1.「交易の時代」のはじまり
2.鄭和の南海遠征
3.マラッカ王国の繁栄
4.琉球王国の繁栄
付録.香辛料について
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1.「交易の時代」のはじまり
ユーラシア大陸が大混乱に陥っていた15世紀に、東南アジアでは空前の交易活況の時代を迎えつつありました。それにはさまざまな理由が考えられます。まずこの地域はペストの被害をほとんど受けなかったこと、南宋から元にかけて中国による海上進出が盛んに行われたこと、イタリア商人とマムルーク朝のカーリミー商人が結んで香辛料貿易を盛んに行ったことなどがあげられますが、何よりも大きな背景としては、3世紀以来続いた遊牧騎馬民の時代が終わりに向かい、交易の中心が陸上ルートから海上ルートへと決定的に移行していったからです。そして直接的なきっかけは、15世紀前半における明の鄭和による南海遠征でした。
中華体制
中華体制
明の建国者朱元璋=洪武帝は海禁政策を採用し、中国人が交易などのため海外へ出向くことを原則的に禁止しました。もともと中国の王朝は、南海諸国などとの交易は朝貢という形式をとり、むしろ南宋と元の海外進出は中国史上でも例外的でした。中国が海外進出に消極的だった理由は、何よりも中国は巨大な大陸国家であること、儒学が農業を重視していること、そして朱元璋が農民出身だったことなどが、あげられます。しかし現実には、中国では陶磁器や生糸などの産業が急速に発展して輸出への要求が高まり、さらに海外物産への要求が高まっていました。そして、ティムール帝国との対立のため陸路による交易が制約されたこと、これに対して、南宋・元以来、造船技術と航海技術が飛躍的に向上したこと、こうしたことを背景に、明は本格的に海上に進出していくのです。
しかし、まだ問題が残っていました。つまり、中国では王朝の初代皇帝が定めた法は「祖法」と呼ばれ、原則的には変更できないということです。そして海禁政策は「祖法」であり、したがって変更できないのです。しかし海禁政策は朝貢貿易と表裏の関係にあり、朝貢貿易とは事実上国家による管理貿易です。そこで、15世紀前半に永楽帝は鄭和に南海遠征を行わせ、南海諸国に明への朝貢を促したのです。つまり、永楽帝が目指したのは、中国の伝統的な朝貢体制(冊封体制・中華体制)をさらに拡大し、それによって交易を拡大することだのです。それは、個々の商人の自由な活動を促すものではなく、管理貿易を拡大・促進するものではありましたが、これほど大規模な遠征は、中継交易で発展する東南アジアに決定的な影響を与えることになりました。これが交易の時代と呼ばれる東南アジアを中心とする交易の発展の時代です。
2.鄭和の南海遠征
永楽帝
鄭和像(雲南省昆明市鄭和公園)
永楽帝の出生については不明な点が多くあます。父の洪武帝は26人の息子と16人の娘を設けましたが、永楽帝はその内の一人にすぎず、母親が誰かもはっきりせず、もちろん皇太子でもありませんでした。一方鄭和は、雲南のイスラーム教徒の家系に生まれましたが、少年時代に全国制覇をめざす明軍の捕虜となり、宦官とされて1385年に永楽帝に献上されました。これが永楽帝と鄭和との、生涯続く友情の始まりとなります。その後皇太子が死ぬと、洪武帝は14歳の孫を後継者とし、1398年に洪武帝の死とともに彼が建文帝として即位しました。その翌年永楽帝は北京で反乱を起こし、1402年に都の南京を陥れて、自ら皇帝に即位しました。その時永楽帝は42歳、鄭和は30歳前後でした。
宝船
翌1403年永楽帝は、貿易船や戦艦などからなる艦隊の建造を命じ、これをきっかけに中国のあらゆる技術と資源が艦隊建造のために傾けられ、前例のない巨大艦隊が建造されることになりました。建造された船の内最も大きなものは、長さ150メートル前後、幅60メートル前後、3000トンにおよび、9本のマストをもちます。中国の船はジャンク船と呼ばれますが、この時代に建造された大型ジャンク船は宝船とも呼ばれます。これに対して、大西洋を横断したコロンブスのサンタマリア号は、全長24メートル、3本マストで、100トン前後しかなかったのです。
第一回の遠征は鄭和の指揮のもとに行われました。船団は、60数隻以上の宝船と、100~200隻ほどの小型船からなり、それらに2万数千人もの人々が乗船していたといわれています。これを含めて30年ほどの間に7回の遠征が行われ、1回の遠征に2~3年を要しますから、ほとんど間をおかずに次々と遠征隊が派遣されたことになります。第1回の遠征隊は、各地に立ち寄りつつ1407年にカリカットに到達し、同年に帰国しました。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが貧弱な3隻の船でアフリカ南端を回って、カリカットに到達する91年前のことです。カリカットはインド西岸の港市国家で、香辛料など貴重な商品が取引される市場があり、インド洋の各地から商人が集まる場所でした。
第1回
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1405~07
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カリカットに至る、帰路、マラッカ海峡の海賊を討伐
各国の使節団を随行
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第2回
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1407~09
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カリカットに至る、比較的小規模、各国の使節団を送り返す
(鄭和は不参加?)
