2015年3月28日土曜日

映画でガイディとマザー・テレサを観て

ガンディー

1982年公開のイギリスとインドとの合作映画で、ガンディーを演じた役者は新人ですが、非常にガンディーに似ていたため、インド人の中にはガンディーの再来だと信じて、お参り来る人が絶えなかったとのことです。ガンディーについては、このブログの「第28章 帝国の崩壊とナショナリズム 」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/28.html)を参照して下さい。ただ、彼は非常に複雑な人物で、一言で述べるのは難しいように思います。
映画は、1948年のガンディー暗殺と葬儀から始まります。地位も金もない一人の人間の葬儀のために、世界中から政治家や思想家が参列しました。そして話は1893年の南アフリカに戻ります。この年24歳のガンディーは、イギリスで弁護士資格をとった後、南アフリカに向かいました。インド人は大英帝国の領域の至る所に進出し、南アフリカでは有色人種として差別されていました。彼は一等車に乗っていたのですが、有色人種であったため、列車から放り出されます。そしてこの時から彼の運動が始まります。
ここで大変興味深いのは、彼がインド人を大英帝国の臣民だと主張している点です。つまりヴィクトリア女王の臣民であり、女王の下にすべて平等だとしている点です。イギリスは多様な植民地をヴィクトリア女王の臣下とすることで、その維持を図ってきたのですが、ここでその矛盾が露呈されたわけです。(「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html)
彼は南アフリカで25年以上活動した後、1915年に46歳の時インドに帰ってきます。南アフリカにいた時は、彼はイギリス紳士風のスタイルをしていましたが、インドに上陸した時はヒンドゥー教の聖者のようでした。彼は非暴力・不服従運動を開始しますが、まもなく暴力事件が起こったため、運動の停止を命じます。その後彼が逮捕されたこともあって、運動は停滞しましが、彼は国民に非暴力の精神が侵透するのを待っていたように思います。
ガンディーは、ヒンドゥー教の聖者のような姿をし、糸巻で糸を紡ぎ、原始的生活をしているように思われましたが、同時に彼は優れた戦略家でもありました。まず彼はマスコミを巧みに使います。彼の周りには常にマスコミが張り付き、彼の行動は全世界に報道され、イギリスに圧力をかけていました。さらに彼は「塩の後進」と呼ばれる運動を演出します。海まで何百キロも歩いていき、海の水で塩を作り、それを販売するのです。たかが塩なのですが、多くのインド人がこの運動に参加したため、もはやイギリスも無視できず、10万人を超える人々を逮捕し、さらに無抵抗で前進するインド人を棒で殴り倒しますが、インド人は全くひるむことなく前進します。そしてこの情景が、マスコミを通じで全世界に報道されました。もはやイギリスに打つ手はなくなります。
第二次世界大戦後の1947年にイギリスはインドの独立を認めます。しかし今度はインド内部で問題が発生しました。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立です。もともと両者は共存していたのですが、イギリスによる離間策により、修復不能なまでに対立し、インドはほとんど内乱状態になります。ここでガンディーは伝家の宝刀を抜きました。対立が収まるまで断食すると宣言したのです。まさに死の断食です。その結果内乱はとりあえず収束に向かいますが、根本的な解決には至らず、1948年彼はヒンドゥー教の過激派によって暗殺されます。
その後ネルーが国造りに励みますが、それはおそらくガンディーが思い描いていた国とは異なるでしょう。また、インドはパキスタンとの間で何度も戦争を行い、今も両国の対立はつづいています。

ガンディーは、この程度の言葉では語りつくせない程複雑な人物ですが、ここでは映画の紹介という範囲に留めておきたいと思います。この映画で用いられたエキストラは延30万人を超え、ガンディーを演じたベン・キングズレーは新人でしたが、徹底的にガンディーの外見や仕草を模倣し、アカデミー賞主演男優賞を獲得しました。とくに男たちが無抵抗で警官たちに棍棒で殴り倒されていく場面は圧巻で、まさにイギリスの敗北を象徴する場面でした。

なお、インドについては、このブログの以下の項目も参照して下さい。
インド映画「ムトゥ」を観て 
インド映画「ボンベイ」を観て
現代史「第3章 南アジア」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/3.html


