領域的に制限されたギリシアに住む人々だけではなく、地中海全域に散らばる海洋民族でもあったのです。そして当然、地中海貿易で繁栄するフェニキア商人と対立することになります。
ギリシアの壺
オリーブ油やワインは、こうした美しい壺に入れて輸出されましたが、やがて壺自体が輸出品となります。
彼らは、いち早くリディアの鋳造貨幣の影響を受けて銀貨を鋳造し、オリーブ油・ブドウ酒・陶器・鉄製武器などを輸出するとともに、海外から小麦などの食糧や奴隷を輸入しました。交易によって農作物を販売した農民たちの中に豊かになる農民が現れ、彼らは重装歩兵としてポリス防衛の担い手となりました。そして、彼らを中心とする独特の民主政が形成されていくとともに、オリエントの先進的な文化を取り入れて独自の文化が形成されていきます。まさにその時、ペルシアの大軍がギリシアに押し寄せたのです。
サラミスの海戦で活躍した三段櫂船のレプリカ
ペルシア戦争を事実上決着させることになったサラミスの海戦のさい、ペルシア側の艦隊はほとんどフェニキアの船だったといわれており、まさにこの戦いは、地中海の商業覇権をめぐるギリシアとフェニキアとの戦いだったのです。この戦いに最終的にギリシアが勝利した理由について、様々な議論がなされています。かつては、ペルシアの専制政治に対するヨーロッパ民主政の優位性が説かれましたが、これはあまりにヨーロッパ中心的な発想であす。むしろ、ペルシアを中心とするオリエントの交易ネットワークの辺境にあった地中海が、新たな交易ネットワークを形成していくという、歴史の大きな流れの中で起こった一つの事件としてとらえるべきである、と思います。
パルテノン神殿の想像図
ペルシア戦争中に、アテネはペルシアの攻撃に備えて、200余りのポリスを糾合してデロス同盟を結成しましたが、戦後アテネはデロス同盟の盟主として、エーゲ海を中心とするギリシア世界の覇権を握りました。またこの頃ラウレイオン銀山の採掘が本格化し、経済的にも発展しました。アテネは圧倒的に強力な海軍力を背景に、同盟ポリスにさまざまな介入を行ないましたが、これらを政治的に支配・統合することはできませんでした。むしろ、アテネの覇権に反発する勢力との抗争が相次ぎ、その混乱に乗じて北方から侵入したマケドニアがギリシア世界を制圧することになります。一方、戦いに敗れたフェニキアは拠点をカルタゴに移し、西地中海に活路を見いだしていました。そして同じ頃、地中海世界の辺境に、ようやくローマがその姿を現し始めており、地中海世界の重心は徐々に西方に移動し始めていきます。しかしその前に、アレクサンドロスの大遠征が行われることになります。
3.アレクサンドロス帝国
アレクサンドロス帝国の領域
ギリシアを征服したマケドニア王フィリッポス2世の子アレクサンドロスは、紀元前334年にペルシアへの大遠征を開始しました。すでに父フィリッポス2世がペルシア戦争に対する復讐戦争を提唱しており、アレクサンドロスはそれを継承したわけですが、ギリシアの大哲学者アリストテレスの教育を受けたアレクサンドロスは、オリエントとギリシアの統合という、より高い理想を掲げました。しかしその背景には、常に豊かな富をもたらすペルシアの交易ネットワークの支配という、ギリシア人が古くから抱き続けた願望が存在していました。
事実、アレクサンドロスは征服地に70余りのアレクサンドリア市を建設し、それらを政治・軍事とともに交易の拠点としました。さらに、インド遠征から撤退の際、武将のネアルコスにインダス河口からペルシア湾への航海を行わせ、死の直前にはアラビア半島への遠征を計画してペルシア湾の支配をはかっていたようです。したがって、彼もまた陸と海のネットワークの形成を目指したのです。
しかし彼の支配は点と線を結ぶものでしかなかったので、彼の死後帝国はあっけなく崩壊しました。まず、本国のマケドニア王国ではかつてのポリスの繁栄はもはやなく、最も大きな領土を引き継いだセレウコス朝シリアは、まもなくイランでパルティアが自立したため、東西交易路の主要部分を失うことになりました。パルティアの自立は、その後の西方世界による交易ネットワークの形成にとって、大きな障害となりました。一方、エジプトに成立したプトレマイオス朝には多数のギリシア人が移住し、首都アレクサンドリアは豊かな穀倉地帯と東地中海貿易とを結びつけて、長く繁栄しました。そして、これらヘレニズム3国は、やがてローマによって征服されることになります。
4.ローマ帝国-地中海世界の成立
貧弱な都市国家でしかなかったローマは、東地中海でヘレニズム3国が並び立つ頃、ようやく歴史の片隅に登場しました。当時のイタリア半島を取り巻く国際情勢は、北部にエトルリア人、南部にギリシア人、西地中海にカルタゴが並び立つ情勢にあり、ローマはこれら三つの商業勢力の接点で成長してきた都市国家です。
