1.モンゴル帝国の成立-世界の一体化
2.すべての道は大都に通じる
3.マムルーク朝とカーリミー商人
4.ヴェネツィアとジェノヴァ
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1.モンゴル帝国の成立-世界の一体化
現在のモンゴルと中国
ウランバートルのチンギス・ハン像
13世紀におけるモンゴル帝国の成立は、ネットワークという観点から見るなら、人類史上の大転換点でした。従来、各地で個別にネットワークが形成され、それぞれのネットワークがリンクされることによって全体が間接的に結びついていたのですが、モンゴル帝国はそれらを軍事的・政治的・経済的に一つのネットワークに統合したのです。モンゴル帝国は、人類の歴史上、この帝国以前にも以降にも、他に例のない壮大な帝国でした。1206年チンギス・ハンがモンゴル帝国を樹立してからフビライ・ハンがハンに即位するまでの50年余りの間に、モンゴル帝国は空前の規模に達しました。その後帝国は元と4つのハン国に分裂しますが、フビライ・ハンは全帝国の宗主であり、モンゴル帝国の一体性は維持されたのです。
モンゴル帝国は、西は南ロシアとメソポタミア、東は朝鮮半島に至る大領土を統合しました。それは、はるか昔から形成されてきた草原ルートとシルクロードを統合するものでしたが、単に軍事的・政治的な統合だけではなく、この地域に蓄積された交易ノウハウのすべてを継承し発展させたものです。モンゴル帝国で重要な役割を果たしたのは、おそらくソグド人の流れを汲むと思われるイラン系ムスリム商人と、かつての遊牧騎馬民族で、今や商業の民となったウイグル人でした。とくにウイグル人は、元では色目人として政治・経済の上で重要な役割を果たしました。
モンゴル帝国は、土地経営にはあまり関心がなく、ムスリム商業組織やウイグル商業勢力を政権に引き込んで、経済政策の中心を交易におきました。まずユーラシア全域にわたる物流・運輸交通網の整備を図り、その中心として巨大帝都をはじめ、都市・港湾・運河・道路を整備しました。ついで、商人たちの活動を支援し、そのための資金はモンゴル政権が貸し与え、しかも国内外の関税は最終売却地における一度だけの支払いとし、税率はほぼ一律に3.2%におさえました。さらに、銀がモンゴル帝国の公式の基準通貨とされました。すでにこれ以前にユーラシア大陸では、東方の中国と西方のヨーロッパを別として、ほぼ銀が第一の交換手段となっていましたが、モンゴル帝国はこの形勢をより強力に推し進めたのであり、今や銀は、どこでも通用する国際通貨となったのです。このような、銀の国際通貨化はその後の歴史に決定的な影響を与えることになります。交換手段が共通化すれば交易が容易となって世界の一体化が促進されるとともに、やがて16世紀以降アメリカ大陸から大量の銀が到来し、価格革命と商業革命を引き起こして、資本主義経済への道が開かれていくのです。
モンゴル帝国の交易ネットワークは陸上だけではなく、海上にも向けられました。1279年に元のフビライが南宋を征服すると、南海への道が開かれ、モンゴル帝国は本格的に海上交易路の支配に乗り出しました。その一環として日本への遠征、いわゆる「元寇」が行われたのです。その後元は東南アジアに大船団を派遣しますが、東南アジアの征服という目的は失敗に終わりました。しかし、モンゴルが主導する海上交易路の確保という目的は、東南アジアの国々が元に朝貢することによって達成されました。その結果、中国から東南アジア・インド洋を経て、フビライの弟フラグが支配するイランのペルシア湾につながる海上交易路の統一的な支配が達成されたのです。
ここに、草原の道・シルクロード・海上ルートの三つの主要交易ルートが統合されることになり、東西の交易は空前の規模に達しました。それはまさに、「モンゴルの平和」=パックス・モンゴリカです。そして、これほど大規模な統合は以後二度と出現することはなく、交易の重心はますます海上へとシフトしていくことになります。
北京
大都
しかし何よりも大都の最大の特色は、全ユーラシア大陸の交易ネットワークの集結点としての役割を担っていたということです。まず、中国内陸部とは道路・河川・運河によって結ばれ、また、草原の道やシルクロードとも直接つながっていました。しかし特筆すべきは、大都の町の中に巨大な「池」が造られ、それが港としての役割を果たしたということです。この「池」は内陸部の運河網と結びついていただけではなく、海上ルートとも結びついていました。当時、物資の輸送のために、陸上ルートだけでなく中国の海岸沿いに山東半島を回って天津に至るルートが発達してきましたが、この天津から大都まで河川と運河を用いて船で行くことができました。つまり、海上ルートで到来した船は、天津を経て直接大都市街の「池」にまで行くことができ、そして海上ルートは東南アジアやインド洋・ペルシア湾にまでつながっていたのでする。