マザー・テレサ

2005年に制作されたイタリアとイギリスの合作映画で、生涯を貧困者の救済に尽くした修道女マザー・テレサの半生を描いたテレビ映画です。
マザー・テレサは、1910年にオスマン帝国領だったアルバニアに生まれました。アルバニアはイスラーム教・カトリック・ギリシア正教が混在する地域で、そうした環境が彼女の宗教観に影響を与えたかもしれません。彼女の言葉によれば、13歳の時に神の声を聴き、18歳の特に聖ロレト女子修道会に入り、インドのカルカッタ(コルカタ)に赴き、ここで1947年まで女子教育に専念します。1946年に彼女は、「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたとされます。これはガンディーの言葉でもあります。また映画では、ある年老いた乞食が「私は渇いている」と述べたとされています。これは十字架上でのイエスの言葉です。この時彼女は、貧者の中に神を見たわけですが、これはヒンドゥー教的でもあります。
こうしたことから、彼女は修道院の外へ出て、貧者への奉仕活動をしたいと思うようになりますが、尼僧は修道院の外で活動することは許されません。まして当時はインド独立前夜であり、イスラーム教とヒンドゥー教徒との対立が激化しており、カルカッタのスラム街は尼僧が一人で歩けるような場所ではありませんでした。しかし彼女は思い込んだら決して諦めない質のようで、ローマ教皇に手紙を書き、1948年についにローマ教皇から許可を得ました。38歳の時です。こうして彼女は、たたった一人でスラムでの生活を始めます。そしてこの年、ガンディーが暗殺されました。
1950年にローマ教皇から新たな修道院を設立する許可が与えられ、「神の愛の宣教者会」が設立されます。その目的は、「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことでした。こうしてシスター・テレサはマザー・テレサとなります。次第に彼女の活動を援助する人々が増え、やがては海外でも活動するようになります。その結果彼女の活動は世界中で知られるようになり、1977年にノーベル平和賞を受賞しました。そして1997年に87歳で逝去しました。その時、「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていました。
 前に述べた「黒水仙」の尼僧たちは、圧倒的な自然と文明の重みの中で挫折し、「尼僧物語」のシスター・ルークは、従順の掟と自らの意志との葛藤から、修道院を去って行きました。それに対して、マザー・テレサは自らの意志を神の意志と信じて貫き通し、自らの修道院を造りさえしました。どれが一番正しいかということではありませんが、マザー・テレサの場合、優れてヒンドゥー教的であり、またガンディー的だったように思われます。


 なお映画では、かつてジュリエットを演じたオリヴィア・ハッセイが、マザー・テレサを演じていました。彼女も当時すでに50歳を超えていましたが、とてもチャーミングなマザー・テレサでした。

2015年3月25日水曜日

「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団」を読む

川成洋著、1989年、朝日選書
 1936年にスペインで始まった内戦において、スペインの民主主義を守るために、世界中から多くの義勇兵が集まりました。そしてその中に、一人の日系アメリカ人が加わっていました。その名をジャック白井といいます。その他にも何人か日系人が参加していたという伝聞があるのですが、はっきりしているのはジャック白井だけです。
 著者は、ジャック白井の足跡を丹念に調べ上げます。出生なついては、白井が1900年頃日本の函館で生まれたらしいこと以外は、ほとんど何も分かっていませんが、不幸な生い立ちだったようです。1929年にニューヨークで姿を現し、コックの仕事をしていたようです。この頃から、彼を知る人が現れ始めます。反戦運動で知られる石垣綾子と親しく、労働運動にも参加していたようです。そして、1936年にスペインで内戦が始まると、彼は義勇兵に志願し、スペインに渡ります。
 何故彼がスペイン内戦に参加したのか。著者によれば、不幸な生い立ちと、世界恐慌後の踏みにじられた生活への怒りから、スペインで民主主義の火を消すな、というのが義勇兵たちの共通の心情だったようです。「スペインの民衆の果敢な武力抵抗は、真暗闇の中で、消えることのない一条の光と映ったのだった。」
 著者は、スペインで白井と同じ隊にいた人を捜し出し、丹念に聞き取り調査をします。白井はコックだったので、調理班に入れられることになりましたが、白井は「自分は料理のためではなく、ファシストを殺すために来たのだ」と怒ったそうで、彼は「銃をもつコック」といわれていたそうです。しかし、現実には人民戦線政府は内部対立を繰り返し、イギリスやフランスは援助を拒否しましたので、戦いは劣勢が続き、1937年に白井は戦死します。そして39年にフランコの反乱軍が勝利し、以後1975年にフランコが死ぬまでスペインに独裁体制が続くことになります。
 ニューヨーク時代の彼は寡黙だったそうですが、スペインではいつも笑顔で話し、乏しい食材を用いて彼が造る料理は美味しいとの評判でした。「ジャック白井は、スペインで、この上なく幸せだったに違いない。彼の37(多分)の生涯は、このスペインでの半年間の生活のための、いわば助走のようなものだったとも思われる。人種差別もなく、過去の経歴も全く問題にしないスペイン。それが故に各々の能力が正当に評価され、それを十分に発揮できるスペイン。人間同士のぬくもりが肌でわかるスペイン。今までの白井にとって、このような生の充実を実感できた場所がスペイン以外にあったであろうか。生きていることを実感できるスペインで、白井はおのれの生命を十二分に燃焼できたのではあるまいか。それは失われた日々をたぐり寄せるようなものだろう。」ジャック白井に対する、著者の思い入れの深さを示す言葉です。


