2014年9月28日日曜日

映画でラテンアメリカの女性を観る

 ラテンアメリカに関して女性を主人公とした映画を三作観ました。相互に関連はありませんが、この三作を通して、ラテンアメリカの社会を考えてみたいと思います。

命を燃やして


2008年に製作されたメキシコの映画で、1930年代から40年代のメキシコにおける一人の女性の生き様を描いた映画です。
 主人公はカタリーナという女性で、貧しい家で育ちました。15歳の時に、アンドレス・アセンシオという30代前半の将軍が、突然彼女に求婚し、体を求め、16歳の時に結婚します。彼女は、何も分からないまま性体験をし、妻となり、母となり、夫の人形としての暮らしを淡々と続けます。アンドレスは野心家で、州の知事選に立候補して州知事となり、カタリーナを州の厚生大臣に任命します。彼女はまだ二十歳前ですから、今日から見ればとんでもない話ですが、当時は権力者が周辺を親族で固めるという意味で、そんなことはよくあったようです。
 もちろん彼女に大臣が務まるはずはありませんが、陳情者から色々な話を聞く内に、夫の不正行為も知るようになります。夫は殺人や暴力などさまざまな犯罪行為に関わり、さらにあちこちかに女性がいて、他に子供も何人もいました。さらに大統領選挙への立候補も画策していました。こうした中で彼女はしだいに夫から距離を置き、若いオーケストラの指揮者と恋をし、初めて女性として目覚めます。しかし指揮者は夫に殺されてしまったため、彼女は密かに夫を毒殺します。こうして、16歳で結婚して以来、15年の後に初めて彼女は自立した女性として生まれ変わることになります。物語は淡々と進められ、何を言いたいのかよく分かりませんでしたが、一人の女性の成長過程を描いているものだと思います。この映画はメキシコでは大評判だったそうですが、日本では劇場公開されていません。

 私は、この物語そのものより、当時のメキシコそのものに関心があり、この映画を観ました。メキシコは19世紀前半の独立以来、他のラテンアメリカ諸国と同様に、政治的にも経済的にも極めて不安定でした。1910年にメキシコ革命が始まり、1917年に極めて民主的なメキシコ憲法が制定されましたが、憲法はほとんど無視され、相変わらず混乱が続いていました。しかし1934年にカルデナスが大統領に当選すると、一連の民主化政策を推進し、メキシコにようやく民主主義が定着していくようになります。アンドレスが活躍した時代は、こうした時代だったのですが、映画にはカルデナスの名前は一度も登場せず、政治には相変わらず陰謀・政敵の殺害・収賄が横行し、正義の片鱗すらありません。

 カルデナスの功績は大きいとしても、これが当時の政治の実態なのかもしれません。1940年にカルデナスは引退しますが、その後カルデナスの与党である制度的国民党は一党独裁を続け、腐敗・堕落し、まるで戦後日本の自民党による一党独裁のようでした。そして、2000年にようやく政権交代が実現しましたが、なおさまざまな問題を抱えています。とはいえ、他のラテンアメリカ諸国の中にあって、メキシコは民主主義が最も「順調」に発展してきた国だとされています。


エビータ
1996年のアメリカのミュージカル映画です。「エビータ」は過去に何度も舞台や映画で上演されました。この映画は、アメリカで最も人気のある歌手マドンナがエビータを演じています。エビータとはエマの愛称で、アルゼンチン大統領夫人であり、夫のペロンとともにアルゼンチン国民に最も愛された人物です。

エバは田舎町で生まれ育ち、15歳の時に家出してブエノスアイレスに行きますが、なんのつてもない15歳の少女にはなかなか仕事が見つかりません。初めの内は雑誌のモデルなどをしていましたが、1930年代の後半からラジオや映画に出演するようになります。そして仕事が代わるたびに、相手の男性も代わっていたようです。一方ペロンは、陸軍師範学校を卒業した後順調に出世し、1943年には陸軍次官に任命されるとともに、初代労働福祉協会の長官となり、次々と労働者に有利な裁定を行って国民の人気を得ていました。そして1943年に、二人はあるパーティで出会います。エバは24歳、ペロンが48歳の頃でした。
 その後エバはペロンの愛人となるとともに、ラジオ放送で盛んにペロンの宣伝を行います。1944年にペロンが副大統領に就任すると、親ファシズム的で反アメリカ的な態度をとるペロンを嫌ったアメリカの圧力で、1945年にペロンは逮捕されます。これによって、むしろ外国の圧力に屈しなかったペロンは民衆の英雄となり、ペロンの釈放を要求する運動が高まります。そしてエバも、ラジオを使ってペロンの釈放を訴えます。こうした運動の過程で、*多様な民族からなるアルゼンチンが初めて一つの国民としての意識をもつようになります。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから大量の移民がアルゼンチンに流れ込みます。1914年の段階で、国民の3割が外国出身者という状態でした。したがってアルゼンチン人としてのアイデンティティなど生まれようもありませんでした。
釈放後ペロンはエバと正式に結婚し、1946年に大統領選に勝利し、かくしてエバは大統領夫人となります。そして映画では、ペロンの大統領就任後、エバは大統領官邸のベランダから民衆に向かって、この映画のテーマ曲である「アルゼンチンよ 泣かないで」を歌います。これはなかなか感動的な場面でした。アルゼンチン人という国民が誕生したことを象徴するような場面でした。
大統領就任後のペロンは、労働組合の保護や労働者の賃上げ、女性参政権の実現、外資系企業の国営化、貿易の国家統制などの政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受けます。一方エバも積極的に政治に介入します。彼女は、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立するなど、ブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をしました。
 しかしこれらの政策は、財政的基盤のないばらまき政策でしたので、まもなく破綻します。1952年の大統領選挙ではペロンは再選を果たしますが、この年エバは子宮癌で死亡します。33歳でした。葬儀は盛大に行われましたが、エバを失ったペロンはしだいに民衆の支持を失い、1955年に軍事クーデタで失脚しました。1973年にペロンはもう一度大統領に復帰しますが、すでにこの時78歳であり、翌年死亡しました。その後もアルゼンチンの政治は混乱を続けますが、今日でも二人は多くの国民に崇拝されており、いわばアルゼンチン人としてのアイデンティティのシンボルとなっているのかもしれません。
  
