2014年12月23日火曜日

映画で中国―清朝を観て

中国の清朝に関する映画(連続テレビドラマ)4本観ました。清の創生期を扱った「大清風雲」と以下三人の皇帝を扱った「康熙王朝」「雍正王朝」「乾隆王朝」です。つまり、このブログの「映画で中国史を観る」
(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4967.html)の続編ということになります。比較的面白かったのは「大清風雲」で、あとの3本はあまり出来のよい映画ではありませんでした。その他に明の滅亡を描いた「江山風雨情」という連続テレビドラマがあるようで、是非観たいと思ったのですが、残念ながら手に入りませんでした。

満州(中国東北部)



















清朝は、1616年に満州(中国東北部)で建国され、1644年に明を滅ぼし、やがて全中国を征服し、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代130年間に、中国史上稀にみる繁栄の時代を築きます。清を建国した女真人は、中国東北部で半農半牧の生活をし、古くからしばしば中国の歴史に関与してきましたが、明代には明による離間策もあって、女真人は多くの勢力に分立し、互いに武力抗争を繰り返していました。その中から建州女直のヌルハチが台頭し、この頃からヌルハチは自らの勢力を満州と呼ぶようになります。1616年にヌルハチはハンに即位し、国名を後金とします。ヌルハチは1618年に明との戦いで大勝しますが、1626年の戦いで大敗し、その数日後に死にます。



山海関
ウイキペディア













ヌルハチの後を継いだホンタイジは、1636年に国号を大清とし、皇帝に即位します。ヌルハチの戦いは明からの自立を目指したもので、明を征服しようとするものではありませんでしたが、ホンタイジは明らかに、明に代わる中華王朝の建設を目指していました。彼は明への侵攻を目指しますが、明との境界にある要塞山海関の守りを堅固であり、1643年に志半ばで急死しました。なお、山海関は長城の東の端にあり、そこから長城が海に突き出て終わっています。


大清風雲


 2005年に制作された大河ドラマで、全42回からなります。このドラマは、ホンタイジの妃である荘妃(大玉児)を主人公とします。彼女は、ホンタイジ、順治帝、康熙帝の三代の皇帝に仕え、清の繁栄の基礎を築いた女性とされます。その点で、このブログの「映画で中国史を観る 北魏馮太后(ふうたいこう)
 ドラマではもう一人重要な人物が登場します。ヌルハチの第14子、ホンタイジの弟ドルゴンです。彼は兄のホンタイジより19歳若く、この頃まだ二十歳代半ばでした。彼は、軍事的にも政治的にも有能で、信望の厚い人物でした。ドラマでは、彼は荘妃とは少年時代からの恋仲でしたが、ホンタイジに彼女をとられてしまいます。ホンタイジの死後二人は結婚しますが、これはレビラト婚といい、遊牧社会にはよくあることです(映画で観る中国の四人の女性 王昭君http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.htmlを参照して下さい)が、儒学では姦淫に当たります。ただし、この話は史実とはいえないようです。
 ホンタイジは後継者を指名せず死んだため、彼の弟のドルゴンとホンタイジの長子との間で後継者をめぐって対立が起きました。しかし中国征服の目前で内乱が起きれば、今までの努力は水の泡です。そして、ここで奇策が飛び出しました。つまり二人とも皇位継承争いから身を引いて、晩年のホンタイジが最も寵愛した荘妃の子を後継者にするということでした。ここに第三代皇帝順治帝が誕生することになりますが、彼はまだ6歳でしたので、14歳になるまでドルゴンが摂政王として後見するということになりました。

当時の明は、腐敗堕落して民衆は苦しみ、大規模な農民反乱が起きていました。明朝最後の皇帝崇禎帝は教養があり、改革の意欲に燃えていましたが、もはや手遅れでした。1644年に反乱軍は北京を陥落し、崇禎帝が自殺します。その結果清は、中国を征服するための絶好の大義名分を得ます。つまり、今や清は、殺された崇禎帝を弔問し、反乱を鎮圧し、秩序を再建して民に平安をもたらし、中華の伝統を復活するという大義名分を得たわけです。中国は、過去に何度も異民族の支配を受けており、そうした経験を通じて、中国では支配者の民族が何であれ、中華の伝統を守るならば正統である、という考えが形成されてきました。そのため、清軍は比較的平穏に紫禁城に入城し、民衆からも歓迎されました。
 とはいえ、清はまだ中国全土を統一した分けではなく、各地にさまざまな反抗勢力が存在していました。また宮廷内部にもさまざまな対立が存在しました。漢人と満人との対立、ドルゴンと順治帝の対立などです。とくに順治帝は威圧的なドルゴンを憎んでいました。こうした中で、清では女性が政治に介入することは禁じられていましたが、ドラマでは荘妃がさまざまな対立を仲裁するために腐心します。ドラマは、宮廷内の権力闘争、ドルゴンと荘妃との愛などを中心に展開されます。こうした話には私は興味がないのですが、辮髪(べんばつ)令の発布前後の話は、大変興味深く観ました。

 辮髪とは、主にモンゴル周辺の男性の髪型で、頭髪の一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らすもので、兜を被った時に頭が蒸れるのを避けるためだそうです。日本の武士が月代(さかやき)を剃るのも、同じ理由だそうです。そして清は中国を征服すると、中国のすべての男性に辮髪を強制します。それは違反した場合には斬首という厳しい命令でした。このため当時、「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」と言われました。このようなつまらない風俗を強制するとは、何という悪政かと思いますが、清には清の事情がありました。
清は、漢人官僚を多く登用し、漢人・満人の差別なく統治し、漢文化を受け入れ、中華思想も受け入れました。しかし、ここまで中国文明を尊重すると、満人は人口において漢人より圧倒的に少数派であるため、中国に同化されてしまう可能性があります。また、実際には清が北京に入城すると、多くの漢人が進んで辮髪を行い、清への服従の意志を示しますが、そうなると逆に辮髪をしない者には反清の意志があるのではないか、という疑念が生まれます。つまり、清が満人の王朝であることを明確にするために、一見どうでもよいような満人の風俗を強制する必要があったようです。
 一方、漢人にとっては、たとえ髪の毛といえども体の一部を損なうことは、祖先への冒涜と見做されます。したがって、たとえ斬首されても辮髪を拒否した人も多く、辮髪の強行にあたっては相当の混乱がありました。しかし、結局ほとんどの人々が辮髪を受け入れ、辮髪は清人の風俗として定着していきます。20世紀初頭に清朝が滅亡した後、多くの人が辮髪をきるようになりますが、辮髪を切るくらいなら死んだ方がましだとして、辮髪を守った人も沢山いましたので、辮髪は清人のアイデンティティの証しとしてしっかりと定着していたわけです。