 なお、1937年に日本は、まだ勝敗のはっきりしないフランコ政権を承認します。それは、ドイツとイタリアによる満州承認の見返りだったようです。

2015年3月21日土曜日

映画「インドへの道」を観て

1984年に制作されたイギリスとアメリカの合作映画です。イギリスの植民地支配下にあった1920年代のインドと一人のイギリス人女性との出会いを描いたもので、非常に分かりにくい映画ですが、心に残る映画でもありました。
 イギリスの若い女性アデラが、インドで地方判事をしている婚約者に合うため、婚約者の母とともに、初めてインドを訪れます。たまたまインド総督と同じ列車だったため、インド人たちによる大歓迎を受けて町に入ります。彼女はインド人と接したいと思っていたのですが、イギリス人はインド人とほとんど接触せず、イギリス人だけの閉鎖的な社会で生活しており、インド人とは関わらない方がよいと忠告します。イギリス人は、常にインド人を侮辱的な目で見つめていました。
 たまたま知り合ったインド人医師アジズは、西欧人の服を着、西欧人にへりくだった態度をとっていました。彼はアデラを近くの洞窟に案内します。この洞窟が具体的にどの洞窟なのか分かりませんが、大きな岩山に多くの洞窟が掘られ、西欧人の観光名所となっていました。その洞窟に入るとこだまが響き、彼女はそれを聞いているうちに錯乱状態となり、一人で山から逃げ出します。そして彼女は、アジズに暴行されたと訴えたのです。その結果アジズは逮捕され、裁判が始まります。
 イギリス人は最初からアジズを有罪と決めつけており、それに対して民衆がイギリスの横暴を訴えて暴動を起こします。裁判は騒然とした中で行われアジズの有罪はほぼ確実かと思われましたが、最後にアデラが暴行はなかったと主張し、訴えを取り下げました。そしてアデラはイギリスに帰り、アジズは洋服を捨ててインド服に着替え、故郷で医師として平穏に暮らすことになります。
 以上のストーリーでは、ほとんど何のことか分かりませんが、この間にインド人とイギリス人との関係、美しい自然、都会の喧騒などが描かれます。そして何よりも、イギリス人が支配階級としてインド人に常に横柄に対応し、インドとインド人を無視し続けます。しかしインドの長い歴史と文化の持つ神秘性と重みは、圧倒的な力を持ちます。アデラが洞窟で聞いたこだまは、この歴史と文化の重みであり、彼女はそれに耐えられず逃げ出したのだろうと思います。イギリス人が来たばかりのアデラに、インドに関わるなと忠告したのは、このことだったのではないでしょうか。結局彼女は、イギリス人社会を裏切ってインド人を擁護し、さらに婚約を解消して帰国します。

 まったくの言葉足らずで、映画の内容を半分も話しきれていません。ただ、イギリス人がいかに力でインドを押さえつけようとも、悠久のインドの大地と精神にまったく太刀打ちできない様が描かれているように思います。それと同時に、人間が民族や文化の枠を超えて接しあうことの必要性を説いているように思います。
 何年かたって、アジズはアデラに手紙を書きます。「あなたの勇気がやっと分りました。

あなたのおかげで、私は子供達と幸せに暮しています。あなたに倣って、誰にも親切を心掛けます」と。

2015年3月18日水曜日

「スペイン黄金時代」を読む

著者:林屋永吉 小林一宏 佐々木孝 清水範男 大高保二郎
1992年 日本放送出版協会

スペイン史に関する本は、市民戦争以外では非常に少なく、あっても読みづらい本が多いのですが、本書はNHK文化講演の連続公演を本にしたものなので、大変読みやすい内容となっています。本書は、歴史・思想・文学・芸術という4つのテーマに分けて書かれています。











「歴史 近代スペインの誕生」では、まず「黄金時代」とは何時から何時までか、という問題が取り上げられます。諸説あるようですが、最も広く解釈すれば、1492年のコロンブスの大西洋横断から1648年のウェストファリア条約までということのようです。スペイン黄金時代の特色は、強力な貴族の力を抑えるため、教会を国家機構に取り込んだことにあるとされます。もう一つは、対抗宗教改革があります。スペインはキリスト教ヨーロッパへの復帰を願ってイスラーム教徒と戦い、ついにグラナダを陥落させたのに、まもなくヨーロッパで宗教改革が起き、ヨーロッパ・キリスト教は分裂してしまいました。スペインにとってプロテスタントは裏切り者であり、宗教改革は黄金時代のスペインの行動に決定的な影響を与えとのことです。
「思想 スペイン的「生」の思想」では、ウナムノやオルテガの思想を基に、「スペインとは何か」が問われています。スペインでは、19世紀の末以来「スペインとは何か」という問題が深刻に問われ続けてきましたが、著者は、スペイン的なものについて、「それらすべての姿勢が「黄金時代」に形成された、ある独特な「生」の捉え方に発している」と述べます。非常に複雑な内容なので詳細を省きますが、要するにスペイン的な「生」とは、本来スペインはキリスト教・イスラーム教・ユダヤ教の混血であるにも関わらず、黄金時代に純血主義に走ったことから生まれてきたものだ、ということのようです。
「文学 文学がおりなす錯綜の世界」では、この時代のスペインの文学は、「高邁さ」と「土臭さ」から成っており、セルバンテスの「ドン・キホーテ」は、それらを象徴的に統合する作品である、とします。

 「芸術 王家の芸術擁護」では、まずエスコリアルについて語られます。エスコリアルは、宮殿付修道院というべきもので、暗くて単調な建築物ですが、内部には千点を超える絵画が飾られており、これらの絵画が描かれた背景が説明されます。またその後のスペインの美術史の説明も、大変興味深いものでした。