 この映画は、アルゼンチンでは不評でした。まずアメリカのセックス・シンボルであるマドンナが、神聖なるエバを演じたことに対する不快感があったようです。また、映画には、チェという名前の狂言回しが繰り返し登場してエマを批判します。キューバ革命で活躍したチェ・ゲバラはアルゼンチンの出身で、映画でのチェは彼を想定していると思われます。もちろんそれはフィクションですが、ちょうどこの頃、彼はアルゼンチンで医学を勉強していました。彼の皮肉たっぷりの口調を通して、民衆に崇拝された「聖なる」エバと、その実像である「俗なる」エバを語っています。そしてこの「俗なる」エバを描いたことが、アルゼンチンで不評だった理由のようですが、見方を変えれば、エバは今日でもそれほどアルゼンチン人に愛されているということです。
 なお、マドンナは多くの映画に出演していますが、演技力は今一で、最悪主演女優賞を5回もうけています。しかしこの「エビータ」では、ゴールデングラブ賞を受賞しています。この映画でのマドンナは大変魅力的で、さすがに歌唱力は抜群でした。

話しは変わりますが、ペロンはポピュリストだと言われます。ポピュリズムとは、既存の強力な体制に対抗するため、直接民衆に語りかけ、民衆の利益を約束して支持を得る政治手法のことです。日本語では大衆主義とか人民主義と訳されますが、「大衆迎合」と否定的に捉えられることもあります。しかしそれはもともと衆愚政治化しやすい民主主義の欠点であり、ポピュリストの責任ではありません。古くは、ローマのカエサルが元老院に対抗するため、ローマ市民に直接訴えかけました。また、メキシコでも、前に述べたカルデナスが地主寡頭支配に対して、全国遊説を行いました。そしてペロンは、中南米のほとんどの国で見られる地主寡頭支配に対して、労働者階級の支持を獲得します。最近では、小泉首相が「大衆迎合」という意味でポピュリストと揶揄されましたが、そのような指摘が当たっているのでしょうか。

 ただ、ヒトラーやムッソリーニも、資本主義や社会主義といった既成の体制に反対して市民に直接訴え、絶大な権力を獲得しました。彼らもまたポピュリストと言えるのではないでしょうか。いずれにしても、この時代はポピュリストの全盛時代だったとように思われます。それは、一部の人々のみが政治を独占していたのに対して、大衆を政治に参加させる役割をはたしました。ペロンもヒトラーやムッソリーニに親近感をもっていたようで、彼ら程ではありませんが、民衆による熱狂的な支持の裏で、反対者を過酷に弾圧していました。また、アルゼンチンはアイヒマンをはじめナチスの残党の亡命を受け入れましたが、だからといってペロンをファシストと呼ぶこともできないと思います。また彼は、ユダヤ人の差別に対しては断固反対していました。


そして、ひと粒のひかり


2004年に制作されたアメリカ・コロンビア合作映画で、マリアという一人の少女を通して、コロンビア社会の矛盾を描いています。

「コロンビア」の名はコロンブスに由来します。「新大陸」は、これを大陸であることを確認したアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって、「アメリカ」と命名されました。これに対して、19世紀初頭にシモン・ボリバルが独立運動を推進し、中南米にコロンブスの名をとった統一国家の樹立を目指しますが、結局失敗に終わり、コロンビアの名は現在の国にだけ残りました。
 コロンビアでは、長く一部の特権階級による寡頭支配が続き、それに反対する勢力は徹底的に弾圧されてきました。こうした中で、左翼によるゲリラ活動が盛んとなり、さらに巨大な麻薬シンジケートが形成され、身代金目的の誘拐、殺人、麻薬シンジケート間の抗争などが頻発します。そのため世界の多くの国は、コロンビアを旅行自粛国に指定している程です。さらに政府の腐敗も大きな問題となっています。経済は比較的順調に発展しているにも関わらず、一般の国民がその恩恵を受けることは少なく、政府は国民の教育にもあまり熱心ではありません。国民の多くは生活難に苦しみ、将来への展望が開けず、麻薬の生産や密売に手を出す人が後を絶ちません。中南米諸国は、大なり小なりコロンビアと似たような状況にあり、アルゼンチンのペロンの試みは、こうした状況の打破を目指したものでした。とはいえ、いまだにこうした体制が維持されている国は、中南米でも少数派になりつつあります。
 