 順治帝は、14歳になったら親政を開始する約束になっていました。問題は、その時ドルゴンが政権を手放すかどうかだったのですが、1650年、順治帝が13歳の時にドルゴンは狩りの途中で死亡します。46歳でした。まさに、暗殺されたのではないかと疑いたくなるような、絶妙のタイミングでした。もしドルゴンが生きていれば、内乱に発展し、その後の清の繁栄はなかったかもしれません。ところが、ドラマでは、順治帝が17歳のときにドルゴンがまだ生きており、両者が決定的に対立した時、荘妃が仲裁し、二人は和解し、その直後にドルゴンが死亡して、ドラマは終わります。しかし、実際には順治帝は、ドルゴンの死後彼の爵位を剥奪し、墓を暴いて斬首に処したとのことですから、ドラマのようなハッピー・エンドは信じられません。
 このドラマは、荘妃とドルゴンとの愛をテーマにしているように思います。実際に二人がそのような関係だったかどうか分かりませんが、ドラマではドルゴンが荘妃への愛のために皇帝になることを諦めたことになっています。確かにドルゴンはきわめて有能で、清による中国支配の基盤は彼によって確立され、その気になれば皇帝になることも可能だったかもしれません。しかし、その前に彼は不慮の事故で死んでしまいました。
 順治帝は、幼少の時から漢人たちの間で育ったため、漢文化への理解があり、実際彼は相当の読書家だったようです。彼は「民のための政治」を目指す理想主義者で、つぎつぎと大胆な改革を行い、各地で起きる反乱も鎮圧しました。もちろんそこには母である荘妃の助力があったと思われますが、清朝では女性が政治の表舞台に立つことは許されていません。唯一の例外は清朝末期の西太后ですが、彼女もまた簾の背後に隠れての睡蓮政治でした。清朝では、その創成期と終末期に、女性が大きな役割を果たしたわけです。西太后については、このブログ「映画で観る中国の四人の女性」 

を参照して下さい。


ところで、清が中国を征服したのは1644年、この頃日本では江戸幕府が成立していましたが、寛永の飢饉などがあってまだ安定していませんでした。また当時、ヨーロッパでは混乱が続き、この時代は一般に「17世紀 危機の時代」といわれています。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第18章危機の17世紀」

http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/1817.html)を参照して下さい。清が安定するには17世紀末まで待たねばなりません。





康熙王朝


2001年の大河ドラマで、全40回からなります。清朝全盛期を築いた康熙帝の一生を描いたテレビドラマで、中国では非常に視聴率が高かったそうですが、私にはそれほど引きつけられるような場面はなく、概ね想定内の内容でした。ただ、大国への道を歩き始めた当時の中国の人々は、まさに大国清朝を築き上げた康熙帝に共感を抱いたのではないでしょう。
先に述べた順治帝は、1661年に24歳の若さで天然痘のため死んでしまいます。ところが、「順治帝は生きている」という俗説があり、このドラマはこの俗説に基づいて作られています。ドラマによれば、順治帝は急進的な改革が行き詰まり、政治に嫌気がさし、仏教と一人の愛妃にのめり込みます。ところがその愛妃が天然痘で死亡してしまったので、絶望した順治帝は退位して僧侶になってしまいます。ここで再び荘妃が登場してきます。彼女は、順治帝が天然痘で死亡したことにして、順治帝の第3子を康熙帝として即位させます。彼は当時まだ8歳でした。もちろん順治帝は6歳で即位しますが、彼の場合ドルゴンという絶対的な実力者がいたのに対し、康熙帝はほとんど一人で重荷を背負うことになり、以後61年間という最長不倒の在位期間を記録します。
康熙帝は16歳から親政を開始することになっており、その間8年、大臣たちは康熙帝を思いのままに操ろうとします。この8年間は、康熙帝にとって忍耐の時代でした。1669年、彼は周到な準備をして宮中クーデタを起こし、奸臣たちを排除して、15歳で親政を開始します。ドラマは、この親政に至るまでの時期、三藩の乱、鄭氏台湾の討伐、モンゴルでの戦い、そしてその後の宮廷の権力闘争や皇位継承争いといった順で展開されていきます。
清が中国を征服するに当たって清に協力した呉三桂らの漢人がおり、彼らは南方地方で藩王として特別な地位が与えられました。しかし藩王たちはしだいに自立化し、これを抑えようとする朝廷と対立し、1673年に三藩の乱が起きます。康熙帝が親政を開始してから、まだ4年目のことでした。一方、明の復興を目指す鄭成功が台湾に依拠し、三藩の乱に呼応して中国南部の沿岸部を荒らしまわります。その結果、一時は長江以南のすべてを奪われるなど、清朝は滅亡の危機にまで追い詰められました。しかし康熙帝は不屈の精神を見せて、8年の歳月をかけて、1681年に反乱を鎮圧します。
次は鄭氏台湾の問題です。以前には、台湾は中国にとってあまり関心のない地域でしたが、海上貿易が発展すると、台湾が重要な意味をもつようになります。特に鄭氏台湾は、中国南部の沿岸地帯との密貿易で富を蓄え、中国の海上貿易を妨害していました。そこで清は、遷界令を発し、南部の沿岸地帯の住民をすべて内陸部に移動させ、鄭氏台湾の密貿易を封鎖しようとします。しかしこれは大変な事業で、移住する住民には新たな土地を与え、金も与えたのですが、それらの土地も金も役人が横領し、移住者の手にはほとんど渡りませんでした。しかも、もともと中国には海軍と呼べるようなものは存在せず、海軍の創設から始めねばなりませんでした。しかし、これも康熙帝は不屈の精神でやりとげ、三藩の乱鎮圧の2年後の1683年に台湾を中国の領土に加えます。
当時モンゴルで不穏な動きが生まれつつありました。ジュンガルのガルダン・ハンは、チベットやロシアの動きとも連動して、モンゴルで強大な勢力となっていました。そこで、1690年と1696年に康熙帝は自らモンゴルに親征しでガルダン軍を破り、モンゴル全土を制圧します。ここに中国は、かつてない広大な領土を支配することになり、その大部分が今日の中国に受け継がれています。この間、ロシアとの間でネルチンスク条約が締結されますが、ほんの一言述べられただけで終わりました。当時の中国にとって、ネルチンスク条約などは大した問題ではなかったのでしょう。
 この間にも荘妃はしばしば登場します。彼女はほとんど政治に介入しませんでしたが、康熙帝が危機に陥った時、彼の窮地を何度か救いました。そして1688年に死去しました。享年75歳でした。この間にも、朝廷での権力闘争、皇妃間の争い、後継者を巡る争いが起きます。康熙帝は早くから第2皇子を皇太子と定めていましたが、彼には品行上問題があったため廃位され、以後皇太子はおきませんでした。後継者の問題は大変厄介で、皇帝が早逝した場合に備えて早めに皇太子を建てておくと、周囲の人々が彼にいいより、甘やかされて育つ危険性があります。逆に皇太子を決めないと、皇子間で血みどろの闘争が展開されます。そして、独裁君主は一般に後継者を決めるのを嫌う傾向があります。なぜかというと、側近が後継者に向かい、自分の権力が空洞化するからです。
 話が変わりますが、アメリカの大統領にはもともと再選規定がなかったのですが、F.ローズヴェルト大統領が4期務めたことがあり、その後憲法が修正されて2期までとなりました。ところが、2期目の後半になると、側近は次期大統領候補か再就職の方に向かってしまい、いわゆるレームダック=権力の空洞化が起き、政権運営が非常に難しくなります。いつの時代でも、権力の継承の問題は、なかなか難しいようです。
 内政面でも、康熙帝は自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用とし、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らしたとされ、さらに度々減税をおこないました。文化的にも、「康熙字典」や「古今図書集成」の編纂なども行います。「康熙字典」には、全42巻に5万字近くが収録され、「古今図書集成」は1万巻に及ぶ百科事典です。さらに宣教師を通じてヨーロッパの文化を積極的に導入しました。ただ、これらの点についてはドラマではほとんど触れられていないのが残念です。