2015年3月14日土曜日

映画で観る二人の尼僧

黒水仙

1947年にイギリスで制作された映画で、内容は分かりにくいのですが、非常に映像の美しい映画です。時代は20世紀の初め頃だと思われ、場所はインドのカルカッタにある聖マリア女子修道院から始まります。
ある時、ヒマラヤの山麓の領主からこの修道院に、学校と病院を建てたいので尼僧を送って欲しいという要請が届きました。そこで修道院は、26歳のシスター・クロードを院長として5人の尼僧を送ることにしました。赴任先の修道院は、周りをヒマラヤ山脈に囲まれた標高2400メートルの地にあり、壮大にして峻厳な美しさをもつ場所でした。そこには、一人の聖人が、一日中座って瞑想し、人々の尊敬を受けていました。さらにディーンというヨーロッパ人の男性が一人おり、領主との仲介役を果たしていました。何故彼がここで一人で暮らしているのか分かりませんが、「文明」の喧騒を逃れてきたのかもしれません。
 尼僧たちは、理想と使命感に支えられて、よく働きますが、まもなく彼女たちに変化が表れます。一人の尼僧は、このあまりに美しい自然の中で、信仰心が揺らぎ始めます。尼僧たちは野蛮な土地を「文明化」することを目標としていましたが、それが無意味に思われ、彼女はカルカッタに帰ることを願い出ます。そして院長のクロード自身にも変化が現れ、何故か捨てたはずの過去を思い出すようになります。かつて彼女は男に捨てられたため、そのプライドを守るために尼僧になったのですが、この大自然の中では、そのようなプライドは無意味に思われました。もう一人の尼僧ルースは、ただ一人のヨーロッパ人の男性に片思いをし、錯乱状態になって修道院を出ていきます。その結果、修道院の維持は困難となり、半年後に彼女たちはカルカッタへ帰って行きます。
 ところで、タイトルの「黒水仙」が何を意味するのか、よく分かりませんでした。もちろん黒水仙という植物は存在せず、これは香水のことだと思われます。黒水仙は、フランスのキャロンというブランドで発売されている香水で、正式名をナルシスノワールといい、日本では黒水仙という名で発売されています。ナルシスというのは、ギリシア神話で水鏡に写った自分自身を愛してしまった美少年のことで、自己愛を意味します。修道女たちは、現世から離れ、欲望を抑え、自分たちが絶対的に正しいと信じて生きています。こうした生き方も一種の自己愛ではないでしょうか。結局、この壮大な自然の中では、自分たちが絶対的に正しいとする自己愛は、脆くも崩れ去っていきました。官能的な香りのする黒水仙は、こうした欺瞞的な自己愛を象徴しているように思われます。
 ヨーロッパ人が異郷の地で奉仕活動を行う場合、彼らは決して現地の言葉を覚えず、ヨーロッパの言葉を教え、ヨーロッパの言葉で授業を行います。そしてそれが、「文明化」だと彼らは信じているのですが、この大自然と悠久に流れる時間の中では、このような自己陶酔的な態度は傲慢としか言いようがなく、彼らは敗北して去っていくしかなかったのだと思います。
 それにしても「黒水仙」の意味が、今一説明しきれていないように思います。ディーンに恋い焦がれるルースは、欲望を抑えられず、クロードとディーンが愛し合っていると勘違いして、阿修羅のごとき形相となって、クロードを殺そうとし、結局彼女は谷に落ちて死んでしまいます。黒水仙は、陶酔的な自己愛から官能の世界に身を任せた尼僧の姿を暗示しているのかもしれません。

 結局黒水仙の意味はよく分かりませんでしたが、大変美しく、心惹かれる映画ではありました。


尼僧物語

1959年に制作されたアメリカの映画で、ベルギーを舞台とし、時代は第二次世界大戦前後です。一人の女性がコンゴでの医療奉仕活動をしたいと願い、尼僧となってコンゴに行くのですが、祖国ベルギーがナチス・ドイツに占領されたため、修道院を出て反ナチスの地下活動を行うという物語で、実話に基づいているようです。
まず、修道院とは何かということについて考えてみたいと思います。修道院とはウイキペディアによれば、「キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設」です。戒律は修道会によって異なりますが、まず半年の志願期を経て、その後修練期間を過ぎて後、清貧・貞潔・服従の三つの誓いを立てて修道士となることが許されます。この映画でも、前半のほとんどが、この修行時代です。そして残りの人生を、沈黙と禁欲と服従の中で過ごします。もちろんこれは建て前で、長い修道院の歴史の過程では、修道院が巨大な富を蓄え、腐敗・堕落していた時期もありました。

もともと修道士は修道院から外へでることはなく、自給自足の生活を送っていましたが、16世紀にイエズス会が宣教活動を行うようになって以来、伝道・教育・医療活動などを積極的に行う修道会が生まれてきました。前の「黒水仙」の修道会も、この映画での修道会も、このような修道会でした。そして主人公のガブリエル(シスター・ルーク)は、なぜ修道女になることを望んだのかははっきりしませんが、尼僧となってベルギー領コンゴで奉仕活動を行うことを望んでいました。しかしこの様な動機は、修道女としては失格でした。コンゴへ行くことは結果であって、まず優れた修道女になることがすべての前提なのです。彼女は、この点で常に苦しみます。例えば、鐘が鳴ったらすべての仕事を中断してお祈りをあげなくてはいけないのですが、彼女はお祈りのために治療中の患者から離れることができませんでした。