このように、すべての交易ネットワークが大都を終着点としていたのであり、まさに「すべての道は北京に通じる」でありました。
3.マムルーク朝とカーリミー商人
エジプトでは、10世紀にファーティマ朝がアッバース朝から自立し、カイロを建設して地中海と紅海・インド洋を結ぶ中継地として繁栄するようになりました。11世紀末にヨーロッパからの十字軍がシリアに進出しますが、12世紀に成立したアイユーブ朝のサラディンが十字軍を撃退してシリアに進出しました。ところが、13
世紀半ばになると、モンゴル軍が西アジアに侵入し、さらに新たな十字軍も計画されていたから、アイユーブ朝は危機に陥ります。一方、カスピ海北方のキプチャク草原のトルコ系遊牧民がモンゴル軍に追われて西アジアに流れ込み、これをムスリム商人が軍人奴隷=マムルークとして売買しました。彼らは遊牧民だったので騎馬戦に長けており、当時軍隊の再建を迫られていたアイユーブ朝が大量に彼らを購入しました。そしてこの中に、やがてマムルーク朝の繁栄をもたらすことになるバイバルスがいたのです。
1250年にアイユーブ朝が滅びて、マムルーク軍団を基盤とするマムルーク朝が成立しますが、この王朝も建国当初は混乱続きでした。しかも、1258年アッバース朝の都バグダードがフラグの率いるモンゴル軍により陥落し、バグダードは廃墟と化しました。モンゴル軍はさらに西へと進撃したため、マムルーク朝は危機に陥ります。ところが、1260年バイバルスがマムルーク軍団を率いてモンゴル軍を撃退し、自らスルタンに就任したのです。この時バイバルスは33歳でした。こうして、マムルーク朝はモンゴル軍の破竹の進撃を阻止することに成功し、イスラーム世界の西方部分をモンゴルの支配から守るとともに、1270年には十字軍も最終的に撃退しました。今やマムルーク朝は、アッバース朝に代わって事実上イスラーム世界の盟主となり、バグダードに代わってカイロがイスラーム世界の中心となったのです。このように、マムルーク朝の成立もまた、モンゴル帝国の成立というユーラシア大陸の激動の中で起こった事件だったのです。世紀半ばになると、モンゴル軍が西アジアに侵入し、さらに新たな十字軍も計画されていたから、アイユーブ朝は危機に陥ります。一方、カスピ海北方のキプチャク草原のトルコ系遊牧民がモンゴル軍に追われて西アジアに流れ込み、これをムスリム商人が軍人奴隷=マムルークとして売買しました。彼らは遊牧民だったので騎馬戦に長けており、当時軍隊の再建を迫られていたアイユーブ朝が大量に彼らを購入しました。そしてこの中に、やがてマムルーク朝の繁栄をもたらすことになるバイバルスがいたのです。
マムルーク朝の繁栄の基盤は、カイロを中心に地中海・紅海・インド洋を結ぶ交易であり、この交易を担ったのが、カーリミー商人と呼ばれる商人集団でした。「カーリミー」の語源ははっきりしませんが、11世紀にアッバース朝の衰退が決定的となってペルシア湾ルートが衰退し始めた頃から、カーリミー商人の活動が始まります。彼らは、冒険的な小商人ではなく、遠隔の地に代理店をおき、各地の需要と価格の動向に応じて買い付けや販売を行う多角的な経営者で、14世紀前半にはカイロに200人くらいのカーリミー商人がいたと推定されています。
カーリミー商人は、イエメンのアデンで買い付けた商品を、紅海途中の西岸から荷揚げして陸路ナイル川流域に運び、ナイル川を船で下ってカイロに至り、さらに地中海海岸の終着地アレクサンドリアまで運びました。そして、アレクサンドリアに北イタリアのヴェネツィアやジェノヴァの商人がやってきて、商品を買い付けていきました。カーリミー商人が扱った主な商品は、アデンでインド商人から買い付けた香辛料・絹織物・綿織物・陶磁器などですが、特にこの頃からヨーロッパで香辛料に対する需要が急激に増えたため、東方貿易といえば香辛料貿易と同一視されるほどです。また、エジプトで砂糖の生産が行われるようになり、これもヨーロッパにはない重要な甘味料として珍重され、カーリミー商人の中には自ら製糖所を経営するものもありました。これはもはや単なる商業行為ではなく、後にヨーロッパで発展する資本主義経済の萌芽ともいうべきものでした。
