2014年1月9日木曜日

第20章 イギリスの形成

 


1.イギリスの生い立ち

2.毛織物について

3.ジェントリの勃興

4.海外に活路を求めて
 











1.イギリスの生い立ち


 われわれが「イギリス」と呼んでいる国の名称の語源は「イングランド」であり、日本では、イングランドを表すオランダ語のエンゲルス、またはポルトガル語のイングレスが訛り、「エゲレス」または「イギリス」という表記が一般的となった、とされています。しかし、本来イングランドとは「イギリス」の南東部です。北部はスコットランドであり、西部はウェールズ、西南部はコーンウォールで、この島自体は「(グレート)ブリテン島」です。そして今日の「イギリス」の正式名は、「大ブリテン・北アイルランド連合王国」です。ブリテン島には古代以来大陸からさまざまな民族が侵入して定住したため、このような多様な地域社会が形成されていきました。


 
 
 
 
 ブリテン島やアイルランドには古くからケルト人が住んでいましたが、5世紀頃アイルランドからケルト系のスコット人がブリテン島北部に侵入し、「スコットランド」が形成されました。また同じ頃、デンマークからアングロサクソン人がブリテン島東南部に侵入し、「イングランド」を形成しました。一方、スコット人やアングロ・サクソン人に追われた原住ケルト人は西南部に逃れ、「ウェールズ」を形成しました。コーンウォールは早くからイングランドに併合されますが、ウェールズは16世紀に、スコットランドは18世紀にイングランドに併合され、「大ブリテン連合王国」を形成しました。19世紀になるとアイルランドも併合されるので、「大ブリテン・アイルランド連合王国」となりますが、現在では北アイルランドのみがイギリス領なので、大ブリテン・北アイルランド連合王国といいます。

 
 
 1819世紀にイギリス経済は大発展をとげ、海外にも進出しますが、スコットランド人やウェールズ人もイングランドの発展に便乗して海外に進出し、海外では自らをイングランド=イギリス人と名乗っていました。しかし、今日では、スコットランドやウェールズの分離運動が高まっているようです。

ノルマン朝























プランタジネット朝


 この間にもイギリスに多くの民族・国が進出し、アングロサクソン文化を基礎としつつ独自の文化が形成されていきますが、なかでもイギリス文化形成に大きな役割を果たしたのは、フランス文化でした。11世紀に北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン朝を開きました。ノルマンディー公はフランス国王の家臣だったから、フランス国王の家臣がイングランド王を兼ねたのです。さらにその後、フランスの大貴族アンジュー伯がイギリス国王となってプランタジネット朝を開いきました。この場合も、フランス国王の家臣がイングランド王となるわけですが、これはもはやフランス南西部のアンジュー地方とイングランドを合わせたアンジュー帝国というべきであり、この帝国はフランス国王の勢力をはるかに凌いでいたのです。一般にプランタジネット朝をイギリスの王朝と考えがちですが、少なくともプランタジネット朝の初期には、国王はイングランドよりフランスにいることの方が多かったのです。こうした中で、イギリスの文化はフランス文化の強い影響を受けることになりました。そして、このようなイギリスとフランスの複雑な関係が、中世末期に集権国家の形成をめざすようになる両国の間に、百年戦争を引き起こすことになるのです。

 方、イギリスは荒地が多くて、穀物栽培に適した土地が比較的少なかったため、早くから牧羊が行われるようになりました。しかしそこで生産される羊毛を毛織物にするための工業が未発達だったので、イギリスは羊毛を毛織物工業が発達したフランドルに輸出し、毛織物の完成品やフランドルにもたらされる東方物産を輸入していました。つまり中世のイギリスは、フランドル-北イタリアを結ぶ経済の中心の末端と結びついていたのです。


したがって当時のイギリスは、世界に存在したいくつかの交易ネットワークの西の端にリンクされていたのです。それは原料を輸出し工業製品を輸入するという、経済的な従属地域でしかありませんでしたが、この羊毛輸出を通じて農村に貨幣経済が浸透し、やがて農村に毛織物工業を中心とするさまざまな産業が勃興することになります。そして、こうした産業の発展に重要な役割を果たしたのが、ジェントリです。
 
