2014年1月9日木曜日

第18章 危機の17世紀





1.危機の諸相

2.三十年戦争

3.東アジアの変動

4.「交易の時代」の終焉

付録.対馬宗氏の悲哀















1.危機の諸相

 
 


 1614-15

大阪の役

1618-48

三十年戦争

1631-45

李自成の乱→44明滅亡→清成立

1642-49

ピューリタン革命

1637-38

島原の乱

1640

ポルトガル反乱

1642-46

寛永の飢饉

1648-53

フロンドの乱

1661-83

鄭氏台湾の反乱

1670

ステンカ・ラージンの乱

1673-81

三藩の乱

1688

名誉革命
 


 17世紀に入ると、再びユーラシア大陸は危機の時代を迎えました。今回の危機も、大きな要因は気候の寒冷化とそれに伴う疫病の流行、さらに銀の枯渇です。人類は同じような要因によって危機の時代を何度も繰り返してきました。気候の変動はコントロールできないにしても、それによってあまり左右されないような政治・経済体制を生み出すことはできないのでしょうか。また経済が発展すれば金銀の供給が不足して経済が収縮するという繰り返しを克服できないのでしょうか。17世紀の危機の時代は、とくにヨーロッパに、こうした問題への解決を求めたのです。その結果科学の発達、主権国家=財政国家の形成、通貨制度の発展など、さまざまな方法が模索されることになります。

大坂夏の陣

















三十年戦争
















李自成の乱















ピューリタン革命 ネイズビーの戦い




















島原の乱 天草四郎






















ポルトガルの反乱

















 



フロンドの乱















鄭氏台湾の反乱 鄭成功














ステンカ・ラージンの乱


















名誉革命 ウィリアム3世の到着















 17世紀の危機は全ユーラシア大陸を覆ったわけではなく、インドや西アジアではあまり危機の痕跡は見られません。しかし、危機はヨーロッパと中国に大きな影響を及ぼしました。ヨーロッパでは、まず1618年に三十年戦争が起き、これに周辺の国々が介入して大戦争に発展しました。また、イギリスでは1642年にピューリタン革命が始まり、1698年に名誉革命が起きるまで混乱が続きました。その他にも、1640年にポルトガルによるスペインからの独立反乱が起き、フランスでは1648年に貴族によるフロンドの乱が、ロシアでは1671年にステンカ・ラージンの乱が起きました。

 東アジアでは、17世紀に入ると農民反乱が頻発し、その混乱の中で北方の女真(人が建国した清軍が1644年に中国に侵入しました。しかし清による中国支配が直ちに定着したわけではなく、三藩()の乱()()台湾など各地で抵抗が続くとともに、社会の危機的な状況も続いていました。清の支配が定着し、中国がようやく安定を取り戻すのは、17世紀末期の康熙()の時代であり、またこの頃から国内開発が本格化するようになります。また、日本でも1603年に徳川幕府が成立したとはいえ、1614年には大阪の(が起きるなど政権は安定せず、さらに慢性的な農民の疲弊から、島原の乱や寛永()飢饉()が起き、日本でも国内開発の必要性が高まっていました。

 このように、東アジア世界でもヨーロッパでも危機が続き、これを克服するための新たなシステムの構築が迫られていたのです。
2.三十年戦争

 三十年戦争は、それまでのさまざまな要因を背景としつつ、全ヨーロッパを巻き込んだ最初のヨーロッパ大戦です。まず何よりも、三十年戦争は宗教戦争でした。中世末期の危機の時代に、ローマ・カトリック教会は人々の救済の期待に応えることができず、人々の信頼を裏切りました。その結果、宗教改革が始まってキリスト教世界が分裂し、激しい宗教対立が始まりました。ドイツのシュマルカルデン戦争、オランダ独立戦争、フランスのユグノー戦争などはすべて宗教戦争であり、すでに100年近くにわたってヨーロッパの人々は、宗教のために命をかけて戦っていたのでする。三十年戦争は、そうした宗教的対立の総決算とでもいうべき戦争です。同じ頃、イギリスでも市民革命として知られるピューリタン革命が起こっていましたが、これもまた宗教戦争としての性格を強く持っており、同じ時期に二つの宗教戦争が行われていたのは、決して偶然ではありません。そして、この戦いが終わったとき、人々は宗教から離れていき、むしろ科学的な探求に目を向けていきました。ヨーロッパの17世紀は「科学の世紀」と呼ばれているのです。


