1999年にイギリスで制作された映画で、ロシアの文豪プーシキンの小説「エヴゲニー・オネーギン」を映画化したものです。
プーシキンは1799年に生まれましたので、この映画はプーシキン生誕200年を記念して制作されたと思われます。彼は名門地主貴族の家に生まれ、若くから文学に目覚めますが、この時代のロシアは、皇帝の専制支配と農奴制という、一般にロシア・ツァーリズムと呼ばれる体制下にあり、文化的にも、貴族は日常的にフランス語を話しており、こうした下では自由な文学が生まれる素地がありませんでした。これに対して、プーシキンは積極的に口語を取り入れて、ロシア文学の基礎を築きました。しかし、その自由主義思想のために、絶えず宮廷により監視されていました。一方、彼は何度も決闘を行っており、決闘に際しては必ず相手に先に撃たせ、自らは撃つことなく笑って済ませたそうです。そして1836年の決闘では相手の弾が命中し、プーシキンは笑って死んでいったとのことです。37歳でした。
「エヴゲニー・オネーギン」は、プーシキンの代表作の一つで、1825年から31年にかけて執筆されました。1825年は、青年将校たちがデカブリストの乱を起こし鎮圧された時代で、多くの青年将校たちが処刑・シベリア流刑になった時代であり、皇帝ニコライ1世による反動政治が強化された時代でした。そして映画は、この時代のサンクトペテルブルクから始まります。そこで享楽的な生活を送っていたオネーギンは、叔父の巨額の遺産を相続したため、田舎の領地に向かいます。そこでレンスキーという青年、彼の婚約者オリガ、オリガの姉タチヤーナに出会います。タチヤーナは物静かな美人で、オネーギンに一目惚れし、彼に熱烈な恋文を書きます。しかし、心が荒んでいたオネーギンはタチヤーナの申し出を拒否し、さらに、些細なことからレンスキーと決闘して殺してしまい、いずれかへ立ち去ってしまいます。6年間各地を放浪したオネーギンは、サンクトペテルブルクの社交界で、すでに結婚していたタチヤーナに再会し、かつての思いが蘇り、彼女に熱烈な恋文を送りますが、今度は彼女が受け入れを拒否します。
このストーリーだけでは単なるすれ違いドラマであり、オネーギンの身勝手さだけが目立ちますが、そこには映画ではほとんど表現されていないオネーギンの苦悩があります。許容しがたい矛盾に満ちた社会、労働することなく享楽に明け暮れる貴族社会、その中でどのように生きていくべきか、どこにも理想を見出すことができない絶望、これが当時のロシアの青年たちの心情であり、オネーギンの心でもありました。そうした中では、彼にはタチヤーナの純真な心を受け入れる余地がありませんでした。しかし長い遍歴の旅の後に、オネーギンはタチヤーナに再会して、彼女に希望を見出したのですが、結局拒否され挫折します。希望と絶望の繰り返し、これが当時のロシアの青年が置かれていた状況でした。そしてオネーギンは、プーシキン自身だったと言えるのではないでしょうか。彼は何度も決闘を繰り返し、しかも自分自身は発砲しなかったのは、彼が生きることに絶望していたからではないかと思います。
この映画の映像は非常に美しかったのですが、オネーギンの心の葛藤が十分に描かれておらず、オネーギンの身勝手な恋のみが目立った映画でした。
カラマーゾフの兄弟
1969年にソ連で制作された映画で、ドストエフスキーの同名の小説を映画化したものです。232分に及ぶ長編で、原作が比較的忠実に再現されているとのことです。私も、はるか以前に原作を読みましたが、登場人物の名前を覚えるのに苦労しました。
ドストエフスキーは、トルストイやトゥルゲーネフとともに、19世紀後半のロシアを代表する作家です。19世紀後半のロシアでは、クリミア戦争の敗北、農奴解放令、社会主義運動やテロリズムの興隆、皇帝アレクサンドル3世の暗殺など、専制支配が末期症状を示し始めた時代です。ドストエフスキーは、1821年にモスクで生まれ、軍隊生活の後に、サンクトペテルブルクで作家活動を始めます。1846年の処女作「貧しき人々」が高い評価を受けますが、その後空想的社会主義のグループに参加し、1849年に逮捕されてシベリアに流刑となります。1858年にサンクトペテルブルクに帰還して作家活動を再開しますが、この間に彼は、思想的には社会主義者からキリスト教的人道主義者に変わっていました。1866年の「罪と罰」で、作家としての彼の地位は不動のものとなりましたが、癲癇の発作、賭博好き、借金などで、かなり乱れた生活を送りつつ、多くの作品を発表しました。そして、1880年に、彼の集大成ともいうべき「カラマーゾフの兄弟」を執筆し、翌年死亡します。60歳でした。