マリアは地方のバラ農園で働いていました。バラの生花はアメリカや日本などに輸出され、コロンビアの重要な輸出品の一つです。仕事は単調で給料も安く、しかも彼女は母と祖母、さらに姉とその赤ん坊を養っていました。また、大して好きでもない青年と関係を持って妊娠し、さらにバラ園の主任と喧嘩をして仕事を辞めてしまいます。こうした中で、アメリカへの麻薬の運び屋の仕事に勧誘されます。一度で6000ドルもらえるとのことで、これだけあればコロンビアでは家が買えます。
 仕事は、小さなゴム袋に麻薬を詰め込み、それを飲み込んで胃袋におさめて渡米することです。小さいとはいっても繭くらいの大きさがあり、これを60個も詰め込むわけですから、大変です。最大の危険は、お腹の中で袋が破裂することで、破裂すれば命は助かりません。事実、彼女の友人が目の前で死に、胃袋を裂かれて麻薬が取り出されました。彼女は怖くなって逃げ出しますが、ある病院で胎児の生育を検診してもらい、エコーで胎児が動く姿を見て、アメリカに残ることを決意します。もちろん彼女は不法移民ということになりますが、アメリカで生まれた子はアメリカ市民となります。コロンビアで子供を産んでも、将来に何の希望ももてませんが、アメリカ市民なら将来にチャンスが与えられます。

 アメリカには不法移民が500万人いるといわれ、さらに毎年30万人近くが流入しているとされます。こうした移民はアメリカ人の仕事を奪っていると批判される一方、彼らはアメリカ人がしたがらない低賃金労働力の担い手になっています。移民は社会保障などを受けることができず、低賃金で不安定な生活をしていますが、節約すれば本国に送金でき、本国ではこの送金だけを頼りに生活人いる人々も多いそうです。そして不法移民は、自分はだめでも、子供はアメリカ人になれるという希望をもつことができます。

 中南米の少なからぬ国では、こうした貧困のために農民が麻薬の栽培を行ったり、マリアのような普通の少女が運び屋になったりすることは、珍しいことではありません。その中でもコロンビアは、特にひどい国の一つのようです。タイトルの「一粒のひかり」とは、彼女のお腹の子のことだと思われます。コロンビアでは何の希望も見出せませんが、アメリカでなら、少なくとも子供には希望を見出すことができるということです。



2014年9月23日火曜日

 栗を収穫しました。とはいっても6個なので、栗ご飯は無理ですね。桃栗三年とはよくいったものです。まだ背丈ほどの大きさですが、それでもちょうど三年で収穫できました。桃も三年ですが、梅干しくらいの大きさで終わってしまいました。
 先週は、大根(聖護院)・ほうれん草・菜花・小松菜の種を蒔きました。大根は2回失敗していますが、今回こそは成功させたいと思います。とはいっても、特別な対策はとっておらず、ただ運を天に任せるのみです。

2014年9月19日金曜日

映画で古代アメリカを観る

太陽の帝王

1963年にアメリカで制作された映画で、マヤ族に関するものです。時代は、1000年ほど前ということですから、10世紀頃と思われます。
マヤ文明は、メキシコ南東部からグアテマラにかけて栄えた文明で、そのルーツは紀元前3000年頃まで遡りますので、いくつかの時代区分が行われています。まず先古典期前期(紀元前3000 - 紀元前900年)に始まり、先古典期中期(紀元前900 - 紀元前400年)、先古典期後期(紀元前400 - A.D.250年)、古典期前期(A.D.250 - 600年)、古典期後期(A.D.600 - 900年)、後古典期(A.D.900 - 1524年)と続きます。ほとんど意味不明の時代区分ですが、マヤ文明が最も栄えたのは古典期後期だそうで、この映画の舞台となった10世紀には、すでにマヤ文明は衰退期に入っています。

メソアメリカでは多くの文明が興亡し、その興亡の原因ははっきりしません。ただ、メソアメリカには北からさまざまな民族が侵入し、それが多くの文明の興亡の原因の一つだったことは確かでしょう。古典期後期の文明が衰退したのは、当時メキシコ中央高原に栄えたトルテカ帝国(7世紀頃~12世紀頃)の侵入によるものではないかと推測されます。事実その後マヤ文明はトルテカ文明の影響を受けるようになったとされます。また、メキシコ湾岸の海上貿易が発展し、マヤ地区が通商路からはずれてしまったとも考えられます。事実、その後マヤ文明の中心はユカタン半島に移り、その北部にチチェン・イッツァが建設されます。そしてチチェン・イッツァで祭られていたのはケツァルコアトル(マヤ語ではククルカン)であり、ケツァルコアトルはトルテカ帝国の祖神です。ただし、ここで述べたことはすべて推測であり、私自身の誤解によるものなので、あまり信用しないで下さい。

ウイキペディア

映画は、チチェン・イッツァにおけるケツァルコアトルの神殿の場面から始まります。映画では現存する実物の神殿が使用されますが、この神殿は高さが24メートルもあり、階段は急勾配で、これを上り下りするタレントは大変だったようで、しかも上から下を見ると目が眩むそうです。