 1721年に在位60年を祝って盛大な宴会が催されました。この60年の間に数えきれない程の人が彼の前に現れ、そして消えていきました。彼は多くの人々から祝福され、賞賛されましたが、独裁者の常として孤独でした。そして翌1722年末に、69歳で死去しました。あらゆるものとの戦いの連続の生涯でした。

雍正王朝


 1999年に制作されたテレビドラマで、全44回からなります。ここにあげた4本の映画の中では、これが最初のものとなります。このドラマも、前の「康熙王朝」同様に、中国で高い視聴率を得たそうです。「康熙王朝」が対外関係を中心に描かれたのに対し、「雍正王朝」は内政問題をじっくりと描いており、私にはこちらの方に関心があるのですが、内容がかなり濃密で、飛ばして観ると話が分からなくなってしまいます。
 雍正帝は、康熙17(1678)に第4皇子として生まれ、胤禛(いんしん)と名付けられます。そしてドラマは、康熙46(1707)の黄河の氾濫から始まります。胤禛は皇帝の命で避難民の救済事業を見事にやり遂げ、その手腕を評価されます。そこで次の仕事を命じられますが、これはかなり厄介な仕事でした。当時国庫は空で、救済事業に充てる金もありませんでした。理由は二つあります。一つは、官僚は免税特権をもっているため、農民の土地を買いあさり、しかも税を支払う必要がなく、これが税収入の減少の原因となっていました。もう一つは、官僚が国庫から借金をし、これを返済しないということでした。そして胤禛に与えられた役目は、この借金を回収することです。この役割にも、胤禛は辣腕を発揮しますが、同時に多方面から怨みを買いました。
 ところで、中国の官僚は地位がかなり高くても、俸給は家族が生活するのにやっとという程度の金額でした。そのため多くの官僚は賄賂を受け取ったり、荘園を所有して収入の足しにしており、それらは度を超さなければ大目に見られていました。というより、そうしたことを前提とした俸給体系だったといえるかもしれません。今日の中国の官僚の腐敗は、こうした伝統を背景にしているように思われます。この「雍正王朝」と次の「乾隆王朝」は、官僚の腐敗に関する話が多く、現在の官僚腐敗に対する批判が込められているように思います。

 この年、皇太子はその不行跡により廃位され、新しい皇太子を選ぶことになったのですが、これを巡って兄弟間の激しい闘争が展開されます。これ以降第20回までは、後継者を巡る闘争が描かれます。この間に、胤禛の幼い息子弘暦が康熙帝の寵愛を受け、康熙帝が自ら手元において教育します。この弘暦が後の乾隆帝であり、まさに彼は康熙帝から直接帝王学を学んだわけです。結局、康熙帝は皇太子を選ぶことを避けたため、皇子たちは疑心暗鬼に陥り、ライバルの蹴落としに躍起となります。康熙帝には皇子が36人いたとされ、その内9人が後継者の地位を求めて15年にわたって争ったわけですから、相当陰険な争いが展開されました。そして1722年、結局康熙帝は死の直前に胤禛を後継者として指名しますが、この遺書は胤禛の捏造ではないかという噂が残りました。その時雍正帝はすでに45歳となっていました。
 康熙・雍正・乾隆の三代130余年間は、清朝の全盛期とされますが、その内康熙帝が61年間、乾隆帝が60年間ですので、雍正帝の在位期間は13年間です。即位後の雍正帝は、皇位を狙う兄弟たちから嫌がらせを受け、さらに各地で不正事件がおき、苦境に立たされますが、徐々に腹心の部下を養成し、改革事業を推進していきます。
 雍正帝は極めて勤勉な皇帝で、毎晩夜遅くまで働き、一日の睡眠時間は4時間程度だったそうです。また質素倹約に努め、さらに重要事項を決定する軍機処を設置しますが、小さな部屋の入口に「軍機処」という看板があるだけで、皇帝を含めて6人が椅子を並べて座って協議するというものでした。緊急を要する重要案件を朝議で協議していると、なかなか決まらないため、こうした制度を設けた分けです。そして雍正帝の時代に軍機処を通じて独裁的な支配体制が形成されていきます。
 彼の13年の治世において、康熙帝のような華々しい業績はありませんが、後世に重要な役割を果たす税制改革が行われました。当時の税制は地税と人頭税からなっており、多くの農民が地主の支配下に入ってしまったため、地税を徴することが困難となっていました。そこで、原則として人頭税を廃止し、地主から地税を徴収するという地丁銀制を実施します。これには地主から猛烈な反対がありましたが、結果的に農民には減税となり、税収は大幅に増えることになりました。
 一方、雍正帝は密告政治を行い、厳しい思想弾圧も行っています。このドラマでは、この点についてほとんど触れていませんが、この点が雍正帝に暗いイメージを与えてきたのも事実でした。ドラマにおける雍正帝は、ひたすら大清と民のために骨身を削って働き、反対勢力と激しく戦いながら、しだいに痩せ細っていきます。そして1735年に雍正帝は58歳で死亡します。いわば過労死でした。