「カラマーゾフの兄弟」は内容が非常に複雑で、とても一言で述べることはできません。登場人物は、まず強欲で好色な成り上がり地主フョードル、その長男のドミトリーは直情型で暴力的な人物、この二人は一人の女性を巡っていがみ合っています。次男のイヴァンは大学を出たインテリで、無神論者、そして三男のアレクセイは純真で真面目で、修道僧となっています。読者が、この三人の誰を主人公に見立てるかによって、ストーリーが異なって見えます。そして、小説全体を通して、信仰の問題、生と死、貧困、児童虐待、父子・兄弟・異性関係などさまざまなテーマが語られており、「思想小説」「宗教小説」「推理小説」「裁判小説」「家庭小説」「恋愛小説」としても読むことができるでしょう。
映画は、フョードルがギリシア正教の長老に、息子との対立の調停を依頼したことから始まり、激しい宗教論争が展開されるとともに、親子の対立が決定的になっていきます。三男のアレクセイは当然神を信じますが、次男のイヴァンは無神論者で、長男のドミトリーは信仰心がなくはないという程度、そして父親は、神がいなければ罰せられることはないため、神がいないことを期待している、といった具合です。色々あって、ある時父フョードルが何者かによって殺害され、父と対立していたドミトリーが逮捕されます。ところが裁判の前日に、召使のスメルジャコフがイヴァンに自分が犯人であることを告白し、その夜自殺します。はっきりしませんが、スメルジャコフはフョードルの私生児だったらしく、自分が召使として育てられたことに、怨みをもっていたようです。裁判では、無神論者だったイヴァンが悪魔に憑りつかれた幻想を見て錯乱状態となり、無実だったドミトリーはシベリア流刑となりますが、信仰心を取り戻し、父と奪い合った娼婦はドミトリーへの愛に目覚めて、ドミトリーとともにシベリアへ向かいます。そして、最も信仰深かったアレクセイは、信仰への疑念を抱くようになります。
非常に複雑な内容で、私の要約は間違っているかもしれませんが、見方によっては、父と三人の兄弟の誰が主人公でも成り立つように思います。実は、ドストエフスキーはこの小説の続編を考えていたようですが、実現しませんでした。続編では三人の兄弟はどうなるのか、様々な推測がなされており、中にはアンドレイがテロリストになるという推測もありますが、あくまで推測にすぎません。
戦争と平和(1967年)
1967年にソ連で制作された映画で、ロシアの文豪トルストイの同名の小説を映画化したものです。実に424分という、とんでもない長編ですが、何しろ小説の方も長編なので、これでも描き切れないくらいです。
トルストイは、1828年に名門貴族の家に生まれますが、早くに両親をなくし、叔母に育てられます。青年時代には遊興に明け暮れますが、同時にルソーの強い影響を受け、領地の農地改革を行ったりしますが、挫折します。1851年、23歳の時軍隊に入り、53年にクリミア戦争に従軍し、戦争の悲惨さを目の当たりにして、この経験から後に非暴力主義を唱えるようになります。その後領地に帰り、農地改革や農奴の教育などを行うとともに、小説家としての名声も高まりつつありました。そして、「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「復活」など不朽の名作を次々と発表して世界的な大作家となり、日本でも1886年に彼の作品が翻訳されています。晩年のトルストイは執筆活動を止め、自らが生み出したキリスト教的人道主義の普及に努め、1910年に死亡します。82歳でした。
「戦争と平和」は、1865年から69年にかけて執筆されたもので、1805年のアウステルリッツの戦いから1812年のナポレオンのモスクワ遠征までの7年間を扱っています。登場人物は500人を超え、上流階級から農民に至るまでの、あらゆる階層の人々の生活や考え方を描き出し、貴族階級の退廃と農民の生き様を描くとともに、戦争の悲惨さを描き出しています。
主人公のベズウーホフ伯爵ピエールは庶子として生まれましたが、父から巨額の財産を受け継いでいました。彼は肥満気味で、力自慢の偉丈夫でしたが、何をやっても中途半端に終わり、放蕩に明け暮れていました。これだけでは、ただのうすのろですが、彼は常に内面で葛藤していました。人はなぜ信仰するのか、人は何故愛するのは、人は何故苦しむのか、人は何故戦うのか、そして自分は何者なのか。まさにピエールは、トルストイの青年時代そのものでした。