ところで、彼女は何故コンゴでの活動を望んだのか、ということを考えてみたいと思います。19世紀後半に、スタンリーがコンゴ川流域を探検し、この地方の地理が明らかとなると、ベルギー国王レオポルト2世は、この広大な地域を私領とします。そして彼は悪名高い傭兵隊を組織し、現地人にゴムを採集させるようになります。このゴム採集は過酷を極め、採集したゴムが少ないと、罰として手首を切り落とし、切り落とされた手首が山積みされるという事態が発生しました。これによってレオポルト2世は巨万の富を蓄えたのです。やがてコンゴでの実情が知られるようになると、国際的な非難が高まり、その結果、1908年にコンゴ自由国の支配権はベルギー政府に移管され、ここにベルギー領コンゴが成立することになります。
ベルギー政府は、教会を中心に教育・医療の向上に努め、またコンゴは鉱物資源が豊かだったため、道路・鉄道・港湾の整備に努めました。これによってベルギーは多大の利益を得るとともに、ベルギー国内でも絶好の奉仕活動の場として注目されたわけです。ちょうどこの頃、フランスの植民地ガボンで、ドイツ人のシヴァイツァーがキリスト教精神に基づき伝道と医療活動を行っており、世界的にも有名になっていました。ただ彼の活動は、白人を兄、黒人を弟とするなど、白人優位主義に基づくもので、現地ではあまり評判がよくありません。この点においては、「黒水仙」も「尼僧物語」もまったく同じ前提に立っています。私は、彼らの献身を決して疑うものではありませんし、また白人優位主義は当時の風潮ではありましたが、それでも彼らの献身は傲慢と紙一重ではなかったかと思います。

話しが逸れましたが、その後色々あって、シスター・ルークはようやく憧れのコンゴへやってきます。彼女はここで献身的に働きますが、修道女としての絶対的な従順と自らの意志との葛藤に苦しみます。やがて彼女はベルギーに帰され、まもなく第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍がベルギーに侵入してきます。戦争中でも修道院は中立を保ち、地下運動に関わることは禁止されていましたが、ルークは見習い修道女が地下運動に関わっていることを知りながら見逃してやります。その後父がドイツ兵によって射殺されたことを知ると、彼女はドイツ人に対する憎しみを抑えきれなくなり、修道院を出ることを決意します。
修道院を出る前に、見習い修道女がルークにこっそりと地下組織の連絡先を教えてくれました。そして、彼女に欠けていたのは、この要領の良さでした。見習い修道女は規則に違反していましたが、それでも立派な修道女になることを望んでいました。これに対してルークは、少しでも従順に反すると、厳しく自らを罰して苦しみ続けましたが、それでは修道女は務まらないということです。結局苦しみ抜いた末に、彼女は従順より自らの意志を選んだわけです。

コンゴは、1960年に独立を宣言しますが、ベルギーが撤退を拒否したため、コンゴ動乱という混乱状態に陥ります。その後コンゴは長い間独裁政権の下に置かれますが、現在内乱状態にあります。結局、ルークたちがコンゴで行ったことは、何だったのでしょうか。



2015年3月10日火曜日

グリーンピースの花



















  長い冬の寒さを耐えて、ようやくグリーンピースに花が咲きました。昨年インゲマメを造った場所なので、連作障害があるのですが、落ち葉や枯草をすき込み、さらに連作障害防止剤をまいて、なんとかここまで成長しました。今年最初の収穫野菜となりそうです。その他に、ジャガイモを植え、ほうれん草とインゲンマメの種が蒔いてありますが、まだ芽も出てきていません。