雍正帝は、在位期間が短かったこともあって、康熙帝と乾隆帝の間の皇帝というイメージしかなく、本人が寡黙だったこともあり、暗いイメージで捕らえられることが多いようです。康熙帝は、大局を捕らえ、要所を抑えるといった政治手法を用いましたが、その結果細部で大きな矛盾が生まれていました。逆に雍正帝は、あらゆる問題に介入し、細部の矛盾点を矯正する役割を果たし、それを乾隆帝に引き渡しました。どのような独裁権力も、さまざまな勢力や利害のバランスの上に成立しており、康熙帝はこうしたバランスをとることが巧みでした。康熙帝はこのようなバランスの間に歪が生じていることを感じていましたが、この問題については放置し、問題の解決を雍正帝に委ねたわけです。そして雍正帝の改革は、このバランスを破壊することになりましたので、猛烈な反発を受けたわけです。そして国家に一定の方向性を与えて、それを乾隆帝に譲り、乾隆帝のもとで大輪の花を咲かせることになります。


乾隆王朝
2003年に制作された大河ドラマで、全40回からなります。乾隆帝は、1735年に24歳で即位し、1796年に在位60年を期して退位します。そのまま在位を続ければ、康熙帝の在位期間である61年間を抜く可能性があるため、その前に嘉慶帝に譲位しました。そしてその3年後の1799年に88歳で死亡します。乾隆帝の時代は清王朝だけではなく、中国史上でも最も栄えた時代といえると思いますが、同時に晩年には多くの矛盾が表面化してきた時代でもあります。日本でも、ほぼ享保の改革から寛政の改革の時期にあたり、比較的安定した時代であるとともに、矛盾もまた表面化しつつあった時代でした。
この時代の世界を俯瞰すると、インドではムガル帝国が衰退し、イスラーム世界でもサファヴィー朝ペルシアやオスマン帝国が衰退に向かっており、中国のみが空前の繁栄を享受していました。ヨーロッパではスペインの衰退が決定的となり、イギリスとフランスが第二次百年戦争を展開し、やがてナポレオンが登場してきます。一方、ロシアはシベリアに進出し、中国と接触するようになりますが、まだ両者の力の差は歴然としていました。また、この頃アメリカ合衆国がイギリスから独立し、イギリスはオーストラリアに囚人植民地を築きますが、まだ問題となるような勢力ではありませんでした。しかし、この間にヨーロッパは力をつけ、世界が近代世界システムに包み込まれ、中国もまたこれに飲み込まれていくことになります。そして、乾隆帝が退位してからおよそ50年後に清はアヘン戦争に敗北し、およそ100年後に日清戦争に敗北することになります。
物語は、若い和珅が登場するところから始まります。和珅は、もともと乾隆帝の輿の担ぎ手だったとされていますが、ドラマでは兵士だったことになっています。彼は1772年ごろ乾隆帝に見い出され、その後わずか4年で軍機大臣にまで登りつめます。異常な出世です。ドラマで描かれた和珅は、ちょうど織田信長に仕える木下藤吉郎のようで、常に主の考えを推し量り、頭の回転が速く、あらゆる問題を主の望みどおりに解決していきます。このドラマの主人公は、乾隆帝なのか和珅なのかよく分かりませんが、退廃期に入った乾隆年間の後半を、和珅を通して描いているのかもしれません。

ドラマは、乾隆帝が50歳代半ば頃から始まります。物語の多くは官僚の腐敗と乾隆帝の散財に関するものです。和珅は高官による大規模な汚職を暴いて乾隆帝の信頼を得ます。しかし汚職事件は次から次へと起き、まるでモグラ叩きのようで、きりがありません。また財政面では、このドラマが始まった頃には国庫は満杯でしたが、乾隆帝の派手好みもあって、宮殿や庭園が次々と建てられ、さらに南部への巡行がしばしば行われ、財政はしだいに厳しくなっていきます。また人口が100年前と比べて2倍に増大し、もはや従来の体制を維持することが困難となりつつあり、各地で反乱が起きるようになります。
 乾隆帝は退位後も実権を握り続けたため、和珅も権力を持ち続けます。彼の不正については多くの訴えがありましたが、乾隆帝が生きている限り嘉慶帝には和珅に手を出すことはできませんでした。1799年に乾隆帝が死去すると、嘉慶帝は和珅を弾劾し、すべての財産を没収した上、自殺させます。彼が残した財産は、15年分の国家歳入に匹敵するもので、その豪華な邸宅は、現在では観光名所となっているそうです。ドラマでは、和珅は役人の腐敗を追及し、一貫して乾隆帝に忠実で、不正蓄財も濡れ衣だったことになっていますが、いかに高級官僚とはいえ、俸給だけでこれほどの富を築けるとは思えません。
 ドラマで語られるエピソードとして多少関心を抱いたのは、マカートニーの来訪と「四庫全書」の編纂です。1792年にイギリスは乾隆帝の80歳の誕生日を祝うためにマカートニーを使節として派遣し、通商の拡大を求めます。そのさい使節は皇帝の前で三度膝を屈指、その度に三度お辞儀をする三跪九叩頭の儀礼をしなければいけないのですが、マカートニーはそれを拒否します。いろいろ議論の末、結局イギリス風の儀礼でよいことになりましたが、乾隆帝は「中国には何でもあり、輸入の必要性がない」として通商の拡大を拒否します。英明な乾隆帝にも、清の繁栄の真っ只中にあって、世界情勢の変化を見抜くことはできませんでした。なお、マカートニーが持参した贈物の中に蒸気機関車の模型がありましたが、この時代にはまだ蒸気機関車は存在しません。
 「四庫全書」は、古今の書籍を集めた中国最大の叢書です。全体が四分に分類されているため、「四庫全書」といいます。全体で36000冊、230万ページに及び、筆写だけで4000人が従事したそうです。正本が7部制作され、各地に保管されます。所蔵する図書館の前には防火と消火のため池まで作られました。その後3部が失われ、4部が現存しています。このような国家による編纂事業は、正史と同様に国家の恣意によって選択・排除・改竄が行われますが、それでもその資料的価値は計り知れません。ドラマでは、本の蒐集・筆写・改竄の場面が一部映し出されており、大変興味深いものでした。