ピエールの親友であるボルコンスキィ公爵アンドレイは、ピエールと同様に様々な疑問を抱いていましたが、彼は実務家として有能であり、アウステルリッツの戦いに従軍します。ピエールもアンドレイも、当時二十歳代後半で、二人とも結婚生活に失敗し、家庭的には恵まれませんでした。一方、ロストフ伯爵ニコライの妹にナターシャという少女がいました。彼女は当時12歳で、天真爛漫な少女でしたが、やがて、彼女はピエールとアンドレイに大きな影響を与えることになります。
1810年にナターシャは社交界にデビューし、アンドレイに一目惚れし、二人は婚約します。ところが、女ったらしで有名な貴族が彼女を口説きます。男性に憧れ、恋に憧れる純真な少女ナターシャは、たちまちこの貴族の言いなりになり、アンドレイとの婚約を破棄し、駆け落ちまでしようとしますが、ピエールが彼女を救い出します。しかし、この事件で、アンドレイもナターシャも心がずたずたに引き裂かれてしまいます。
こうした中で、1812年ナポレオンのモスクワ遠征が開始され、ロシア軍は敗退を重ねて、モスクワの手前のボロディノで決戦することになります。ロシアの総司令官クトゥゾフは、モンゴル貴族の出身で、アウステルリッツの戦いでの敗北のため左遷されていましたが、再びここで担ぎ出されることになります。彼は、貴族や士官には評判が悪かったのですが、兵士や民衆に人気があり、ずば抜けた洞察力のある軍人だったようです。彼は、この戦いに勝てるとは思っていなかったようですが、出来る限りフランス軍を疲弊させ、空にしたモスクワにナポレオン軍を入れ、冬になってナポレオンが撤退するのを待ちます。
映画は、このボロディノの戦いを大規模かつ詳細に描きます。ソ連にとっては、この戦いは大祖国戦争の名誉ある戦いであり、敗北したとはいえ、これがナポレオン没落のきっかけとなった戦いです。戦争場面は、同じボロディノで、ソ連軍の兵士がエキストラなって撮影されたそうです。アンドレイは、この戦いで重傷を負い、間もなく死にます。一方、ピエールは戦場を「見学」します。彼は、戦争とは何かということを自らの目で確認したかったようで、銃弾や砲弾が飛び交う中を、何かに憑つかれたように歩き回ります。そして、このような殺し合いは決して許されないこと、戦争とは人間の理性とすべての本姓に反する事件あることを確信します。「成し難いが大切なのは、命を愛し、苦難の時も愛し続けることだ。なぜなら、命がすべてだからだ。命は神なり、命を愛することは、すなわち神を愛することである。」
一方、ナターシャは、例の事件でずたずたになりましたが、この苦しみを経て、あどけない少女から大人の女性に成長していました。彼女は瀕死のアンドレイを看病し、アンドレイは今も彼女を愛していることを告白して死んでいきます。そしてピエールもナターシャを愛していることに気づき、ナターシャもピエールに魅かれていることに気づきます。
小説は、多くの人々の考え方、思考回路の違いを語ります。戦争を叫んでいる人々、兵士たち、女たちは、それぞれが異なった思考回路をもち、そしてそれぞれの立場で戦争という巨大な事件に飲み込まれ、理不尽に死んでいきます。そしてピエールの結論は、「私はこう思う。手に手を取って進もう。善なるものを愛し、気高き自己を、唯一の旗印に掲げよう。巨大な結果を生む思想は、すべてが常に単純なものである。私はこう思う。もし背徳の輩が結束し、勢力を形成したなら、誠実な人間も同様に対抗するしかない。それが真理だと」ということです。
映画は、トルストイの思想を忠実に表現しようとしており、424分という長編を感じさない程、感動的でした。
1956年に制作されたイタリア・アメリカの合作映画で、これも208分という長編です。ただ、この映画はナターシャに焦点が当てられており、ピエールやアンドレイの精神的な葛藤はほとんど触れられておらず、「恋愛物語」となっています。この映画は、多額の費用をかけて制作されましたが、これはトルストイの「戦争と平和」というよりは、オードリー・ヘップバーンのために制作された「ナターシャ物語」です。ただ、オードリー・ヘップバーンは相変わらず美しく魅力的で、十分観るに値します。「戦争と平和」の主題は見事に骨抜きにされていますが、娯楽映画としてなら、この映画の方が面白いと思います。