.毛織物について

羊毛の刈り取り
 毛織物とは、羊、ヤギ、ラクダ、ウサギなどの動物の毛を材料とする織物ですが、圧倒的に多いのは羊です。羊は有史以前から飼育されており、最初は食肉用に、ついで毛皮を衣料とし、やがて毛を用いて織物が作られるようになりました。羊毛は巻き縮んでいるためにかなりの回復性をもっており、この性質と引張りの強さや弾力によって、上質な羊毛製織物は、形状を保持する能力がすぐれています。また羊毛の性質として、吸湿性、断熱性をあげることもできます。これらの性質は衣料にとってとくに望ましいものです。

 
 
羊がどれだけ羊毛を生産できるかは栄養状態や天候、管理状況に依存しています。羊毛は年に1回、春か初夏にかりとられます。年間をとおして温暖な気候の地方では、刈り取りは年に2回おこなわれることもります。優良な羊毛を生産する種から刈り取られる羊毛の重さは、1頭当たり5キログラム近くに達します。軽くて暖かく吸湿性のある毛織物は,綿,絹,麻織物などとならんで衣料その他に古くから用いられてきました。ヨーロッパでは、綿織物が安価で大衆的衣料として供給されるようになるまでは、ほとんどの衣料が毛織物であした。中世においては、イギリスの原毛によりフランドルで高級毛織物として製造され、ヨーロッパ内部で販売されるとともに、イタリアを通じて東方にも販売されました。しかし、15世紀頃からイギリスで毛織物生産が行われるようになったため、16世紀にイギリスは毛織物の代表的な輸出国に成長したのです。この過程で、イギリスでは毛織物工業に水車を利用するという技術革新が起き、工業の中心は東部の都市部から、水の利用がしやすい西部の渓谷地帯に移動し、ここに毛織物マニュファクチュアが発展するようになりました。

 しかしーロッパ産の厚地の毛織物の市場には限界があり、気温の高いアジアでは需要は限られており、さらにアメリカ大陸でも厚地の毛織物の市場は限定的でした。他方、ルネサンス期には、東洋からくる絹などを用いた薄地で華麗な衣服が流行し始め、17世紀には木綿の衣服が普及するようなり、ヨーロッパにファッション革命が起きつつありました。つまり従来の厚地で高価で、しかも色調の暗い毛織物に対し、安くてカラフルな布が好まれるようになったのです。明らかに大衆的な消費社会が生まれつつあり、イギリスが覇権を握って世界を制覇するかに見えた毛織物工業は、新しく成長してくる世界市場に適応することが出来なかったのです。

 そこでイギリスでは、一つの技術革新が進行しました。従来羊は農耕に適さない荒地で飼われていましたが、耕作用の優等地でエンクロージャー(土地囲い込み)を行い、良質な長毛の羊毛を用いて薄手の新毛織物を生産するようになったのです。イギリスは、この新毛織物をもってロシア・アフリカ・新大陸・アジアなどの市場を開拓しますが、それでも限界がありました。新毛織物も所詮()は毛織物であり、17世紀に大量に出回り始めたインド産の木綿には太刀打ちできなませんでした。毛織物は、ついに国際商品の主役とはなりえなかったのです。しかも優良地での羊の栽培は小麦の栽培を減らすことになり、今や限られた土地を巡って羊と人間が奪い合うことになりました。これが17世紀のイギリスにおける危機の一つの側面であり、この問題を解決しない限り、イギリスは前進できないのです。
 