ローマの軍船の模型
まずエトルリア人勢力を倒したローマは、紀元前3世紀に南イタリアのギリシア勢力を駆逐して、イタリア半島の統一を達成します。この間にローマでは、アテネと同様重装歩兵の担い手である富裕市民層がその地位を高め、共和政が確立していまし。その後まもなくローマはシチリアに進出し、カルタゴとの間でポエニ戦争を開始し、地中海へと進出しました。紀元前2世紀にはカルタゴを滅ぼして西地中海を支配するとともに、ほぼ同じ頃にマケドニアも滅ぼして東地中海に進出し、紀元前1世紀にはセレウコス朝シリアもプトレマイオス朝エジプトも支配下におき、全地中海の統一を達成した。しかし、広大な領域の支配を維持するには、もはや従来の共和政体では困難であり、ローマは次第に独裁へと移行していきます。こうした中で、カエサルの独裁と暗殺を経て、前27年にオクタヴィアヌス・アウグストゥスのもとで、ローマは事実上帝政に移行しいったのです。
ローマ人は道路建設に励みました。主要幹線だけで400本、9万キロあり、地球を2周しています。
複線を含めると30万キロに及び、広い道は広い道路は幅10mありました。それはアケメネス朝から学んだものであり、この道路がローマ帝国の政治的統一とネットワークの発展を支えていました。
地中海ネットワーク
ローマ帝国は、地中海を内海としたネットワークを建設しました。帝国内に整備された道路網は、軍隊を速やかに移動させるとともに、商品を町から町に運ぶのにも役立ち、経済を活性化させました。また海上ルートも発展し、地中海を網の目のようにおおう航路を船舶が往来しました。最も重要な交易品は、オリーブ油、ブドウ酒、穀物、金属で、これらの商品はローマなどの都市に集められ、そこから地方に輸送されていきました。さらに中国の絹やアラビア・東南アジアの香料などが、ローマの金やガラス製品などを対価として輸入されたが、これらの商品は一部の富裕層のみが使用するものでした。
ローマの復元図
ローマは百万都市といわれますが、市民の半分が働かずに帝国によって養われていました。まさにローマは巨大消費都市でした。しかし、ローマ帝国の全般的な経済の発展は属州経済の発展を促し、その結果属州の自立化が進んで、ローマの求心力がしだいに失われていきました。また、ローマ帝国がローマを中心とするネットワークであるといっても、経済や文化の中心は東方にあり、ローマを含む西地中海はその周辺にすぎません。こうした中で、4世紀に都をローマから東方のコンスタンティノープルに移し、政治の重心を経済の中心に移動させることになりまた。
付録.パルミラの盛衰
シリアのオアシス都市パルミラは、紀元前から隊商交通の中継地として栄え、東はペルシア・インド、西はヨーロッパとも交易した国際文化都市でした。当時東方の交易圏をめぐってローマはイランのパルティアや、その後に成立したササン朝ペルシアと対立していましたが、パルミラはその接点にあって巧みに独立を維持しました。しかしこのバランスを変えたは、2世紀にローマがパルミラを支配するようになってからです。これに対して、3世紀に女王ゼノビアが自ら軍を率いてローマ軍を破り、さらに5年余りの治世の間にシリア、エジプト、アナトリアの大半を支配下におきました。ほんの短期間でしたが、パルミラは世界の舞台に光を放ち、ゼノビア女王はシルクロード史上最大の華を咲かせました。しかし東方領土の奪還を目指すローマ軍に敗れ、パルミラはローマ軍によって破壊されました。パルミラはその後も隊商都市として存続するが、やがて交易路の変更によって砂漠に埋もれていったのです。
ゼノビア
パルミラ遺跡
その後ゼノビアがどうなったかについては、歴史は何も伝えていないが、彼女について歴史家ギボンは次のように語っている。「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的・・・彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった。」
≪映画≫
トロイ
この映画は2004年に公開された映画「トロイ」ではなく、2003年 アメリカ合衆国でテレビドラマとして製作されたものです。どちらの映画も、前8世紀ころのホメロスの叙事詩「イーリアス」に基づいたものです。「イーリアス」は、ヘレンという一人の女性をめぐってギリシア連合軍が10年間トロイを包囲する(トロイ戦争)という物語ですが、「イーリアス」ではこの戦争の最後の50日間だけが語られています。
この戦いが起きたのは紀元前12世ころとされていますが、この時期を境にエーゲ文明が滅び、ギリシアを含めた東地中海世界は混乱状態に陥っていきます。トロイ戦争は、こうした時代の中で起きた戦争と推測されます。当時の東地中海世界では海上交易が発展し、交易の利権をめぐって多くの国が激しく対立しており、この戦いでトロイは滅び、やがてギリシアの国々も衰退していきます。つまり、この時代は、東地中海世界の大きな転換期だったのです。