地図はグーグル・アースで、図は私がいいかげんに書いたものです。

当時強力な軍事力をもったフナックと呼ばれる人物が率いる異民族が侵入し、チチェン・イッツァは滅亡寸前でした。神官は神に生贄(人身御供)を捧げるべきだと主張しますが、バラーム王は生贄に反対で、船で脱出することにします。映画のタイトルは「太陽の帝王」となっていますが、マヤは大きな政治的・軍事的勢力を形成したことはなく、多くの都市が存在し互いに合従連衡を繰り返していました。そのため、強力な勢力に攻め込まれるとひとたまりもありません。映画はアステカ帝国やインカ帝国と勘違いしているのでしょう。
やがて彼らは現在のテキサス州に到達し、そこで新しい生活を始めました。そこにはブラック・イーグルと呼ばれる人物に指導される狩猟民族が住んでおり、当初彼らと対立していましたが、やがて平和的に共存するようになります。ところがそこへフナックが大船団を率いて攻めてきました。バーラムはイーグルの援軍を得てフナックを倒すことができましたが、この戦闘でイーグルが戦死してしまいます。フナックなき今、バーラムは故郷に帰ることが可能となりましたが、生贄など厄介な儀式の多い故郷より、簡素で自由なこの土地で生きていくことを決意します。
ところで、先スペイン期の文明では、人間を生贄として神に捧げる人身御供の習慣が存在していました。人身御供の習慣は、古代社会には多くの地域で行われていました。今日われわれは日々死と向かい合って生きている分けではありませんが、古代社会では人命は災害や飢饉によって簡単に失われるものでした。こうした禍は神の意志によるものと考えるしかありませんので、人間にとって最も大切な命を捧げることによって災害の発生防止を祈願します。多くの場合、人身御供の習慣は消滅していきますが、先スペイン期の中南米では16世紀まで行われていました。

アステカでは、太陽の不滅を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げたそうですが、インカ帝国でもマヤでも同様の習慣があったようです。なぜこのような習慣が長期間続けられたのかは分かりませんが、先スペイン期の文化や信仰と深く結びついていたようです。そこにあっては、生贄に選ばれることは大変名誉なことであり、アステカでは球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在ったとのことです。インカでは、生贄は村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられたそうです。マヤでは、干ばつになった時14歳の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、ククルカンの聖なる泉に投げ込まれたそうです。いずれにしても、人間にはどうすることもできない自然の前にあって、人間を差し出すことによって神と人間の結合を強固にしようとしたと思われます。
 もちろん、生贄に対する批判もありました。トルテカ帝国が生贄を禁止したとされますが、真偽の程は不明です。生贄を廃止しようとすると、強力な反対勢力が現れて、結局失敗してしまうようです。また、この映画ではマヤの王が生贄の儀式を嫌い、災難の原因は生贄の儀式をしない王にあると批判され、結局故郷に帰らず、新天地で生きていくことを決意します。

 この映画の主張するところは明らかで、因習に囚われた祖国を捨て、自由な新天地アメリカで生きていくという、アメリカ人好みのテーマです。したがって、内容的にはつまらない映画であり、時代考証もいい加減に思われましたが、「マヤ」という非常に特殊なテーマを扱っているので、許したいと思います。なお、こうした事件が本当にあったかどうかについては分かりません。多分創作だと思われます。

チチェン・イッツアの神殿のケツァルコアトル。ケツァルコアトルは「羽毛ある蛇」です。
















代々木公園にあるケツァルコアトル像。メキシコの当時の大統領夫人来日記念として、メキシコ政府より贈られたものだそうです。かなりデフォルメされていて、ケツァルコアトルとは気づきにくいと思います。











アポカリプト

2006年のアメリカ映画。監督はイエス・キリストの最期を描いた『パッション』の監督メル・ギブソンです。この監督は自分のイデオロギーを主張するために、平気で事実を捻じ曲げる傾向があるそうで、この映画はまさにそうした映画です。監督のイデオロギーとは、白人クリスチャンを上位におく右派キリスト教の思想で、このブログの「映画でヒトラーを観て 紳士協定」の世界でした。この映画に対しては、マヤ学の研究者から強い批判があったそうです。

 ドラマの時代は16世紀の初め、コロンブスの大西洋横断後まだそれほど経っていません。場所はよく分かりませんが、ユカタン半島のどこかでしょう。ドラマは、マヤの軍隊が密林の中で素朴で「野蛮」な生活をしている村々を襲い、生贄にするための村人を連れ去るところから始まり、その中に主人公の青年も含まれていました。いよいよ彼が生贄にされようとするときに皆既日食がおき、彼は脱出に成功します。その後は逃げる主人公とそれを追う兵士とのサバイバルゲームです。さすがに映像は見事でしたが、私は「血みどろ」は苦手なので、時々目を逸らし、早送りして観ました。

 出演者はすべて現地人から選び、全編マヤ語で話すという映画で、マヤ文化を紹介する映画かと思っていましたが、実際はまったく逆で、マヤ人の野蛮性を強調するための手段でした。また主人公は都に連行されますが、それは旧約聖書に登場する悪徳と退廃の町ソドムとゴモラそのものでした(「映画で聖書を観る ソドムとゴモラ」)
 そして最後に、主人公と兵士が海にたどり着いた時、海には見たこともない大きな船が並び、小舟でキリスト教の宣教師が十字架を掲げて岸に向かっていました。そしてその姿は神々しいばかりに輝いていました。この映画のタイトルである「アポカリプス」とは黙示録であり(「映画で聖書を観る 新約聖書~ヨハネの福音書」を参照してください)、ヨーロッパ人が堕落した野蛮な世界に神の啓示を伝えるために到来した、といった意味でしょうか。この映画の冒頭に「文明が征服される根本原因は、内部からの崩壊である」というナレーションが入ります。それは、古代アメリカ文明を滅ぼしたのはヨーロッパ人ではなく、自分たちの内部崩壊であり、それに対して白人が神にかわって懲罰を下し、神の啓示を伝えるのだと言っている分けです。