 ドラマでは、うんざりする程、次々と程汚職事件が出てきます。これは清王朝に限らず、どの王朝でも同じことです。1911年の辛亥革命により、中国最後の専制王朝である清王朝は滅び、その後40年程後に共産党一党独裁体制が成立しますが、2000年に及ぶ中国の長い歴史から見ると、この政権は共産党王朝といえるのかもしれません。その後文化大革命など粛清の時代はありましたが、今日の腐敗の蔓延は国家の存立そのものを脅かすほどです。現政権は腐敗との戦いを宣言していますが、これらの映画を見ていると不可能なのではないかと思われてきます。


  清朝に関する大河ドラマを4作品観ましたが、苦労して観た割には、最初の「大清風雲」以外はほとんど得るものがありませんでした。内容的には概ね想定の範囲内で、中国史についての発想の転換を迫るようなものではありませんでした。このブログの「映画で中国史を観る」を含めると、かなり大量の中国大河ドラマを観ましたが、もう当分観ることはないでしよう。



2014年12月20日土曜日

イチョウの黄葉

 もう一カ月以上前ですが、イチョウが綺麗に黄葉しました。丈は2メートル程度で、これ以上大きくすると剪定できなくなるので、この丈で止めています。この写真を撮った翌日、強風が吹いて、葉はすべて落ちて
しまいました。
















ジャガイモが豊作でした。今年二度目の収穫です。ジャガイモはほとんど失敗することなく、毎年二回収穫できるので助かります。ジャガイモは中南米の原産で、アンデス山脈の標高3000メートルの高地で栽培されていました。非常に栽培しやすく、これが世界に広がって人類の食生活を変えました。






初めて大根を本格的に収穫しました。過去に2度挑戦しているのですが、2度とも芽が生えた直後に虫に食われ、失敗に終わりました。今年はなるべく遅く種を蒔き、丹念に虫を取った結果、40本ほど収穫できました。








11月の初めにグリーンピースの種を蒔きました。この丈のまま冬を越し、5月頃に収穫します。先日の大雪で、枯れてしまうのではないかと心配していましたが、何とか生き残りました。
その他に、現在小松菜・菜花・ほうれん草を栽培していますが、12月に入って成長が止まってしまいました。








2014年11月4日火曜日

おしらせ

 このブログの投稿が100件を超え、またアクセス件数も1万件を超えました。これは私の予想をはるかに超えるペースです。アクセス件数が最も多かったのは、「第3章 グローバル・ヒストリーとは何か」(2014110)で、669件、二番目は「第1章 大西洋三角貿易(201419)541件、三番目は「映画で観る中国の四人の女性」(2014111)202件でした。その他に100件を超えているものが16テーマあります。私のブログは内容が広範囲に及ぶため、検索にかかりやすいということがあるかもしれません。
 今まで、毎週1回のペースで投稿してきましたが、少し息切れしてきました。また、内容や文章も雑になる傾向があります。そこで、私自身が余裕をもつために、12か月投稿を休息したいと思います。現在私が予定しているテーマは「映画で清朝を観る」「映画で仏教を観る」「映画でアメリカ史を観る」(いずれも仮題)ですが、どれも準備に時間のかかるテーマですので、十分に蓄積した上で投稿したいと思います。

2014年10月31日金曜日

映画でオーストラリアを観て

 オーストラリアに関する映画を3本観ました。もっとも、オーストラリアに関する映画を見たのは、後にも先にもこの3本だけです。

























http://ace-int.org/oss-australia.com/aboutaustralia.html


 ところで、オーストラリアとは、ラテン語で「南の地」という意味で、憲法上は立憲君主国です。オーストラリアはイギリス連邦に加盟しており、形式上その君主はイギリス国王(女王)ということになり、この点ではニュージーランドもカナダも同様です。これは日本人には分かりにくいことですが、19世紀に繁栄した大英帝国の名残だと考えればよいと思います。形式とはいえ、それぞれの国にはイギリス国王の代理である総督が存在しています。2000年に開催されたシドニー・オリンピックの開会式で、イギリスの総督が挨拶したことに気づいた人は、あまりいないのではないでしょうか。
 もっとも、私もオーストラリアについてほとんど知りません。ずっと以前にオーストラリアに関する本を十数冊まとめ読みしたことがありますが、あまり印象に残っていません。そこでまず、予備知識としてオーストラリアの歴史を概観しておきたいと思います。
 今から5万年前には、オーストラリアとニューギニアは一つの陸地を形成していましたが、15千年ほど前に海面が上昇し、オーストラリア大陸は孤立してしまいます。人種的には、マダガスカルから太平洋に散らばる島々に居住するモンゴロイドに属すると考えられています。彼らは、ヨーロッパ人からアボリジニあるいはアボリジニナルと呼ばれますが、これは「原住民」という意味でしかありません。ヨーロッパ人到来以前のアボリジニについては、ほとんど分かっていないようです。17世紀にオランダのタスマンがオーストラリアに到来しますが、植民地化しませんでした。ただ、オーストラリア南部のタスマニア島に、彼の名前が残っています。そしてイギリスのクックが、1770年にシドニー湾に上陸して領有宣言を行い、以後オーストラリアはイギリスの植民地となっていきます。
 とはいえ、当時のイギリスはこの広大な大陸をどのように扱うのか、何の考えもありませんでした。一方、当時のイギリスでは土地囲い込みが進行して農民が土地を失い、彼らが都市に流入して犯罪が激増していました。政府はこうした犯罪者を流刑囚としてアメリカ植民地に送り込んでいたのですが、1776年にアメリカが独立宣言を行い、もはや囚人を送ることができなくなりました。その結果、国内では囚人がたまる一方でした。こうした中で思いついたのが、囚人をオーストラリアに送るということです。こうして1788年に最初の囚人が送り込まれ、以後次々と囚人が送られていきます。オーストラリアは、まさに流刑植民地として始まったのです。
 19世紀になると内陸の開拓が進められ、牧羊業が発展します。当時イギリスで毛織物工業が発展していたため、羊毛の大半はイギリスに輸出されました。こうした中で、流刑徒以外の入植者も増え、しだいに流刑植民地としての性格が薄まって行きます。19世紀後半になると各地で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが始まりました。その結果中国を中心に大量のアジア系の人々が労働者として流れ込みました。当時中国ではアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱などが起きて混乱していたことが背景にあります。こうした中で、中国人に対する反発が強まり、そこからやがて白人至上主義的な白豪主義が形成され、さらにそれは人種差別を国是とする法制化にまで至りました。こうした問題は労働問題と深く関わっています。人口の絶対数が少ないため、労使関係は労働者に有利に働きますが、アジア系の低賃金労働者の流入は、白人労働者の脅威となります。似たようなことは、同じ時代のアメリカでも起こっており、中国人や日本人の移民が排斥されます。
 オーストラリア人のほとんどはイギリス人の入植者でしたから、オーストラリアはあらゆる点でイギリスに依存していました。第一次世界大戦では、人口500万に満たないオーストラリアは40万の兵を戦線に送り、6万人近い死者を出しています。戦後自治領の発言権が強まると、1931年にイギリスはウェストミンスター憲章によって白人自治領に本国と対等の地位を与えますが、イギリスへの依存意識の強いオーストラリアはこれを批准しませんでした。1939年に第二次世界大戦が始まると、今回もオーストラリアは軍隊を派遣し、1941年に日本が真珠湾攻撃を行うと、日本にも戦線布告します。
ところで、第一次世界大戦後南太平洋の旧ドイツの植民地は、赤道を境に北が日本の、南がオーストラリアの国際連盟委任統治領となります。そして1942年に日本軍がイギリスの植民地であるシンガポールを陥落させると、オーストラリアは大きな衝撃を受けます。もはやイギリスにはオーストラリアを守る力がないことは明らかだからです。そしてこの年オーストラリアはウェストミンスター憲章を批准してイギリスから事実上独立し、アメリカに接近していきます。その後日本軍は南太平洋の島々を占領し、さらにオーストラリアを直接爆撃するようになります。そして映画「オーストラリア」の舞台となったのは、この時代のオーストラリア北部の町ダーウィンです。