2015年3月7日土曜日

映画で三人の女王を観る

クリスチナ女王

 1934年にアメリカで制作された映画で、17世紀におけるスウェーデン女王クリスティーナの半生を描いています。



















グスタフ2世アドルフ時代のスウェーデンの領土

スウェーデンはスカンディナヴィア半島のバルト海に面する国で、古くはヴァイキングが活躍した地域であり、ロシアに進出したのもスウェーデン系のヴァイキングです。スカンディナヴィア半島は農業的に貧しいため、ノルマン人は漁業やバルト海貿易で生計を立てることが多く、また地方勢力が自立していたため、戦争が絶えませんでした。14世紀終わり頃には、スウェーデンはデンマークに併合されてしまいましたが、16世紀に独立します。この頃からスウェーデンは、宗教改革でプロテスタントを受容するとともに、バルト海に進出し、ポーランド・デンマーク・ロシアと争うようになります。17世紀に入ってグスタフ2世アドルフが国王となると、積極的な侵略政策を推進し、ドイツでの三十年戦争にもプロテスタントとして介入し、彼は「北方の獅子」と呼ばれました。その結果バルト海はスウェーデンの海となり、今やスウェーデンはバルト帝国としてヨーロッパの大国となります。
ところが、1632年にグスタフは突然戦死してしまいます。38歳でした。その結果一人娘のクリスティーナがわずか6歳で即位することになります。彼女は幼少の頃から王子のように育てられ、男装し、騎馬を巧みとしました。また彼女は非常に知性豊かで、数か国語を操り、また暇を見ては読書に耽りました。彼女は1644年ころに18歳で親政を開始します。当時三十年戦争が終わりに近づいていましたが、父がスウェーデンをヨーロッパの強国にしようとしたのに対し、彼女は平和を望み、プロテスタントとカトリックとの宗教対立を終わらせたいと考えていたようです。そのため彼女は、ウェストファリア条約を締結して戦争を終わらせます。しかし1654年に彼女は突然退位し、王位を従兄に譲り、自らはスウェーデンを離れてヨーロッパに旅立ちます。
映画では、彼女が結婚しようとしないため、世継ぎがいないことへの不安の声が高まっている中で、彼女はたまたまスウェーデンを訪問していたスペインの特使と恋に陥り、愛のために王座を捨てて彼とともにスペインへ行こうとした、ということになっています。結局、出発の直前に恋人が決闘で殺され、彼女は一人でスウェーデンを去って行きます。この話は多分創作だと思われますが、映画そのものは面白く観ることができました。しかし、実はクリスティーナの人生はここから始まります。この後、彼女はまだ30年以上生きますが、その間彼女は隠遁生活を送っていたわけではありません。
 彼女は在位中から文芸に強い関心を示していました。三十年戦争が終わる直前にプラハを攻撃し、皇帝の美術品を大量に強奪し、さらに金に糸目を付けず美術品を買いあさりました。またデカルトを呼び寄せ、真冬の朝5時から暖房のない居間で講義をさせ、そのためデカルトは風をこじらせて、まもなく死亡します。スウェーデンを去る時も、彼女は集めた美術品をすべて持ち出し、1年程ヨーロッパ各地を旅した後に、父がプロテスタントのために戦って戦死したにもかかわらず、彼女はローマでカトリックに改宗し、そこを永住の地とします。ローマの邸宅にも多くの学者や芸術家を集め、学校を建て、オペラハウスまで建てました。
 彼女が王座を捨てて国を去った理由は、何だったのでしょうか。当初彼女はスウェーデンを文化の国にしたかったようです。美術品を集め、学者を集め、ストックホルムを「北方のアテネ」にしたかったようです。しかし現実には、スウェーデンにはまだヴァイキングの気風が残っており、宮廷では戦争の話ばかりです。また自由主義的な思想を持った彼女には、プロテスタントを絶対とする国是とは相容れませんでした。ヴォルテールは彼女について、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである」と述べています。そして彼女は、当時最も芸術の栄えたローマに向かったのだと思います。また、彼女がカトリックに改宗したのも、カトリックに心酔したというより、自由主義者だった彼女はカトリックにもプロテスタントにも関心がなかったからではないかと思われます。
 彼女はローマで30年以上優雅な生活を送ります。とはいえ、もともと服装には頓着せず、質素で装身具も付けませんでしたが、出費を惜しまず美術品・書籍を蒐集し、また各分野の学者・文化人・芸能人とも深く関わり、彼らのパトロンともなっています。こうした生活を賄うための費用は、スウェーデンにある彼女の資産から出費されましたが、結局それはスウェーデンからの持ち出しということになります。スウェーデン人にとっては、クリスティーナはプロテスタントを捨てた裏切り者であり、自由気ままに贅沢をして生きた女性であり、あまり評判がよくありませんが、彼女の30年以上に及ぶ余生は、常にヨーロッパ中で話題に種となっていました。彼女の遺体はバチカンに埋葬され、ミケランジェロの「ピエタ」の側に彼女の記念碑が建っているそうです。

 彼女の死後のスウェーデンでは、「北方のアレクサンドロス」と言われたカール12世がロシアと戦って敗れ、大国としての地位を失います。そして、その後のスウェーデンは、長い年月をかけて、クリスティーナが望んだ平和国家への道を歩んでいくことになります。