 初めは真剣に見ていたのですが、だんだん腹が立ってきて、「血みどろ」も嫌だったので、早送りしてみてしまいました。こんなひどい映画はかつて観たことがありません。前の「太陽の帝王」は、幾分単純なアメリカ的価値観の押し付けではありましたが、悪意は感じませんでした。しかしこの映画は悪意の塊であり、いくらマヤを扱っているからといって、とても許せません。このような映画が広く受け入れられているということは、アメリカにはなお「紳士協定」の世界が強く残っているということでしょうか。

アギーレ/神の怒り

1972年の西ドイツの映画で、スペイン人によるエル・ドラド(黄金郷)探索の物語です。

 1521年にコルテスはアステカ帝国を滅ぼし、1533年にはピサロがインカ帝国を滅ぼして、膨大な黄金の工芸品を奪い、これらをすべて溶かして延べ棒とし、スペインに送りました。こうした中で、アンデスの西側のアマゾン流域の奥地に黄金郷があるという伝説が生まれました。













地図はグーグル・アースで、線は私がいいかげんに書いたものです。












この黄金郷を発見するために、1560年にスペインは多分数百人の探検隊を派遣しました。出発点のキトは、赤道直下の標高2850メートルの位置にあり、かつてはインカ帝国の第二の都であり、現在はエクアドルの首都です。まず、大西洋を横断するのも命がけの時代で、さらにキトにまで達するのも大変です。そしてキトからさらにアンデスを登り、こんどはアンデスの東側斜面を下ることになります。兵士たちは鉄の鎧兜を身に着け、荷物運びのためのインディオの奴隷は鎖につながれています。さらに食糧のための家畜や大砲まで運んでいます。なぜか何人かの女性が同行しており、しかも美しく着飾っています。
 峻厳な稜線を、長い隊列が進んでいく光景は、大変幻想的であると同時に、場違いで滑稽でもあります。やがて探検隊は激流が渦巻く川に行き当たり、ここで指揮官はこれ以上の進行を断念して、40名だけ選んで彼らにこの先の探検を委ね、1週間たって戻らなければ全滅したとみなすと宣言します。このあたりまでは若干の記録が残っているそうですが、その後40人がどうなったのかは分からず、一人も戻りませんでした。したがってここから先は、創作ということになります。
 40人の中には、隊長の愛人と副隊長アギーレの15歳の娘も含まれていました。本人たちの希望によるものだということです。3槽の筏を組んで川を下りますが、1槽は転覆し、またしばしば現地人の攻撃を受けて、人数はしだいに減っていきます。そうした中でアギーレは反乱を起こし、隊長を殺害し、スペインからの独立を宣言し、ここに帝国を樹立することを宣言します。そしてこの頃から人々はしだいに狂気に陥っていきます。それでもアギーレは、コルテスやピサロが成功したのに、自分が成功しないはずはないと信じ、ひたすら前進します。この頃から彼は「俺は神の怒り」であると口走るようになります。

 「神の怒り」という言葉の意味は私にはよく分かりません。旧約聖書において「神の怒り」とは信仰をもたぬものに対する怒りであり、新約聖書においては「原罪」であろうとおもわれます。したがってすべての人間は「神の怒り」のもとにあるわけで、「俺は神の怒り」だというのは「俺は神だ」といっているのと同じだと思います。アマゾン源流の秘境の真っただ中で、アギーレはあたかもすべてを支配しているかのような錯覚に陥ったのではないでしょうか。そして実は何も支配しておらず、むしろ彼は巨大な自然に完全に支配されていたのだろうと思います。彼は「神の怒り」を受けていたのではないかと思います。

 当時のスペイン人は、ある意味で偉大であったように思われます。欲に駆られていたとはいえ、歴史の巨大な流れと強烈な冒険心が彼らを突き動かし、善きにつけ悪しきにつけ、強烈な意志をもって世界史の扉をこじ開けようとしていました。確かに彼らの行為は、インディオを踏みつけ、スペインに物価高騰をもたらし、また多くの有為な若者が無為に死んで行きました。あたかも『ドン・キホーテ』のように、彼らは新しい世界史の扉に突進していったように思われます。

この映画は何を言いたいのかよく分からず、解釈することが難しい映画でしたが、美しい映像と極限状態での狂気の姿は必見に値します。なお、この映画のアギーレは、サッカーの日本代表監督としてメキシコから招かれたアギーレとは無関係です。



2014年9月12日金曜日

ラス・カサスを読む

 生涯をインディオの保護に捧げた、ラス・カサスに関する2冊の本が書棚にありました。彼は、16世紀にインディオの保護を訴えた人物で、色々議論が分かれる人物です。2冊を読み比べてみたいと思います。さらに彼とは対極にあるコンキスタドルに関する本を紹介します。

ラス・カサス伝 新世界征服の審問者

染田秀藤著 1990年 岩波書店
 アメリカ大陸の現地人にとって、ヨーロッパ人の到来はまさに宇宙人の襲撃に匹敵する衝撃だったと思われますが、スペイン人にとっても、この広大な土地と人々をどのように扱うべきか戸惑いました。とりあえずスペイン人は、従来型、つまりイベリア半島においてレコンキスタにより新たに得た土地と領民を戦士に与えるという方式を採用しました。そして、一獲千金を夢見て命がけで「新大陸」に渡った征服者たちは、貪欲に利益を追求し、その結果インディオの生活は徹底的に破壊されました。