 次に、オーストラリアの先住民であるアボリジニについて、すこし述べておきたいと思います。「裸足の1500マイル」のテーマとなったのは、このアボリジニの問題です。アボリジニとは、ab-origin(源から)つまり「先住民」を意味します。イギリス人が移住した頃のアボリジニ人口は50万から100万人とされていますが、はっきりしません。入植したイギリス人の多くは流刑囚だったので気が荒く、彼らは多くのアボリジニをスポーツ・ハンティングの対象として殺害しました。さらに19世紀前半に、開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行されたため、アボリジニの人口は10分の1にまで減少したとされます。そのため、アボリジニは「死にゆく民族」と呼ばれました。
 19世紀後半にオーストラリア政府は、アボリジニの保護を名目に、アボリジニとの混血の児童を親から引き離し、隔離施設に入れる法律を作りました。この法律は、名目上アボリジニの文明化のためということになっていますが、実態はアボリジニとしてのアイデンティティを失わせるものでした。この時代は「盗まれた世代」と呼ばれます。その後1967年にアボリジニに市民権が与えられ、69年には隔離政策が廃止され、2008年には政府はアボリジニに公式に謝罪しましたが、今となっては手遅れです。なお、アボリジニは飲酒文化を持たず、また遺伝的にもアルコール分解酵素が極端に少ないため、体質的に少量の酒で泥酔しやすいそうです。そのためアボリジニにはアルコール依存症が多く、深刻な社会問題となっています。


 第二次世界大戦後、ヨーロッパでは戦争で多くの人が死んだため、白人移民は減り続けました。その結果、国力の基礎となる人口増加が鈍化したため、1980年代からは白豪主義を撤廃し、世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行しました。対外的にはアメリカ依存を強めるとともに、アジア・太平洋地域の一員となることに努めています。


裸足の1500マイル


2002年に、オーストラリアで実話に基づいて制作された映画で、原題は「うさぎよけフェンス」ですが、その意味については後で述べたいと思います。時代は1931年、場所は西オーストラリア州で、映画はオーストラリア政府による非道なアボリジニ政策により翻弄されたアボリジニの少女たちの姿を描いています。なお、西オーストラリア州は、オーストラリア全体の3分の1を占めますが、その90パーセントが砂漠か半砂漠で、人口の多くが州都パースに集中しています。




