 三十年戦争はまた、「帝国」と地域勢力との最後の戦いでした。神聖ローマ皇帝カール5世の退位をもって「帝国の夢」は終わりましたが、その後も神聖ローマ帝国と地方勢力とのせめぎ合いは続いていました。そして戦争が終わったとき、神聖ローマ帝国は事実上崩壊し、ウェストファリア条約を通じて、一定領域の中の主権を主張する国家と国家の間で、形式的に対等なルールを定めて、戦争と交渉を繰り返す独特の世界秩序あるいは体制が出現したのです。これが「主権国家体制」と呼ばれるもので、ヨーロッパ最初の国際体制として「ウェストファリア体制」とも呼ばれます。これにより、大小・強弱の差、君主制か共和制か、カトリックかプロテスタントかといった違いはあれ、法的には対等な国家間の国際関係というゲームのルールが、人類史上初めて成立したのです。そして当時のヨーロッパには、数え方にもよりますが、500近くの政治的独立体が存在したといわれ、それらが複雑な国際関係を展開するようになります。

 三十年戦争は、当時のヨーロッパ社会の危機的な状況も反映していました。当時のヨーロッパでは、16世紀における急速な人口増加と、17世紀おける経済の収縮のため、大量の貧しい下層民が生み出され、深刻な社会問題が生じていました。農村では出稼ぎなどの副業をしなければ生活できなくなり、多数の農民が都市に流れ込みましたが、都市では労働市場が絶望的なまでに飽和状態にありました。そのため多くの人々が仕事を求めて放浪するようになりますが、彼らを吸収したのが傭兵隊でした。当時はどの国の軍隊も、傭兵隊が中心となっていました。当時は徴兵制という制度はほとんどなく、またどの君主も民衆から徴兵できるほどの力もなありませんでした。さらに君主には常備軍を恒常的に維持するだけの財政的な基盤もありませんでした。そのため、必要なときにだけ雇うことができる傭兵制が普及したのである。
傭兵隊長ヴァレンシュタイン






















傭兵隊















傭兵の夫婦






















農民を苦しめる兵士
















 君主は傭兵隊長と契約し、報酬として一定地域での徴税権を与えます。傭兵隊長は、その資金をもとに傭兵隊を組織するのですが、傭兵隊を構成するのは兵隊だけではありませんでした。兵隊の家族、従軍商人、料理人、手工業者、娼婦、御者、家畜番、占い師、墓堀人夫など、雑多な人々が含まれており、兵士の数は全体の2030パーセント程度だったとされていま。そして傭兵隊が移動する場合には、これらがすべて移動するのです。これは、もはや軍隊というより、一つの社会です。傭兵隊長は自らの傭兵隊を維持するために、常に戦争を必要とし、新たな戦争はさらに多くの傭兵を必要とます。こうなると、傭兵隊の存続そのものが戦争目的となり、その結果、ヨーロッパ、とくにドイツは果てしない混乱という泥沼に沈んでいったのです。
 この戦争は、その後の歴史に大きな影響を残しました。宗教からの離反、主権国家体制の成立などと同時に、どの国も戦争に勝ち抜くために不可欠となった財政基盤の確立に向かいました。その一つのモデルとなったのが、傭兵隊による徴税で、その後君主は官僚と軍隊を用いて全国的な課税を行うようになります。さらに後には、戦時に政府が公債を発行して戦費をまかなうようになりますが、これが後の金融・紙幣制度の発展を促すようになります。まさに十分な資金を調達できた国が勝者となるのです。また、三十年戦争は軍事技術の実験場となり、軍事技術の異常な発達を生み出しました。このことは、その後のヨーロッパの戦争のあり方を一変させただけでなく、やがてヨーロッパがアジアに本格的に侵略していく際の大きな武器となったのです。近世ヨーロッパは、三十年戦争を一つの分水嶺として、大きく転換していくのです。そしてこの頃から、フランスとイギリスという、きわめて効率的でコンパクトな主権国家が急速に成長することになります。
3.東アジア世界の変動 
 