アンナ・カレーニナ
トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」は何度も映画化されていますが、私が観たのは、1948年にイギリスで制作された映画です。
私が原作を読んだのは、はるか昔なので、内容をほとんど覚えていませんが、二組の男女の物語が並行して進んで行く話です。一つは、政府の優秀な高官カレーニンの妻アンナと、貴族の若い将校ヴロンスキーとの不倫であり、もう一つは、アンナの兄嫁の妹キティがヴロンスキーに憧れ、そのキティに純朴な地主貴族リョーヴィンが求婚するという話です。この二つの恋が重なり合いながら物語が進行し、完結していくのだと思うのですが、映画はほとんどアンナのことしか扱っていません。
アンナは夫に離婚を求めますが、世間体を気にする夫は離婚を認めず、子供も渡してくれませんでした。そのためアンナとヴロンスキーは、二人で正式に結婚できないまま、生活を始めますが、自分の境遇に不満なアンナは、しだいにヴロンスキーと対立するようになります。絶望したアンナは列車に身を投げ自殺します。「彼女の人生を照らしていた明かりは、突然燃え上って明るくなった。そしてしだいに薄くなり、永遠に消えた」ということです。そして、生きる意味を失ったヴロンスキーは、トルコとの戦い(1877年露土戦争)に出征します。一方、リョーヴィンはキティと結婚し、領地で人や神のために生きることに平安を見出します。
神の掟に背いて不倫という行為に走ったアンナは、自滅していくことになりますが、同時にトルストイは、自分の気持ちに誠実に生き、そして虚飾に満ちた貴族社会によって追い詰められていったアンナにも同情を寄せています。さらに、農村で誠実に生きるリョーヴィンにも共感を示します。それはトルストイ自身が求めた生き方だったのだと思います。終着駅 トルストイ最後の旅
2009年に、イギリス・ドイツ・ロシアによって制作された映画で、1910年におけるトルストイの死を描いた映画です。結論から先に言えば、トルストイは妻ソフィアとの不和のため家出をし、列車に乗って南へ向かいましたが、途中で発病し、まもなく死亡しました。この顛末は、当時世界中で報道され、多くの人々が彼の死を悼みました。この映画の原作のタイトルは、「終着駅
トルストイの死の謎」です。
1880年代頃から、トルストイの教えに共感する人々が集まり、菜食主義と禁酒主義、禁煙、純潔といった禁欲主義に基づく共同生活を行う人々が生まれ、トルストイ主義運動と呼ばれるようになりました。トルストイは、教条主義的なトルストイ主義運動に若干の疑問をもっており、「私はトルストイ主義者ではない」と言っていましたが、伯爵であり、巨大な土地の所有者であり、莫大な印税収入のあるトルストイは、自分の贅沢三昧の生活に自己嫌悪しており、財産や印税をトルストイ主義運動に寄付することを考えるようになりました。そして、これに猛反対したのが、妻のソフィアでした。
1861年、トルストイは34歳の時、当時18歳のソフィアと結婚し、二人の間には9男3女が生まれ、幸せな結婚生活の中で、数々の名作が生み出されました。しかし、ソフィアは悪妻として世に知られており、トルストイを死に追いやった女性として非難されています。そして映画では、その真相(?)を、1910年における二人の生活を描くことで、明らかにしようとしているわけです。考えて見れば、トルストイ自身は贅沢な暮らしをし、自分の死後は財産を他人にくれてやるということですから、ソフィアが怒るのは当然です。自分や子供たちの生活を守るためにも、彼女には財産を守る必要がありました。
映画では、トルストイ主義運動の幹部たちが、トルストイの財産を運動に寄付するように仕向けます。それに対して、ソフィアが激しく反発します。そうした中で、トルストイを崇拝するワレンチンという純真な青年が、トルストイの秘書として雇われ、映画は彼が書いた日記をもとに制作されました。ソフィアはヒステリックに夫を非難しますが、それでいて二人は鶏の鳴き真似ごっこをして戯れたりしています。50年近く寄り添って生きてきた夫婦の感情は、それ程単純なものではありません。トルストイは、天才とか聖者などと呼ばれていましたが、彼自身はもっと俗っぽい生活を送っていました。