 ラス・カサスの父は、コロンブスの第2回遠征に同行し、ラス・カサス自身も1502年にエスパニョーラ島に航行し、インディオを使役して農場経営を行いました。ラス・カサスが18歳頃のことでした。しかし、やがてインディオの悲惨な状況を目の当たりにし、1506年に司祭に叙任され、さらに司教に任命されると、「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけました。
 スペイン本国も、インディオに対する対処の仕方が分からず、当初スペイン本国もラス・カサスの意見に耳を貸し、改革を実行したりしますが、「新大陸」の征服者によるラス・カサスに対する憎悪は凄まじく、改革案もほとんど実施されることはありませんでした。それでも彼はインディオの保護を叫び続け、1566年に死去するまでインディオの保護を訴え続けました。

 ラス・カサスについての評価は、時代により異なります。「スペインの征服事業に関しては、武力による金銀財宝や領土の獲得を目指した、もっぱら軍事的な性格を帯びた企てであるとする解釈と、先住民のキリスト教への改宗、つまり魂の獲得と文明化という精神的かつ文化的目的をもった歴史的事業であったとする解釈がある。前者の解釈によれば、スペイン人征服者は物欲に駆られて先住民を殺戮した極悪非道な人間であり、キリスト教化はスペインがインディアスを支配し、掠奪するための単なる口実にすぎなかった。この解釈は歴史的に見れば、16世紀、つまり、近代の世界システムが確立しはじめたころ、イギリス、フランスやオランダなど、後発の植民地国家がスペインによるインディアス独占支配体制を打破するという政治的かつ経済的な意図のもとに行った反スペイン運動の中で生まれたものである。」スペイン人はこれを「黒い伝説」と呼び、ラス・カサスを「黒い伝説」の創出者として弾劾ました。
 「一方、(19世紀に)スペインから独立したものの、慢性的な国内の政情不安と経済的疲弊を解消できず、その結果新植民地主義の犠牲になって経済的な自立を阻まれ、苦悩するイスパノアメリカでは、先住民は近代化を阻害する要因で、スペイン人征服者こそイスパノアメリカの建設者であると考えられ、征服は美化された。……それは「白い伝説」と呼ばれている。そのような征服史観においてラス・カサスが積極的に評価されるはずはなかった。……ラス・カサスは「黒い伝説」では征服の非道な実態を告発する重要な証人となり、「白い伝説」では時代錯誤の精神の持ち主と偏執狂者とみなされた。」
 「しかしそれらの征服史観には、共通して被征服者であるインディオの視点が完全に欠落していた。つまり、双方ともヨーロッパ中心主義に基づく見解にすぎなかったのである。」これに対して、「インディオを国家の基本的な構成要素とみなして彼らの自由と人権を擁護し、国民社会への統合を目指すインディヘニズムと名付けられる運動」が高まりました。そこにおいては、「ラス・カサスは新植民地主義に反対する先駆的な存在としてその現代的意味が評価されたのです。一方、「カトリック世界では解放の神学」と呼ばれる新しい教会運動が登場した結果、行動する聖職者ラス・カサスの神学理論が評価」されるようになりました。

 このように、ラス・カサスについての見解が時代により、地域により大きく異なってきたため、著者は事実関係を確実に書くことを心掛けています。そのため、私のような素人が読むには幾分厄介で、途中をかなりとばして読んでしまいました。なお、ラス・カサスは、インディアスにおける労働力としてアフリカの黒人を投入すればよいと主張したことがあり、これについて長く批判されてきました。このことは、当時のラス・カサスがアフリカ人について無知だったことによるもので、後にラス・カサスはこの発言を後悔し、撤回しています。


 ところで、何の根拠もないことですが、中南米に関する本を何冊も読んでいるうちに、これを近代世界システムに組み込んで説明することが馬鹿馬鹿しく思われてきました。もう一度、中南米の側から、世界史を見直して見る必要があるように感じましたが、もはや私にはその気力が残っていません。


カール5世の前に立つラス・カサス

ラインホルト・シュナイダー著(1938) 下村喜八訳 1993年 未来社
ラス・カサスを調べていると、私の個人的な感想としては、同時代に生きたルターと大変よく似ているように思います。ルターといえば宗教改革の火ぶたを切った人物であり、決して信念を曲げず、1521年のヴォル帝国議会で自説を撤回するよう求められた時、「私にはどうすることもできない、私はここに立つ」といったとされます(ただしこの話は伝説で、事実とは違うようです)