3.ジェントリの勃興

ジェントルマン
























 近代イギリスの発展に大きな役割を果たしたのはジェントリ(ジェントルマン)と呼ばれる社会階層ですが、ジェントリの定義はなかなかやっかいです。図式的にいえば、上から貴族→ジェントリ→ヨーマン(自営農民)の順で、ジェントリは中間階級とういことになります。貴族は広大な土地を所有し、小作人に土地を耕作させ、さらに爵位をもつ支配階級です。ヨーマンは、地主から土地を借りて耕作する借地農ですが、自立的な経営を行う自営農民です。これに対してジェントリは、土地を所有する地主ではありますが、爵位をもたなため、身分的には庶民階級に属します。したがつて、富を蓄積したヨーマンや富裕な市民が土地を購入してジェントリになったり、逆にジェントリが没落すなど、ジェントリの構成メンバーは絶え間なく入れ替わりました。つまりジェントリはきわめて流動的な階層なのです。この流動性が、イギリスの階級対立を緩和する役割を果たし、さらに社会的・経済的に上昇を求める人々に活力を与えたのです。

 ジェントリが力をもつようになるのは、16世紀前半の宗教改革の時からです。国王ヘンリ8世がカトリック教会から離脱して国教会を設立したとき、膨大な修道院領を没収し、財政赤字を補填するため、これを売却しました。この土地を購入したのが、国王の宗教改革を支持した富裕な市民層で、その結果大量のジェントリが生み出されることになり、その勢力が拡張しました。ちょうどこの時代は、人口増加と物価上昇の時代でしたから、商才に富んだ新興ジェントリの方が伝統的封建貴族より、時流に応じた土地経営ができました。


ジェントリは、地主として、また地方の名士として、住民に職を与え、自分も収入を確保して社会的対面を保つ必要がありました。しかも長子相統制が普及したため、次男や三男のための生活を確保する必要がありました。そのためジェントリたちは、新しい事業の実験に乗り出しました。例えばタバコなど新しい換金作物の栽培や、ウール・ニットのストッキングの発明、薄手の新毛織物、さらに冒険的な貿易や航海などです。もし新しい事業を起こし、住民に生活の糧を与えることができれば、ジェントリは絶大な信用と尊敬を得ることができます。単なる金持ちというだけではジェントルマンとはいえず、ジェントルマンがジェントルマンであるためには、まわりの人々の信望を得ることが必要だったのです。

ジェントリの活躍
長期的に見て、ジェントリたちの新しい試みの中でもっとも成功したのは海外進出でした。16世紀後半には、国王から特許状を得た海賊たちが、新大陸から貴金属を満載した船を襲ったり、新大陸やアジアに冒険的な航海を行いました。そしてこれらの事業を担ったのが、ジェントリの次男や三男たちだったのです。しかし、17世紀に入ると、海外進出ではオランダに圧倒され、イギリスは苦戦を強いられることになります。




4.海外に活路を求めて

 イギリスは、新毛織物の販路を求めて地中海経由で中東との交易を試みたり、ロシアと結んで北極経由でアジアに向かう通路の開拓を試みたり、さらに東インド会社を設立してアジアにも進出しました。中東との交易は一定の成果がありましたが、北極経由の航路の開拓は当然失敗に終わりました。またアジアではオランダ勢力が立ちはだかっており、十分な成果をあげることができませんでした。特にイギリスの東インド会社は、オランダ東インド会社に比べて貧弱なものでした。こうした中で、1623年モルッカ諸島のアンボイナ島で、オランダ人によりイギリス人が虐殺される事件が発生し、イギリスはこの地域からの撤退を余儀なくされました。当時オランダ国内では、偉大な法学者グロティウスは「海洋の自由」を説いていましたが、実際にオランダがアンボイナで行ったことは「海洋の独占」だったのです。
 
モルッカ諸島から後退したイギリスは、インドの沿岸に商館を設けてインドとの交易に重心を移しますが、インドではイギリスの毛織物を売ることができず、当時インドには強大なムガル帝国が健在でしたから、強引な進出も不可能でした。したがって、イギリスはインドから香辛料や綿織物などを輸入するだけだったのですが、この綿織物がイギリスの運命を決する商品となります。すなわち綿織物は、18世紀におけるイギリスの三角貿易の一翼を担うとともに、綿織物への需要の高まりが、産業革命きっかけとなるのです。