しかし、ある時トルストイは妻のヒステリーに耐えかねて、娘一人を連れて、列車に乗って旅に出ました。つまり82歳の老人の家出です。ところが途中で体調を崩し、結局、そのまま駅舎の中で死んでいきます。一方、夫の家出を知ったソフィアは半狂乱になり、池に飛び込んで自殺未遂を起こし、その後夫の居る駅舎に行きますが、トルストイ主義運動の幹部たちが、彼女を中に入れてくれず、大騒ぎになります。まるで喜劇です。実は、こうした一連の騒動を、新聞記者たちが、逐一全世界に報道していました。駅の前には、多くの新聞記者たちがテントを張って、泊まり込みで取材をし、全世界に報道しており、ソフィアの痴態も報道されていました。この一連の報道が、ソフィアに天下の悪妻という烙印を押したのだと思います。
結局、1914年にトルストイの全著作権はソフィアに委譲され、5年後にソフィアも死にます。そしてこの間、1917年にロシア革命が勃発し、ロシアは長い混乱の時代を迎えることになります。
映画では、伝説化された偉人トルストイの平凡な日常生活が描かれ、しかもその偉人が家出先で死ぬという滑稽な幕切れでしたが、大変心温まる内容であり、感動的な映画でした。
ドクトル・ジバゴ
1965年制作のイタリア・アメリカよる合作映画で、これも194分という長編です。この映画はロシアの作家ボリス・パステルナークが1957年に発表した小説を映画化したものです。この小説はソ連では出版できず、イタリアで出版され、ノーベル文学賞の受賞が決定されましたが、ソ連当局の圧力で、パステルナークは受賞を辞退しました。この映画がロシアで公開されたのも、ソ連が崩壊してからです。
映画は、ジバゴという医師が、第一次世界大戦とロシア革命という動乱に翻弄される姿を描いています。ジバゴは、医師として病院に勤務し、同時に詩人としても名を知られていました。第一次世界大戦が始まると、軍医としてウクライナの戦線に派遣され、1917年にロシア革命が起きた後、モスクワに帰りますが、家は革命政府に押収されていたため、妻子と妻の父とともに、ウラル山地にある別荘に移ることにしました。この間、赤衛軍と白衛軍との内戦が激化し、村や町は荒廃していました。ようやく別荘にたどり着き、そこでしばらく平和な暮らしを続けましたが、やがて彼はパルチザンに捕まって軍医となることを強要されます。彼が家に帰った時には、妻子はすでにパリに亡命し、やむなく彼はモスクワに戻り、そこで死にます。
この物語には、もう一人の重要な人物が登場します。第一次世界大戦以前に、たまたまモスクワでラーラという娘に出会います。彼女の夫は戦争に行ったため、彼女は夫を捜すため、看護師となってウクライナの戦線に行き、そこでジバゴと再会します。しばらく彼女はシバゴのもとで働きますが、戦争が終わって二人は別々に帰って行きます。その後彼女は、夫がウラル地方で赤衛軍の指揮官なっていることを知り、ウラル地方に向かいますが、そこで偶然にもジバゴに再開し、二人は愛し合うようになります。二人はウラジヴォストークまで行って、そこからヨーロッパに向かおうとしましたが、二人は離れ離れになってしまい、やむなくジバゴはモスクワに戻り、そこでまもなく死亡します。実は、二人が別れた時、ラーラはジバゴの子を妊娠していました。
ジバゴの死後、彼の腹違いの兄が、ジバゴの子を探し始めました。実は、この映画はここから始まります。兄は、ある工場で働いている娘に目をつけ、彼女から色々聞き出すのですが、彼女は幼い時にモンゴルあたりで母と生き別れになり、別の人に育てられたらしく、自分の本当の名前も両親の名前も憶えていませんでした。彼女はさんざん苦労して生きてきましたが、今では恋人もおり、とても幸せそうであり、兄はそれ以上彼女のことを追求しませんでした。
この映画は、動乱の時代に、医者であり、繊細な感性を持つ一人の詩人が、どのように生きてきたかを描いています。革命そのものを否定することは決してなく、広大なロシアの、西のウクライナから東のウラジヴォストークまでを舞台とし、多くの人々が苦しみ、殺され、必死に生き延びる様子が描き出されており、大変感動的な映画でした。
ショーロフ作の「静かなるドン」という小説は、この時代のドン・コサックを描いたもので、これも映画化されており、これも286分の長編です。この映画を是非観たいと思ったのですが、手に入れることができませんでした。いつか観ることができたら紹介したいと思います。なお、ネットで「静かなるドン」を検索したところ、やくざを扱った漫画作品ばかりが出てきました。