 17世紀の東アジアは、ヨーロッパ同様、気候の寒冷化による凶作や疫病の蔓延により危機的な状況となりました。さらに、新大陸での銀の生産の減少や日本の鎖国などにより銀の流入が減少し、その結果経済が収縮しました。こうした中で起こった農民反乱(()自成()の乱)のさ中に明王朝は滅亡し、北方から侵入した女真族の清王朝による中国支配が始まりました。しかし問題は王朝の交替ではなく、経済構造の変革であり、これなしには危機を脱することは不可能です。事実、1644年に清の中国支配が始まったとはいえ、17世紀後半の中国は内乱などが相次いで、不安定な状態が続いていました。こうした中で中国は南部の内陸部の開拓と海域世界への進出という方法で、この経済危機を脱していったのであす。   
 中国では、すでに16世紀に「新大陸」原産のタバコ・甘藷(サツマイモ)・トウモロコシなどの栽培が始まっていましたが、17世紀の末頃から、南部の内陸部で大規模な開墾が行われ、タバコの栽培が行われるようになりました。さらにタバコ栽培のために集まった多数の労働者に食料を供給するため、荒地に強い甘藷やトウモロコシの栽培が行われるようになりました。ここに、商品作物としてのタバコの栽培と、甘藷やトウモロコシという自給作物との組み合わせによる経済システムが成立し、そこに多くの人々が集まるようになりました。内部に新たに開拓するフロンティアをもたなかった日本やヨーロッパでは、国内産業の発展や海外進出によって経済構造そのものの変革を迫られたのに対し、中国は国内のフロンティアを開拓することによって危機を克服したのです。
 
ゼーランディア城
 












長崎-出島





















 もう一つは、東アジアの海域世界への進出です。17世紀の東アジアの海域世界の勢力図は、大きく変動しつつありました。まず、オランダが1619年にジャワのバタヴィアに根拠地を築き、さらに明清交替期の混乱に乗じて台湾にゼーランディア城と呼ばれる拠点を築いて、中国と東南アジアの仲介貿易を行うようになりました。さらに、日本の出島に商館を築き、1641年に日本が鎖国体制を強化して、出島への入港を中国とオランダのみに制限したため、オランダは中国・日本・東南アジア・ヨーロッパを結ぶ交易ルートを確立して発展しました。ところが、明が滅亡した後、明の遺臣と称する鄭成功(が、1661年に台湾からオランダを追放し、台湾を拠点に中国南部沿岸地帯との密貿易で富を築き、清による中国支配に抵抗したのです。これに対して清の康熙(帝は遷界()令を発し、南部沿岸地帯の住民を強制的に沿岸から内陸に移住させました。これにより経済的な基盤を失った鄭氏台湾は衰退に向かい、1683年に清によって征服されることになりました。その後、清王朝は海禁策を緩和し、中国商人が海外に交易に行くことを認めたため、多くの中国商人が東南アジアに進出し、東アジアの海域世界は「中国の海」と化したのです。
 このようにして、18世紀の中国は激増する余剰人口を南部の内陸部に吸収するとともに、東アジアの海域世界を中国の経済圏に組み込むことによって、1世紀に及ぶ繁栄の時代を築き上げたのです。
4.「交易の時代」の終焉



 17世紀に入ると、東南アジアの交易は徐々に衰退に向かい始めました。その理由は、巨視的には、西のヨーロッパと東の中国が危機的状態にあり、交易が減少したからであす。東南アジアのように、中継貿易で栄える地域は、外部の影響を受けやすいのです。また、日本銀やメキシコ銀の流入が減少したことも、交易を縮小させました。もともと東南アジアは、銀によって中国から絹や陶磁器を購入していたのですが、銀の減少により中国に支払う対価が減少したのです。さらに決定的だったのは、17世紀末にヨーロッパで香辛料価格が暴落したことです。香辛料は生活必需品ではないので、供給過剰になれば価格が暴落するのは当然のことです。そして直接的要因は、清が発した遷界令(せんかいれい)により、一時的とはいえ中国との貿易が激減したことです。その後遷界令は廃止されましたが、東南アジアはこの打撃から立ち直ることができませんでした。


ナマコ


 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
ツバメの巣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フカヒレの姿煮
   18世紀に入ると、大量の中国商人が東南アジアに到来するようになります。中国商人たちは中国に輸出するために、なまこ」「ツバメの巣」「ふかひれ」「乾あわび」などの新商品を開発し、これらの商品は中国で珍重され、高級食材として売買されました。また中国商人たちは、島々の住民にサトウキビを栽培させ、製糖所を経営して中国やヨーロッパに砂糖を輸出しました。当時カリブ海でも奴隷労働によるサトウキビ栽培が大繁栄しており、この時代は砂糖が国際商品となっていたのです。また、19世紀にヨーロッパ人が東南アジアでプランテーションの経営を行うようになりますが、その原型をつくったのは中国人商人だったのです。