1517年、ラス・カサスはマドリード北方のバリャドリードの宮廷に滞在し、そこにスペイン王になったばかりのカルロス1(後に神聖ローマ皇帝カール5)が滞在していたため、インディオ保護のための活動を精力的に行います。この年、ルターがヴィッテンベルク教会の城門に「九十五カ条の論題」を張り出しました。カルロス1世は、人道的な理由より、「新大陸」で征服者たちに好き勝手にさせ、統制がきかなくなることを心配し、一定の保護政策を決定します。
 その後ラス・カサスはスペインと「新大陸」を何度も往復し、インディオ保護を徹底させようとしますがうまくいかず、むしろ征服者たちの彼に対する憎しみはますます激しくなっていきます。そうした中で、1551年にバリャドリードでカルロス1世の前でインディオ問題を公開討論することになりました。この小説は、この時のラス・カサスを描いています。相手は、アリストテレス学者として高名であったセプルベダで、インディオは野蛮人であるとして、アリストテレスの「先天的奴隷人説」をインディオに適用します。これに対してラス・カサスは、自らの経験をもとに先住民の大半が文明的生活を送っていると証言し、異教徒であるインディオの自然権を主張しました。討論では、おおむねラス・カサスの主張が認められたようですが、その後もインディオ保護は進まず、1556年に彼はスペインは神の懲罰を受けて、必ず没落するだろうと予言しつつ死んでいきました。なお、この年カルロス1世も死亡します。

 本書にはベルナルディーノという架空の人物が登場します。彼は「新大陸」でインディオを酷使して富を蓄え、たまたま討論のためバリャドリードに向かっていたラス・カサスの船に同乗していました。本書は彼を通じてインディオの悲惨な状況を語ります。そして帰国後も、親戚や友人たちに歓迎されませんでした。お前たちが貴金属を大量にもたらしたおかげで、貨幣価値が下がり、蓄えた富がほとんどなくなってしまったと非難されます。結局、インディオを酷使して得た富は、スペインに何ももたらさなかったわけです。


 本書の著者ラインホルト・シュナイダーはドイツの作家で、ナチス時代にはユダヤ人の迫害を批判して迫害された人物です。また戦後にはドイツの再軍備やアメリカによる核兵器の配備に反対し、いわば非国民として非難されました。ラス・カサスもスペインの繁栄を願わないのかと非難されましたが、彼はこのような非道を続ければやがてスペインは没落するという危機感を抱いていました。シュナイダーは、自分の行動をラス・カサスに投影し、このままではドイツは没落してしまうという危機感を表明したかったのだと思います。

マチューカ 未知の戦士との戦い

1599年マチューカ著、青木康征訳 1994年 岩波新書(アンソロジー 新世界の挑戦12)

 マチューカは、コンキスタドル(征服者)として富と地位を求めてインディアスの各地を転戦します。軍人としての彼の能力は高く評価されていましたが、なかなか出世できませんでした。彼はヨーロッパに帰国中、たまたまラス・カサスと論争したセプルベダの著書を知って共鳴し、ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告(プレビシマ)」に対する反論書を書くことを決意します。これが本書「未知の戦士との戦い」です。
 彼はラス・カサスの著書の間違いを、かなり些細なことまでとりあげ、ラス・カサスの説の間違いを指摘していきます。インディオを生まれつき残虐で裏切り者である、と言います。それは戦士として直接インディオと戦ったマチューカにとっては嘘偽りのない事実だったことでしょう。また彼は、インディオと数えきれほどの戦いを行っており、敵が異なれば武器も戦術も異なります。それはまさに「未知の戦士との戦い(ミリシア)」であり、それなりに面白い内容であり、またその限りでは説得力があります。

 しかしマチューカとラス・カサスとの間には半世紀ほどの開きがあります。マチューカが生まれたのは1555年頃であり、ラス・カサスが死んだのが1556年で、この間にインディアスの状況は激変しています。ラス・カサスの時代にはインディアスをどの様に扱うか模索していた時代でしたが、マチューカの時代にはインディアスの植民地化は既成事実となっていました。ラス・カサスの時代には、なぜスペイン人はインディオに対して暴虐な扱いをするのかと問われましたが、マチューカの時代にはなぜインディオはスペイン人に反抗するのか、反抗するなら倒すしかないということになります。

 マチューカの主張は、コンキスタドルはラス・カサスが主張するような暴虐者ではないということ、またインディオへの武力行使は侵略ではなく、法に基づいて行われる懲罰であり、インディオはラス・カサスが主張するような善良な人間ではないということです。マチューカは、ラス・カサスが指摘する多くの事件の「発端と状況」を論証し、ラス・カサスが間違っていることを指摘します。しかしマチューカはもっと大きな「発端と状況」を見ていませんでした。すべての発端は、コロンブス以来のスペインによる侵略と暴虐であり、それゆえにインディオがスペイン人に強い敵意を示して攻撃してくるのは当然のことなのです。その意味で彼の視野は狭すぎました。しかし当面彼の著作は広く受け入れられ、逆にラス・カサスは忘れ去られていきます。


映画で日本史上の反乱を観て

 ここで紹介する三本の「反乱」に関する映画には、相互にまったく関係がありません。たまたま私が過去に観たというだけのことです。

伊賀の乱 拘束

 伊賀の乱とは、織田信長軍の攻撃に立ち向かった天正伊賀の乱のことで、この事件については、第一次伊賀の乱を扱った「天正伊賀の乱」(2005)、第二次伊賀の乱を扱った「戦国 伊賀の乱」(2009)、第二次伊賀の乱で滅亡直前の一コマを扱った「伊賀の乱 拘束」(2007)がありますが、私が観たのは「伊賀の乱 拘束」です。
 