トロイ
2004年のアメリカ映画で、ホメロスの詩「イーリアス」を描いています。この膨大な詩「イーリアス」は、10年に及ぶトロイ戦争の最後の50日間を描いているだけでアキレスとアガメムノンの対立とトロイの滅亡を描いています。ただ、実際の詩は神々の動向を大きく扱っていますが、この映画では登場人物の人間性が強調されており、これについては賛否両論がありです。
オデュッセイア 魔の海の大航海
1997年アメリカ映画
ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」を映画化したものです。トロイ戦争後、オデュッセイアは神の怒りに触れ、風と波に翻弄さ
れて、10年かかって帰国します。そして「オデュッセイア」は、10
年の苦難の帰国物語の最後の50日を描いています。いずれにせよ、
当時の地中海の航行がいかに困難なものだったが分かります。
アレキサンダー
2005年 アメリカ合衆国
アレクサンドロス(アレキサンダー)は、今から2300年以上前に20歳でマケドニア王となり、10年にしてギリシア・エジプト・西アジア・西北インドに至る大帝国を築き上げ、32歳の若さで世を去りました。彼の存在意義の一つは、ますます拡大する交易ネットワークを政治的に統一しようとしたことにあると思います。彼の帝国は短期間で消滅しますが、その影響は大変大きなものです。彼の軍事行動の刺激を受けてインドが統一に向かいますし、もしかしたら戦国時代の末期にあった中国の統一に刺激を与えたかもしれません。また、当方に伝えられたギリシア文化はインド・中国・日本にまで影響を与え、彼がエジプトで建設したアレクサンドリアは現在に至るまで存続しています。伝説はさらに広く長く伝えられ、後に東南アジアでアレクサンドロスの子孫と称する人物が国王になったとのことです。
この映画自体は、こうした側面には一切触れておらず、アレクサンドロスの個人的な側面、つまり父母との対立、自分は何者であり何をなすべきかといった葛藤が中心に展開されています。ただ、当時における世界最大の都市バビロンにアレクサンドロスが入城する場面は、見ものです。
スパルタカス
1960年のアメリカ映画で、共和政末期に実際に起きたスパルタクスによる奴隷反乱を描いた映画です。ローマはこの反乱に相当苦しめられますが、鎮圧後奴隷制に対する反省はまったく生まれず、その後ますます奴隷制は発展し、巨大な消費都市ローマの発展を支え続けます。
クレオパトラ
1963年 アメリカ合衆国
スパルタクスの反乱後のローマは、対外的には地中海世界の統一、国内的には独裁体制へと向かっていきます。その過程でカエサルが暗殺され、エジプト(当時のエジプトはアレクサンドロス帝国の継承国家であるプトレマイオス朝の時代)の女王クレオパトラとローマの将軍アントニウスが結んで、カエサルの後継者オクタヴィアヌスと戦います。このアクティウムの海戦の後、クレオパトラが自殺してプトレマイオス朝は滅び、ローマによる地中海世界の支配が確立します。同時に、オクタヴィアヌスは事実上皇帝となってローマは独裁体制へと移行していきます。
この映画は4時間を超える大作ですが、主演女優であるエリザベス・テーラーを引き立たせるためだけのような映画です。ただ、少しだけですが、アレクサンドリアの風景が映し出され、当時はまだ存在したファロス島の大灯台を遠景に見ることができます。なお、ファロス島の大灯台とは、世界の七不思議に数えられているものの一つです。また、アクティウムの海戦の場面をかなり長時間見ることができます。
ローマ帝国の滅亡
1964年 アメリカ合衆国
ローマ帝国では1世紀の終わりころから80年くらいの間に5人の優れた皇帝が統治しましたが、さすがに5人目のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の時代になると、帝国はその広大な領土を維持することが困難となりつつありました。しかもマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の死後、その愚かな息子が後を継ぐと、帝国の混乱は一層激しくなり、ローマ帝国は衰退への長い道のり歩き始めることになります。この映画は、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の死の前後の状況を描いたものです。
2000年に公開された「グラディエーター」という映画と内容的にはほぼ同じですが、史実としては「ローマ帝国の滅亡」の方が正確のように思われます。
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