女帝キャサリン

1997年にドイツで制作された映画で、18世紀後半のロシアの女帝エカチェリーナ2世の生涯を描いた映画です。「キャサリン」というのは「エカチェリーナ」の英語読みで、彼女はドイツ生まれなので、ドイツ語では「カテリーン」と読みます。なお、ジャケットに「私に、溺れなさい」という意味ありげな言葉が書いてあり、しかもツタヤではこの映画はエロティック・サスペンスに分類されているため、わいせつな映画を連想させますが、ちゃんとした歴史映画です。でも、少しベッドシーンが多すぎるような気がします。やはり多少そちらの気がある映画かもしれません。
ロシアでは、ピョートル大帝の時代に大国としての基礎が築かれますが、その後ロマノフ家の男系が断絶してしまい、女帝が続きます。一度生後2か月のイヴァン6世が即位しますが、ピョートル大帝の嫡流エリザヴェータ(英語名エリザベス)がクーデタをおこして即位します。さらに彼女にも子がなかったため、ドイツで生まれ育った甥のピョートル(英語名ピーター)を後継者として迎え入れ、さらにその妃として、1744年に、当時14歳のドイツの小貴族の娘ゾフィーが迎え入れられました。これが後のエカチェリーナ2世です。
 ゾフィーはフランス語に堪能で、知性と教養に溢れ、乗馬も巧みでしたが、音楽だけは苦手でした。彼女は新教徒でしたが、ロシアに着くとギリシア正教に改宗し、ロシア語を猛練習しました。一方ピョートルは、愚鈍で、知能が少し劣っているのではないかとも言われていました。彼はギリシア正教に改宗することを拒み、ロシア語も勉強せず、ロシアの敵プロイセンのフリードリヒ2世を崇拝していました。彼が唯一得意としたのは、音楽だけでした。また彼は性的能力に問題があり、結婚して7年間もの間妻との関係がありませんでした。エリザヴェータは、後継者が生まれないことを心配し、エカチェリーナに他の男性との関係をもたせ、その結果エカチェリーナは子供を出産します。つまりエカチェリーナは夫との性的関係のないまま、後継者を生んだのです。さらにその後二人子供を出産します。
 1762年にエリザヴェータが死去すると、夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后となります。当時ロシアはプロイセンと戦っていましたが、ロシアは勝利目前だったにもかかわらず、フリードリヒ2世の崇拝者だったピョートルは軍隊を撤退させ、さらにギリシア正教会の領地を没収します。その結果ピョートルに対する反発が高まり、エカチェリーナ女帝への待望論が高まります。時は熟しました。この年、彼女は近衛軍とギリシア正教会の支持を得てクーデタを起こし、夫を捕らえ、女帝として即位しました。エカチェリーナ2世の誕生です。33歳の時でした。彼女はロマノフ家の血をまったく引いておらず、しかもロシア人ですらありませんでした。映画では、クーデタの過程が詳細に描き出されますが、彼女の行動は実に果敢でした。
 エカチェリーナ2世は啓蒙思想の影響を強く受けており、彼女の願いはロシアを中世社会から抜け出させ、近代化することでした。彼女は様々な改革を行い、トルコと戦って領土を広げ、ポーランド分割にも参加し、ウクライナも領土とします。そして、彼女が最終的な目標としたのは農奴解放でしたが、貴族の力があまりに強力で、結局果たせませんでした。逆にヴォルガ川流域のドン・コサックがプガチョフを指導者として反乱を起こしたため、これを徹底的に弾圧しました。善きにつけ悪しきにつけ、彼女は理想と現実とのバランスを維持することが巧みであり、たとえこの時代に彼女が理想に走って農奴解放を強行したとしても、成功しなかったでしょう。それ程、当時のロシアの社会は未熟だったのです。

 エカチェリーナ2世の男女関係の派手さはつとに有名で、多くの男性を寝室に連れ込みました。「英雄色を好む」というのは、女性についてもいえるようです。ただ、彼女もまた男女関係によって政治的判断を左右されることはなかったようです。彼女が最後に心から愛したとされるポチュムキン将軍は、トルコとの戦いで大きな功績をあげた人物ですが、映画では彼がプガチョフの処刑を思いとどまるよう強く要求しますが、彼女は拒否し、ポチュムキンは彼女から去っていく、という場面が描かれています。ポチュムキンは、ロシアが黒海に進出することを可能にした人物で、後に黒海艦隊に彼の名に因んだポチュムキン号という戦艦が造られます。このポチュムキン号は、1905年にこの船の水兵が反乱を起こして、ロシア第1次革命のきっかけとなった戦艦です。


 なお、エカチェリーナ2世に謁見した日本人がいます。伊勢国の廻船の船頭だった大黒屋光太夫で、彼については井上靖の小説をもとにした「おろしや国酔夢譚」という映画があります。1782年に光太夫は紀州から江戸へ向かいましたが、途中嵐に合い、7か月ほど漂流した後アリューシャン列島に漂着します。ここで毛皮を獲りに来ていたロシア人と出会い、彼らとカムチャッカ半島を経てイルクーツクに至ります。ここで博物学者のラクスマンと出会い、彼の勧めでペテルブルクに向かい、エカチェリーナ2世に謁見して帰国の許可をもらいます。ロシアとしては、漂流民を送り届けることを口実に日本と国交を開きたかったため、先のラクスマンの息子を遣日使節として派遣します。結局日本は光太夫たちを受け取って、ラクスマンたちを追い返し、国交はなりませんでした。それにしても帰国までに10年の歳月を要し、出港した時の17名の乗組員の内、帰国できたのは3名でした。艱難辛苦の10年でした。その後光太夫は江戸小石川に住居をもらい、余生を軟禁状態で過ごすことになります。




