プリマス-最初の感謝祭
感謝祭にはインディアンも参加しています。インディアンは、この土地で暮らし方や作物の作り方を教えてくれました。しかし、やがて白人の数か増えると、彼らはインディアンを土地から追放していくことになります。











 一方、17世紀初頭以来イギリスは北米の東部海岸に植民地を築き始めますが、貧しい人々による農業植民が中心で、当面は貧弱なものした。しかしこの北米へ植民は、国内の余剰人口や宗教的・政治的異分子を排出したため、国内矛盾のはけ口となりました。さらに長期的には、植民地で人口が増えるにしたがって、植民地人は本国が必要とする商品作物を栽培するようになり、さらに本国の工業製品を輸入するようになりました。こうして、18世紀には、北米植民地は、イギリスを中心とする経済システムに組み込まれていくことになっていきます。イギリス経済を救い、さらにイギリスを近代世界システムの覇権国家に成長させていったのは、北米植民地だったのです。

クロムウェル
しかし、イギリスはなお苦闘していました。国内では、進取の気風に富んだジェントリたちが積極的な海外進出を試みていましたが、旧来のジェントリや貴族たちは海外進出に消極的でした。1642年に始まるピューリタン革命の性格と意義についてはさまざまな論争が展開されていますが、海外進出の可否を巡る対立が革命の背景の一つだったことは間違いありません。事実、革命後独裁者となったクロムウェルは、アイルランドを征服してこれを植民地とするとともに、航海法を発してオランダの海上覇権に挑戦したのです。さらにクロムウェルは、西インド諸島のジャマイカを占領して植民地としまが、これこそ18世紀イギリスの三角貿易の中核となる場所です。
























17世紀前半の海外進出













ウィリアム3世とメアリ2世

その後王政復古の時代になっても、クロムウェルが始めた対外政策は受け継がれ、三度に及ぶ英蘭戦争の後、新たなライバルとなりつつあったフランスに対抗するため、1698年、イギリス議会はオランダ総督ウィレムをイギリス国王ウイリアム3世として招いたのです。こうしてイギリスの海外進出対する積極路線は確定され、これによってイギリスは危機を脱したのです。




















 


 
 
 
 
 
 
 
 
 


≪映画≫
 
 

キングアーサー  

2004年 アメリカ
アーサーは、56世紀のイングランド伝説の王です。この映画では、ローマの傭兵としてイングランドで戦いますが、ローマから自立して建国したとされていますが、実際には彼についてはほとんど分かっていません。ただ、イングランドという国が形を見せ始めたころに、アーサー王の物語でです。












円卓の騎士


1953年 アメリカ
アーサー王に従う12人の円卓の騎士の物語です。アーサー王をめぐる伝説は、かぞえきれないほどあります。いずれにしてもアーサー王が生きた時代は、ローマ帝国が後退し、様々な勢力が新しい秩序を模索して争った混沌とした時代であり、アーサー王は、そうした中でイングランドという地域が一つの政治的なまとまりを持ち始めた時代の象徴だったの言えるでしょう。










ブレイブハート

1995年 アメリカ
13世紀末のスコットランドで、イギリス王エドワード1世の過酷な支配に対し、スコットランドの伝説的な英雄ウィリアム・ウォレスが反乱を起こしました。このウィリアム・ウォレスの戦いが、この映画のテーマです。スコットランドが最終的にイングランドに併合されたのは18世紀の初めで、スコットランド人の間では、今でもイングランドに併合されたことに対して強い不満をもっている人が少なくありません。この映画がこうしたスコットランド人の意識を反映しているのかどうかは分かりませんが、娯楽映画としては十分に楽しめる映画です。









ニュー・ワールド

2005年 アメリカ・イギリス合作
1607年イギリス人がヴァージニアに移住します。移住者の一人スミスが現地人酋長の娘ポカホンタスと恋をするという7物語です。この物語は実話で、移住当時の現地人の友好的な態度と、その後のイギリスの敵対的な態度が対照的です。

















0 件のコメント:

コメントを投稿