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第3回
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1409~11
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カリカットに至る、3万人規模、マラッカ王国との関係を強化
セイロンの紛争を仲裁
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第4回
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1413~15
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ペルシア湾口のホルムズやアフリカ東海岸に至る、最大規模、キリンを贈られる
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第5回
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1417~19
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アデンに至る、マリンディの使節団などを随行
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第6回
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1421~22
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アフリカなどの使節団を送り返す
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第7回
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1431~33
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永楽帝の死後、分遣隊がメッカに巡礼、
帰国途上あるいは帰国後まもなく死亡
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遠征前半の3回はカリカットまでてしたが、後半の4回はペルシア湾・紅海・アフリカ東海岸にまで到達しました。当時インド洋沿岸には、強大な国家は存在しなかったため、この地域の小規模な国家の人々にとって、鄭和の遠征隊は、あたかも国家がまるごと移動してきたかのように思われたでしょう。これらの国々の支配者は明帝国の威光に対して、本心はともかく少なくとも交易を望んで、次々と使節団を派遣し、時には国内の紛争の仲裁を依頼しました。かくしてインド洋は中国の海と化し、その結果東シナ海からインド洋の西端にいたるまでのネットワークが一つの権力の支配下におかれ、海上交易は空前の規模に発展し、中国を含めて、それぞれの地域の産業を発展させました。モンゴル帝国が陸上のネットワークを統一したように、永楽帝は海上のネットワークを統一したのです。
しかし、この壮大な計画は突然中止されました。しかも単に中止されただけではなく、すべてが洪武帝時代の厳しい海禁政策に逆戻りしてしまいました。中国人の渡航は禁止され、大型船の建造も禁止され、さらに大遠征の記憶を消すために鄭和が書き残した航海日誌も廃棄されました。そして中国の沿岸地域は、海賊の活動舞台となります。遠征が突然中止された理由として、農業を中心とする儒教的理念の勝利、遠征のために負わされた人民の過酷な負担などをあげることができますが、やはりモンゴル帝国と同様に、これ程巨大なネットワークを一つの権力のもとに維持することが困難だった、ということであろうと思います。それを可能にするシステムは、およそ50年後に登場する「近代世界システム」だったのです。そして、明が退いた後、インド洋に巨大な権力の空白が生まれ、そこにヨーロッパ人が進出する可能性が生まれたのです。
しかしその前に、明帝国という巨大な勢力を後ろ盾にして繁栄した二つの小さな国家の繁栄について触れておく必要があります。すなわち、マラッカ海峡に面するマラッカ王国と、沖縄の琉球王国です。この両者は、15世紀初めに政治的まとまりとして成長し、100年余りの商業的繁栄を享受し、16世紀以降の朝貢秩序の解体と外部勢力の支配の中で、次第にその地位を低下させていったのです。
3.マラッカ王国の繁栄
マラッカ海峡
パラメスワラ
マラッカ王国の建国者パラメスワラは、パレンバンの皇子だったが、追放されて放浪した後、1400年頃良港をもつ小さな漁村に腰を落ち着けました。マラッカは、やっかいなマングローブが生えておらず、さらに背後に丘があって防御に適していたため、3年後には人口2000人になりました。マラッカは、商品となるような産物を有する後背地をもちませんでしたが、中国・香料諸島とインドのマルバラ海岸とを結ぶ航路の中央に位置するため、香料諸島の香辛料、真珠や鳥の羽飾りなどが、インドの織物と交換され、同時に自国産の錫が輸出さ れました。