ヴィクトリア女王 世紀の愛

2009年のイギリスとアメリカの合作映画で、19世紀のイギリスの女王ヴィクトリアの若い時代を描いており、原題は「The Young Victoria」です。
ヴィクトリア女王は、1837年に18歳で即位し、1901年に81歳で死亡するまで、63年間も在位します。そして彼女の在位期間は、大英帝国の繁栄の頂点の時期とほぼ一致するため、この時代はヴィクトリアの黄金時代とか、ヴィクトリア朝などとも呼ばれます。彼女が生まれた時には、彼女は王位継承候補の順位としては5番目でしたが、成長する過程で後継者候補が死亡したりして、結局彼女が第一の継承者候補として残りました。しかも、彼女が成人した年に王が死亡したことは、イギリスにとっても幸運でした。未成年で即位すると、近親者が摂政となって政治を独占し、宮廷が混乱するからです。また彼女は未熟で、政治についてほとんど分かりませんでしたので、議会と議会が選んだ首相が実権を持つようになります。彼女が即位した頃には、まだ国王がかなりの権力を持っていましたが、彼女の晩年には王権は弱体化し、議会を基盤とする政治が確立していくことになります。
映画は、ヴィクトリアが即位する1年前から始まります。未来の女王に対する周辺の様々な思惑が交錯し、即位後も彼女をコントロールしようとする様々な動きがありました。そうした動きの一つとして、叔父であるベルギー国王が、花婿候補としてドイツの貴族を送ってきました。アルバートです。そしてヴィクトリアはアルバートに一目ぼれし、彼女の方から求婚し、1840年に結婚します。アルバートは教養があり、非常に有能でした。それに対してヴィクトリアは感情に左右されやすく、反論されるとヒステリックになる傾向があり、彼は彼女の扱いに苦労しますが、それでも彼は誠実に対応し、最初の子が生まれたところで、映画は終わります。
しかし、女王としての彼女の人生は、始まったばかりです。彼女は20年の間に9人の子を産み、政務はほとんど夫にまかせていましたが、彼は1861年に42歳の若さで他界します。彼女の悲しみは深く、その後10年以上喪に服し、ほとんど政務を行わなくなります。その結果国王の力はますます失われていきます。しかし1870年代に入ると、彼女は徐々に政務に復帰し、特にディズレイリの帝国主義政策を支持します。その結果イギリスの領土は全世界に広がり、ここに大英帝国が成立します。大英帝国には多様な民族・宗教集団が含まれ、全体としての統一性はありませんでしたが、植民地の人々を「女王陛下の臣民」として結び付け、ヴィクトリア女王が統合の象徴の役割を果たすことになります。
 さらに、ヴィクトリア女王の子供や孫たちはヨーロッパの王侯と血縁関係を結び、それがイギリスの外交政策に大きな役割を果たします。彼女の晩年には、ヨーロッパ各地に40人の孫、37人の曾孫がいたそうで、彼女は「ヨーロッパの祖母」とまで言われました。ただ、彼女かアルバートのどちらかが血友病の因子を持っていたようで、彼らの子孫を通じてヨーロッパ各地の王侯に血友病が伝えられることになります。血友病は遺伝病で、一般には女子は発症しにくく、男子に発症しやすいようです。最も有名な例は、孫のアレクサンドラがロシア皇帝ニコライ2世に嫁ぎ、彼女が生んだ唯一の男子が血友病だったということで、このことがロシア革命の遠因となりました。善きにつけ悪しきにつけ、ヴィクトリアは後世に様々な影響を残した分けです。

この映画の発案者はイギリス王室に属する人物だったので、かなりヴィクトリア女王を美化しているように思います。彼女自身はそれ程優れた統治者とは言えないようで、むしろ議会から排出された有能な人材に助けられたというべきだと思います。つまり、今や国王が政治をリードする時代は終わりつつあったのです。ヴィクトリア女王の最大の功績は、結果的に王権を弱体化させたことにあるのかもしれません。


 ここで述べた三人の女王は、それぞれ直接の関係はありません。クリスティナ女王は突然王位を捨て、エカチェリーナ2世は力で王位を奪い、ヴィクトリア女王は63年間も王座にありました。そして三人とも、それぞれの国において、それぞれの時代に重要な役割を果たしました。


2015年3月4日水曜日

「マゼランが来た」を読む

本多勝一著 1989年 朝日新聞社
 本書は、マゼランが実際に通った航路を追跡し、彼が行く先々で何を残したかを、たくさんの写真を用いて説明しています。結論から言えば、彼が残したものは、虐殺でした。
 マゼラン一行がセブ島で行った傍若無人な行為に対し、セブ島の近くのマクタン島のラプラプ王がマゼラン軍を破り、そこでマゼランは死亡します。そしてこの島では、今でも先勝記念日に、この戦いの模擬戦争が行われているそうです。マゼランのフィリピン到達を現地人の視点から見たのは初めてで、大変興味深い内容でした。本書はここから始まって、一旦出発点のリオデジャネイロに戻り、ここからアルゼンチンの沿岸を南下し、マゼラン海峡を通過してチリ沿岸を北上し、太平洋を横断する航路を辿ります。
 南アメリカの南部について、私はほとんど知りませんでしたが、ヨーロッパ人によって絶滅させられた多くの先住民がいたようです。アルゼンチンのパタゴニアに住むチェルチェ族は平均身長の高い民族で、さらに熱い毛皮の靴を履いていたため足が一層大きく見え、パタゴン(大きな足の人)の国、つまりパタゴニアと名付けられたそうです。彼らはマゼランたちを温かく迎えましたが、マゼランは彼らをだまして二人の先住民を捕らえ、スペイン国王の土産にしたそうです。ただし彼らは、航海の途中で壊血病で死にました。そして他の先住民たちは、マゼランの後から来たヨーロッパ人たちにより絶滅されました。

 このように、行く先々で出会った様々な民族を、マゼランやそれに続く人々はキリスト教と文明の名において滅ぼしていきます。ある先住民が、我々より「大きな野蛮人」が我々野蛮人を滅ぼした、と言ったそうです。