 前にアボリジニ保護政策について述べましたが、20世紀に入ると、特に優生学の観点から、アボリジニの混血女性を白人男性と結婚させ、アボリジニを白人化させるとともに、アボリジニの文明化を図るという政策が推進されます。そのため、各地にアボリジニ保護官と収容施設が建設され、各地から組織的にアボリジニの混血児を強制的に親から引き離し、施設に入れるようになりました。この論理から言えば、混血の男子を白人女性と結婚させてもよい分けですが、そのような発想はありません。明らかに欺瞞です。移民社会は一般に男性が多く、女性が少ない傾向があります。こうした事情から考えても、この政策はアボリジニを白人男性の性の道具としようとする思惑も垣間見えます。
映画は、西オーストラリア・ギブソン砂漠の端に位置するジガロングという村に住む3人の混血児が、保護官により獣のように檻に入れられて、パース近郊の施設まで連れて行かれます。14歳のモリーと妹の8歳のデイジー、モリーの従妹である10歳のグレイシーです。話は逸れますが、移住者たちは食用あるいは狩猟用にウサギを持ち込みますが、オーストラリアでは天敵となる大型肉食獣がいないため、ウサギが大繁殖します。これが牧畜業に被害をもたらしたため、政府は西オーストラリア州の南北に5000マイル(8000キロ)に及ぶ「うさぎよけフェンス」を建設しますが、このフェンスの建設過程で作業員の男たちが現地の女性を犯し、多数の混血児が生まれることになりました。この3人の少女たちも、そうして生まれた子供たちでした。
施設では現地語を話すことが禁じられ、厳しい日課が課せられます。大自然の中で自由に生きてきた子供たちには耐えられません。時々脱走者が出ますが、アボリジニの追跡人が必ず捕まえます。アボリジニが混血児の追跡人というのは皮肉な話ですが、実は彼の娘も施設に入れられており、いわば人質をとられている分けです。モリーもデイジーとグレイシーを連れて脱走します。巧みに足跡を消し、追っ手を逃れます。そして「うさぎよけフェンス」に沿っていけばジガロングにたどり着けることを知ります。これが、タイトルの「うさぎよけフェンス」の意味です。保護官は、ナチスのアイヒマンのように命令に忠実で、徹底的に逃亡者を追い詰めます。彼は言います。「混血児を文明化する……。人種交配も三代で肌の黒さは消滅します。白人文化のあらゆる知識を授けてやるのです。野蛮で無知な原住民を救うのです」
途中でグレイシーが捕らえられますが、モリーとデイジーはひたすら歩き、故郷にたどりつきます。9週間かけて1500マイル(2400キロ)を歩きます。それは北海道の稚内から沖縄の那覇までの距離に相当するそうです。映画はここで終わりますが、後日談があります。その後モリーは砂漠の奥地に入って結婚し、2人の女の子を生みますが、1940年に娘達と共に再び収容所へ移送されました。そして翌年、モリーは上の娘ドリスを残し、当時一歳半のアナベルだけを連れて再び脱走し、九年前と同じ道を辿って故郷へ戻ります。ところがその三年後、娘のアナベルが再び施設へ送られてしまいます。
一方、4歳のドリスは収容所で一人残され、白人の思惑通り、白人に同化されていきます。ある時、彼女は父親の写真を見て、自分が白人ではないことに気づき、自らのアイデンティティを探し求めるようになります。そして叔母のデイジーから聞いた話をもとに、彼女は「うさぎよけフェンス」を著し、それが映画化されたわけです。そして、この映画が制作された段階で、モリーもデイジーもまだ生きており、映画の最後に少しだけ顔を出します。


 この映画で語られたことは、まったく非道な行為ですが、ただ、オーストラリアだけを責めることはできないと思います。この時代は、世界的に見てこうしたことが当然のように行われた時代でした。一つの民族による一つの国家という国民国家の概念や、白人種が他の人種より優れているという優生学的な理論が普及し、劣った種族を絶滅しようとするジェノサイドが行われるようになりました。ナチスによるユダヤ人虐殺はその典型的な例ですが、日本でも明治時代に北海道旧土人保護法が制定され、アイヌの土地収奪や文化の抹殺を行いました。この法が廃止されたのは、実に1997年のことです。映画におけるアボリジニに対する白人の態度には怒りを禁じえませんが、それは決して他人事ではないのだと思います。

オレンジと太陽


2011年にイギリスで制作された映画で、児童強制移民について扱っており、これも実話です。児童強制移民について、私はまったく知りませんでしたが、何しろ公表されたのが21世紀になってからなので、ほとんどの人が知らなかったと思います。
児童強制移民とは、19世紀頃から本格化した制度で、孤児院の子どもたちを、親がいようがいまいが、白人植民地に強制移住させるという政策です。子供が孤児院に入れられるのには色々事情があり、両親が死んでしまった場合、親が子を育てられなくて一時孤児院に預けた場合、あるいはよい家庭で養子として育ててもらいたい場合などがあります。ところが、孤児院は、孤児たちに両親が死んだと伝え、「太陽が光り輝き、毎日オレンジが食べられる国へいくのだ」とだまして、植民地へ送り込んでいました。そして親が子供を引き取りにきたときには、すでに立派な家庭に養子に出したので、ここにはいないと説明します。
イギリスという国は、政治的・宗教的な不満分子はアメリカに亡命し、囚人はオーストラリアに流し、孤児はオーストラリアなど植民地に放り出し、そうすることで国内の均衡を保ってきた国のように思われます。孤児については、オーストラリアだけではなく、カナダ、ニュージーランド、ローデシア(現ジンバブエ)などにも送り込みましたが、20世紀半ば頃からはオーストラリアが主要な受け入れ先となります。
では、一体なぜ孤児を植民地に送り込んだのでしょうか。はっきりした理由は分かりませんが、一つには厄介者を排除するというイギリスの思惑があったでしょう。しかしそれ以上に、植民地とイギリス本国に共通する思惑があったように思います。イギリスの白人植民地は、当然のことながら移住者から成り立っているため、白人の人口が少なく、そのまま放置すれば、やがて現地人に飲み込まれてしまいます。そこで孤児を送って白人人口を増やそうとするわけですが、これはアボリジニの混血女性を白人と結婚させて、アボリジニを白人化するという発想と同じです。映画ではオーストラリアのケースしか扱っていませんので、他の国に送られた孤児が、その後どうなったのか分かりません。ただ、1950年代にオーストラリアへの孤児の移民がピークに達し、この映画の舞台となった1980年代には、彼らの多くはまだ生きていたということです。
映画では、イギリスのほぼ中央部にあるノッティンガムで児童福祉士として働くマーガレット・ハンフリーズという女性のもとに、1986年に一人の女性が訪ねてきました。彼女は、自分は4歳の時に両親が死んで孤児院に入れられ、分けもわからずにオーストラリアに送られたこと、記憶にあるのはノッティンガムという地名だけだということ、そしてもし母が生きているなら探して欲しいと言って、オーストラリアに帰って行きました。マーガレットは、いろいろ調べていくうちに、オーストラリアに送られた孤児が相当たくさんいること、しかもこの移民には政府・教会・慈善団体が関わっていることが分かってきました。
オーストラリアに送られた孤児たちは、汚い建物に閉じ込められ、奴隷のように働かされ、そして孤児院を出るときは、今までの養育費を借金として支払わされます。かつて孤児だった人々の話を聞き取りしている内に、彼女は彼らの心の痛みを自ら感じ、外傷性ストレス障害になってしまいます。さらに政府や教会や慈善団体からさまざまな嫌がらせを受けます。しかし夫の援助もあって、多くの孤児たちの家族を探し出し、マスコミでも取り上げられるようになり、彼女の仕事は人々から認知されるようになります。そしてこの映画の制作が始まると、オーストラリア政府は2009年に、イギリス政府は2010年に事実を認め、正式に謝罪しました。彼女が調査を開始してから25年もたってからです。


 こうした非道な行いは、世界の長い歴史の過程で数えきれない程行われてきたでしょう。そしてその多くは、闇に葬り去られてきたでしょう。しかしたまたま知ることができたことについては、事実を解明し公開する責務が人間にはあると思います。そして、小さな町の一介の児童福祉士だったマーガレットは、それをやり遂げたのです。