マラッカ王国のような小規模な国家が交易で繁栄すれば、当然タイやジャワの強力な勢力が影響力を及ぼそうとします。そこでマラッカ王国は、北方の巨大な国家である明帝国にいち早く朝貢し、鄭和の南海遠征に便宜を図ることによって、これらの勢力とのバランスを維持しようとしました。さらにマラッカ王国は、イスラーム教を受け入れることによって、西方のイスラーム勢力との関係を強化しようとしたのです。これをきっかけに、東南アジアの島々(今日のマレーシアやインドネシア)のイスラーム化が急速に進行することになります。マレー語は東南アジアの国際語となり、今日に至るまで広く用いられています。
一般に東南アジアの港市は、交易を望む商人に門戸を広く開いており、初めて港市に来航した外来商人でも、出身地の王や代表者からの書状があれば、彼らは丁重に遇されました。上陸した商人たちは、王と接見する機会が与えられ、商人たちは、港市支配者に定められた税を納めれば、市場での商業活動に参加できました。マラッカでは、あらゆる街路で人々が商売をしており、それらの多くは女性や小売商人で、地元の産品を扱かい、市場を管理する役人と国王に税金を納めていました。町には出身地別の居住区域があり、そこには中国人をはじめ多くの外国人が居住していました。まさにマラッカは、海のネットワークの一大交易センターだったのです。
そして1511年、マラッカ王国はポルトガルによる海からの攻撃で、あっけなく滅亡することになります。
4.琉球王国の繁栄
守礼門
14世紀の琉球では首長間の統合が進み、同世紀後半には中山・山南・山北と称する三つの勢力が成長し、15世紀初頭に中山王は両国を支配下に入れて三山を統一し、ここに首里城を拠点とする琉球王国が成立しました。琉球は、東シナ海と南シナ海を結ぶその位置を利用して、中国と東南アジア、日本、朝鮮を結ぶ交易の中継地となりました。明に対する琉球の朝貢の回数は171回で、2位の安南の89回をはるかに引き離しています。また琉球は明との朝貢貿易の他に、東南アジア諸地域と盛んな交易を行っており、琉球が明にもたらした貢品の中には、東南アジア産が多く含まれていました。すなわち、マラッカ海峡を境に、その西方イスラーム世界との交易の主導権をマラッカ王国が、東方の明帝国との交易の主導権を琉球王国が担っていたのです。
その後朝貢貿易体制が崩れ、さらにポルトガルが日中貿易に参入するようになると、琉球はしだいに衰退に向かいました。こうした中で、1609年に江戸幕府の承認のもとで、薩摩藩が大軍をもって琉球に侵攻し、その結果琉球王国は日本に服属することとなりました。しかし幕府と薩摩藩は、琉球の特殊な役割、とくに貿易の利益をえることに期待したため、王国体制を残し、琉球を薩摩藩による間接支配とすることにしました。明との朝貢関係も維持されたため、琉球王国は日本と中国に両属するという特異な国となったわけです。そしてこの体制が終了し、琉球王国=沖縄が最終的に日本の領土となるのは、明治時代になってからのことです。
付録.香辛料について
我々は、香辛料、香料、胡椒、スパイスなどという言葉を曖昧に使用していまする。香辛料は最も広い概念で、食品に添加して香りや辛みをつけ、食欲増進をはかるもの全般を指し、欧米ではスパイス、日本では薬味と呼ばれます。中国では食品としても用いられますが、医薬品として使用されることが多いようです。香料は文字通りにおいを嗅ぐもので、固形のものを「香」、液体を「香水」といいます。歴史上重要な役割を果たした香辛料としては、胡椒(コショウ)、クローブ(丁子)、ナツメグ(にくずく)などがあります。
胡椒
クローブ
ナツメグ
胡椒(ペッパー)はインドを原産地とし、やがて東南アジアでも生産されるようになります。7~8メートルの木になる実から胡椒がつくられます。胡椒には防腐作用もあるため、干肉などの保存に欠かせない香辛料として珍重されました。15世末以降ヨーロッパ人がアジアに進出した理由の一つは、胡椒を手に入れるためでした。クローブは、10メートル程の木に咲く花の芽で、乾燥したクローブが「丁」の字に似ているため、中国では「丁子(ちょうじ)」とも呼ばれました。クローブはモルッカ諸島を原産地とし、長くこの地でしか栽培できないとされた貴重な香辛料です。匂いを消す作用があるため、肉料理に用いられ、中国では皇帝の前で話をするときには、クローブを噛んでから話すのが礼儀だとされました。ナツメグは、10~20メートルの木になる5センチ程度の実の中にある種からつくられます。これも原産はモルッカ諸島で、貴重な香辛料です。これも消臭・殺菌作用があるため肉料理に用いられますが、野菜の甘みを引き出す効果があるため、野菜料理にも使用されます。
≪映画≫
偉大なる旅人 鄭和
2006年 NHKの歴史ドキュメンタリー・シリーズ
鄭和の生涯を描いた珍しい映像です。鄭和は、中国の歴史では無視されてきた人物ですが、近年再評価の動きが高まっており、そうした流れの中で中国の協力も得て製作されました。映画では、当時使用された船がコンピューター・グラフィックなどを使用して再現されており、また、彼が赴いた地域の映像も映し出されており、大変興味深いものです。
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