一方、ヨーロッパにおける香辛料と砂糖に対する強い欲求は、やがてヨーロッパ人がそれらを直接手に入れるために大西洋に進出する決定的な動機となるのです。
4.ヴェネツィアとジェノヴァ
13世紀に北イタリアの二つの都市、ヴェネツィアとジェノヴァが繁栄しますが、これもまたモンゴル帝国の成立を背景とする東西交易の発展を背景としていました。ユーラシア大陸を覆うモンゴル帝国のネットワークは、ヨーロッパに形成されつつあったネットワークともリンクし、これによる交易の発展を背景にヴェネツィアとジェノヴァが繁栄したのです。
13世紀前半の地中海
ヴェネツィアとジェノヴァは常にライバル関係にあり、地中海の商業覇権を巡って激しく対立しました。12世紀には両都市とも、主としてビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを中継地として交易を行っていましたが、1204年にヴェネツィアが十字軍を誘ってコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建設させました。これに対抗してジェノヴァは、ビザンツ帝国が小アジアに建国したニケーア帝国と結びますが、地中海貿易におけるヴェネツィアの優位は圧倒的なものとなりました。この間ヴェネツィアは、香辛料貿易だけでなく、コンスタンティノープルから黒海沿岸にも進出して交易活動を展開しましたが、ちょうどこの頃モンゴルがこの地方にも進出するようになり、ヴェネツィアはモンゴルのネットワークと直接接触するようになりました。ヴェネツィアの商人マルコポーロの大都訪問は、こうした背景のもとで行われたのです。
13世紀後半の地中海
ところが、1261年にコンスタンティノープルでビザンツ帝国が復活し、その結果ヴェネツィアはコンスタンティノープルから追放されることになりました。そこでヴェネツィアは、バイバルスがスルタンになった直後のマムルーク朝と接触し、アレクサンドリアを中継点として香辛料貿易を行うようになりました。
15世紀の地中海
一方、小アジアの一角で興ったオスマン・トルコが、14世紀にはバルカン半島に進出し、ビザンツ帝国の衰退は決定的となっていきました。そして1453年ついにコンスタンティノープルが陥落し、さらにオスマン帝国はマムルーク朝をも圧迫し、1517年にはマムルーク朝も滅ぼすことになります。そのため、ヴェネツィアやジェノヴァは大西洋に目を向けるようになり、当時急速に成長しつつあったポルトガルやスペインとの関係を深めていきました。こうした中で、ジェノヴァ出身の船乗りコロンブスが、スペインの援助で大西洋を横断することになるのです。
15世紀の地中海
一方、小アジアの一角で興ったオスマン・トルコが、14世紀にはバルカン半島に進出し、ビザンツ帝国の衰退は決定的となっていきました。そして1453年ついにコンスタンティノープルが陥落し、さらにオスマン帝国はマムルーク朝をも圧迫し、1517年にはマムルーク朝も滅ぼすことになります。そのため、ヴェネツィアやジェノヴァは大西洋に目を向けるようになり、当時急速に成長しつつあったポルトガルやスペインとの関係を深めていきました。こうした中で、ジェノヴァ出身の船乗りコロンブスが、スペインの援助で大西洋を横断することになるのです。
≪映画≫
成吉思汗
2005年 イギリスBBCのテレビ番組で、
チンギス・ハンの生涯をドキュメンタリー風に描いています。作製されたのが2005年なので、翌年のモンゴル帝国成立(1206年)1800周年を意識した番組だと思われます。
ヨーロッパの人々は、長い間チンギス・ハンを野蛮で残虐な人物であると考えてきました。しかし、そうしたイメージが事実に反することは明らかであり、この映画にはそうした先入観を払拭しようという意図が見られました。この映画では、古いイメージがなお随所に見られますが、それでもチンギス・ハンが単なる野蛮で残虐な人物ではないという意図は伝えられています。
マルコ・ポーロ
2006年 アメリカ
この映画も、モンゴル帝国成立1800年を意識しているかもしれません。マルコポーロは、ヴェネツィア出身で、1274年フビライに面会、約20年間フビライに仕える、1295年ヴェネツィアに帰国します。彼が中国で見聞したことについて誰にも信用されず、彼は「ほら吹きマルコ」と言われていました。有名な『世界の記述(東方見聞録)』は、15世紀になってようやく注目されるようになります。
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