オーストラリア


2008年にオーストラリアで制作された映画で、オーストラリアとはどのような国かを描いており、オーストラリア的なさまざまな側面が描かれています。 
 オーストラリアの都市として日本によく知られているのは、シドニーとかメルボルンであろうと思います。実際、シドニーの人口は500万弱、メルボルンの人口は450万弱、オーストラリアの人口が2000万強ですから、あの広大なオーストラリアで人口の半分近くが、この2つの都市に住んでいるわけです。そして、この映画の舞台となったダーウィンは、ノーザンテリトリー準州(北部領域)の州都ですが、ノーザンテリトリーは9割が砂漠で、人口20万人のうち6割がダーウィンに住んでいます。ダーウィンへの本格的な入植は19世紀の後半に金鉱が発見されてからで、アボリジニが比較的多く残っており、またアジア系の移民も多く、非常に多文化的な都市となっています。
 映画は、イギリスの貴族サラ・アシュレイ夫人が、オーストラリアに牧場経営のため行ったきり帰ってこない夫を連れ戻すために、ダーウィンへやって来ることから始まります。イギリスの貴族や金持ちが植民地に投資するということはよくあることですが、それにしても荒くれ者の集まるダーウィンで、アシュレイ夫人はいかにも場違いです。しかし、イギリスへの依存心やコンプレックスをもつオーストラリア人は、この貴婦人を眩いものでも見るかのように見つめます。
港まで彼女を迎えに来たのはドローヴァーという「牛追い」でした。「牛追い」とはカウボーイで、牛を内陸から港や駅に運ぶのを仕事とする人々です。オーストラリア人には、荒々しい植民地人という気風があります。アメリカでは、東部はイギリスへの帰属意識が長く続きますが、真のアメリカ人は西部で生まれたとされます。同じように、真のオーストラリア人は内陸部で生まれたとされます。そしてドローヴァーは、荒々しいオーストラリア人の典型として描かれているのだそうです。
 アシュレイ夫人はドローヴァーの案内で夫の牧場へ行きますが、夫はすでに殺されていました。犯人は、夫の牧場を手に入れようとした近隣の大牧場主でしたが、証拠がないので、どうすることもできません。このままでは、牧場の経営が危ういため、ドローヴァーの力を借りて、残された1500頭の牛をダーウィン港まで連れて行き、軍に食料用牛肉として売ることにしました。当時第二次世界大戦が始まっており、オーストラリアもイギリスに援軍を送っており、さらに日本が南太平洋に進出していましたので、軍も食料用の大量の牛肉を必要としていました。こうして、1500頭の牛を引き連れて、はるか彼方のダーウィンに向けた壮大な旅が始まります。その過程で、オーストラリアの荒々しくも美しい自然がたっぷりと映し出されます。
 ところで、牧場にはナラという名前の混血児がいました。混血児は、見つかると強制的に収容所に入れられるので、白人が来ると隠れていました。そしてそこへアシュレイ夫人が訪れることになります。ナラの母はアボリジニで、白人男性に犯されてナラを生みます。ナラは非常に聡明な少年で、実はこの物語全体がナラによるナレーションで展開され、白人でもアボリジニでもない混血児の目を通して、オーストラリアが語られます。映画の冒頭で、ナラは「この土地を僕の祖先は色んな名前で呼んでいる。でも白人をこの土地をオーストラリアと名付けた」と語ります。
 ナラの母の父、つまり祖父はキング・ジョージと呼ばれるアボリジニのシャーマン(祈祷師・霊媒師)で、不思議な力をもっており、折に触れてナラにもその力を教えていました。私にはよく分かりませんが、アボリジニの宗教は歌と深く関わっているようです。アボリジニの神話は、彼らの祖先が歌を歌いながら自然のすべてを創造したというもので、歌を歌うことで、自然と共鳴するのだそうです。ナラやキング・ジョージは、時々自然に語りかけるように歌を歌いますが、その歌には人の心を引きつける穏やかさがあります。私には、キング・ジョージがヒンドゥー教の聖人のように思われました。
 白人はアボリジニに虐待しつつも、同時にアボリジニが不思議な力をもつものとして畏怖の念も抱いていました。実際にアボリジニが不思議な力をもっているのかどうか分かりませんが、少なくとも彼らは自然の中で生きていく達人でした。白人が内陸部に入ろうとするなら、彼らの助けなしには不可能でした。映画では、このような白人とアボリジニとの微妙な関係が描き出されると同時に、アボリジニの混血を白人化するという非道も行われている、というのが当時のオーストラリアの現実でした。
 結局、アシュレイ夫人はオーストラリアに残ることを決意します。ドローヴァーを愛するようになったということもありますが、オーストラリアの壮大な自然、荒々しいカウボーイやアボリジニとの交流、様々な未知なる経験を通して、彼女は新たな自分を見出していったからです。そして彼女はナラを自分の子どもとして育てようと決意します。しかしナラは、キング・ジョージの勧めでウォーキング・アバウトに出たいと言います。ウォーキング・アバウトとは、大人になる前に一人で内陸を旅することで、アボリジニの大人になるための通過儀礼でした。アシュレイ夫人は、幼い子が一人で危険な旅をすることには断固反対しました。そんなことはイギリスではあり得ないことです。しかし彼女は分かっていませんでした。彼女の保護のもとでナラを育てるということは、混血児を収容所に閉じ込めるのと同じことだったのです。
 収容所で育ち、通過儀礼を行わなかった人には、しばしばアイデンティティ・クライシス=自己喪失が起き、心理的な危機状況が生じることがあるそうです。アボリジニにとってウォーキング・アバウトは、アイデンティティを獲得するための重要な通過儀礼でした。キング・ジョージは、繰り返しナラに「大事なことは自分の物語もつことだ」と言います。それは、自らのアイデンティティを形成せよという意味ではないかと思います。この間いろいろな事件があり、それを通じてアシュレイ夫人は自分の過ちに気づき、最後に彼女はナラをキング・ジョージに託して旅立たせます。


 私はオーストラリアについての知識がほとんどありませんので、この映画については、この程度のことしか書けません。ただ、この映画自体は娯楽映画などで、あまり難しく考えて見る必要はないと思います。ちょうどアメリカの西部劇を観ているような感覚で楽しむことができる映画でした。