 一方、東南アジアの大陸部では、18世紀にタイやミャンマーなどで比較的集権的な国家が形成されますが、それは、重商主義政策をとるヨーロッパの絶対王政と類似しているように思われます。タイのアユタヤ朝やラタナコーシン(チャクリ)朝、ミャンマーのトゥングー朝やコンバウン(アラウンパヤー)朝などです。これらの国家は、豊かな農業生産を背景にしつつ、交易を国家の管理下におき、中国との朝貢貿易で繁栄したのです。ところが、こうした国々の経済官僚には華僑が採用されることが多く、ここでも中国人商人が深く入り込んでいたのです。

 こうした中で、ヨーロッパ人は東アジアからも東南アジアからも後退を余儀なくされるのですが、19世紀にヨーロッパ人が再び東南アジアへの進出を本格化しようとしたとき、彼らの前に華僑のネットワークという巨大な壁が立ちふさがっていたのです。また、明治維新後の日本が東南アジアに工業製品を輸出しようとしたとき、日本人の最大のライバルは華僑だったのです。

付録.対馬宗氏の悲哀


  17世紀にって日本は鎖国体制を強めていきますが、対外貿易をまったく否定したわけではありません。江戸時代の日本には四つの口があったとされています。蝦夷地との交易を行う松前、明・清と日本に両属する琉球、中国船・オランダ船の入港を認めている長崎の出島、そして朝鮮との窓口となっていた対馬()()()である










  豊臣秀吉の朝鮮出兵の混乱を収拾した後、江戸幕府は朝鮮との関係改善を求め、対馬の宗氏を仲介して交渉を続けました。当初朝鮮王朝は日本に警戒心をもっていましたが、宗氏の努力もあって、1605年に国交が回復、1609年には貿易も再開されました。その際、朝鮮王朝は日本に対して、秀吉の出兵時に国王の墓を暴いた犯人を送るよう要求しましたが、宗氏は自領内で処刑した人物を送ってごまかそうとしました。朝鮮王朝は、その死体が偽者ではないかという疑念をもちましたが、これを日本側の誠意の証と受け止めて、受け入れたのです。

 宗氏にとって、さらに厄介な問題がありました。朝鮮王朝と江戸幕府の立場が異なっており、朝鮮王朝は日本を属国とみなし、江戸幕府は朝鮮を属国とみなしていたのです。問題は、双方の書簡が相手に対して横柄な口調で書かれていることです。そこで宗氏は、双方の書簡をへりくだった表現に書き換えて、双方に渡していました。つまり公文書偽造です。ところが問題が発生しました。宗氏の家老が、このような偽造が行われていることを江戸幕府に訴えたのです。これに対する江戸幕府の処置は驚くべきものでした。訴えた家老を君主に対する不忠者として切腹させ、宗氏に対してはお咎)めなしとしたので。つまり江戸幕府は、このような偽造が行われていることを知った上で、朝鮮との交易を続けるという実利をとったので

 対馬宗氏は日朝両国のはざまにあって、苦しみつつも、時には二枚舌を使ってでも朝鮮との交易を続け、鎖国体制の江戸時代を生き抜きました。そして江戸幕府も、鎖国体制とはいいつつも、決して外国との交易を否定したわけではなかったのです。



≪映画≫



クロムウェル

1970年 イギリスの映画です。
エリザベス女王の死後、17世紀のイギリスは経済的にも政治的にも危機的な状況になり、宗教対立も相変わらず続いていました。そうした中で、イギリスは危機に対応できる新しいシステムを求めていました。議会はさまざまな要求を国王につけつけますが、国王は議会を無視し続けます。そうした中で、ついに議会軍と国王軍が戦うことになります。これがピューリタンです。映画では、議会と国王との激しい対立の場面が描かれ、なかなかの見ものです。








仮面の男

1998年 アメリカ映画です。
デュマの『ダルタニャン物語』をベースに、ルイ14世と鉄仮面伝説、老いた三銃士の復活と活躍の物語。フランス国王ルイ14世の少年時代を描いています。













国姓爺合戦 英雄

日中国交回復30周年を記念して製作。
清による中国支配に対抗して、台湾に拠点をおいて戦った鄭成功の物語です。彼の母親が日本人であったこともにあり、日本では近松門左衛門「国姓爺合戦」で有名となりました。当時の東アジアの海域世界では、日本やヨーロッパの勢力が交代し、やがて新しく生まれた清が進出してくる時代でした。鄭成功の活躍は、そうした激動の時代の一こまであり、やがて台湾は清に征服され、東アジアの海域世界は中国の海となっていきます。






















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