 まず、忍者について一言触れたいと思いますが、ここでは時代劇に登場するような忍者を創造しないで下さい。孫子以来、戦争では諜報・謀略活動が不可欠になっており、特に戦国時代になると、支配者はそれに熟練した人々を、個人や集団で雇うようになります。一方、中世以来農村の権利・権力関係は複雑に入り乱れていたため、百姓たちは水利や自衛などのために地縁的な結束を強め、その範囲内に住む惣(すべて)の構成員が参加する惣村が形成されるようになり、さらに幾つかの惣村が連合して惣国となるともあります。そして、南北朝時代以来の相次ぐ戦乱の中で、自衛のために武術を習得する農民が現れ、彼らは時には権力者に反抗したり、時には傭兵として雇われたりします。こうした集団が、後に忍者と呼ばれるようになったと思われます。
伊賀や甲賀、さらに大量の鉄砲で武装した根来衆(ねごろしゅう)や雑賀衆(さいかしゅう)、さらに長野市の戸隠山の修験者が忍者になっていくような場合もあります。これらの集団を厳密に「惣」と呼ぶことができるかどうかは知りませんが、戦乱の中でさまざまな集団が形成され、そうしたものの中に伊賀の忍者も存在したわけです。ちなみに戸隠流派の格闘術は今日まで継承され、アメリカのCIAFBIの情報部員と捜査官は「戸隠流格闘術」の研修と訓練を行っているとのことです。
 
 1579年に織田信長の次男織田信雄(のぶかつ・北畠信意)は、信長に無断で8000の兵を率いて伊賀に侵攻しましたが、撃退されてしまいます。これが第一次天正伊賀の乱です。その後信長は忍者の危険性を悟り、甲賀と同盟し、伊賀に内通者を得て、1581年に4万の大軍で伊賀を攻撃しました。これが第二次伊賀の乱で、伊賀は信長に屈服します。そしてこの映画は、伊賀の敗北直前の一コマを扱っています。舞台は伊賀山中の洞窟、登場人物は5人だけです。そしてヒロインの佐和は、最初から最後まで縛られたままでした。だからサブタイトルが「拘束」なのでしょうか。あるいは他に意味があるのでしょうか。主人公の多岐野は、密命を受けて甲賀の密偵を探索するために、この洞窟にきました。そして5人の虚々実々のかけ引きが展開され、結局生きて洞窟を出たのは主人公だけでした。この映画の内容はそれだけで、時間も65分と短い映画でした。いわば、極限状態での心理戦を描いたものだと思われますが、それなりに面白く観ることができました。
 1582年に本能寺の変が起きて信長が死にます。当時堺に滞在していた徳川家康は急遽脱出することになりますが、主要通路は明智光秀に抑えられていたため、伊賀を越えて脱出することになりました。「神君伊賀越え」です。その際伊賀が家康の脱出を助けたことから、以後家康によって厚遇されることになります。こうして、太平の時代に忍者が姿を消していく中で、伊賀の忍者は生き残ることに成功します。


郡上一揆

2000年に制作された映画で、次に見る「草の乱」と同様に、緒方直人が主演しています。郡上一揆とは、江戸時代中期の1754年から郡上藩で四年間続いた農民一揆で、映画はこの反乱をかなり史実に忠実に描いています。映画の政策にあたっては、地元を中心にのべ3000人以上のエキストラがボランティアで参加したそうです。

 まず、この一揆が起きた背景について述べたいと思います。江戸幕府は、農業を経済の基盤とする政権として発足しましたが、貨幣経済の進展などによる価格上昇などにより、はやくも17世紀後半には財政難に陥ります。18世紀前半に徳川吉宗が享保の改革を行い、新田開発や増税、さらに自らの質素倹約などにより財政再建を図りますが、基本的には農業を基盤とした政策で、増税は農民を苦しめ、各地で農民一揆が頻発するようになります。郡上一揆は、こうした時代を背景として起きました。名君と称えられた徳川吉宗の負の遺産が、表明化しつつあった時代です。
 郡上藩は、岐阜県郡上市にある小藩で、周りを山に囲まれて農業的に貧しく、つねに財政難に悩まされていました。当時の藩主は金森頼錦(かなもり よりかね)で、彼は文化人としても優れ、また幕閣の出世コースにのっていたため、多額の経費がかかりました。そこで藩は、いろいろ口実をつけてしばしば臨時の税を徴収していたのですが、それでも財政状態は一向に改善せず、また農民の不満も高まっていました。そうした中で、藩は徴税方法を検見(けみ)法に変更すると通告したのです。徴税方法を変更するには、幕閣の要人の同意が必要ですが、頼錦は要人との交際が広かったため、これを利用して変更の承認を取り付けました。そしてこれが後に重大な問題を引き起こすことになります。

 ところで、農民からの税の徴収方法には、税額が固定された定免(じょうめん)法と生産量に応じて税額を決める検見法があります。徴収する側にとってもされる側にとっても、どちらの徴収法にも一長一短がありました。吉宗は、検見法から定免法に変更することによって、税収の安定を図りました。この徴収方法は、不作の時は農民にとって負担が重くなりますが、豊作の時は余剰を蓄えることができます。一方、検見法は不作の時には税額が減るため農民は救われますが、徴収する側にとっては税収が安定しません。したがって、どちらが良いのかは一概には言えないのですが、検見法にはどちらの側にとっても問題がありました。徴収する側にとっては、それぞれの田における収穫量をチェックするために、膨大な手間がかかります。徴収される側にとっては、役人たちが恣意的に収穫量を多く見積もる可能性があります。そして財政難に喘ぐ郡上藩の場合、徴収方法の変更の意図は明らかでした。

 映画は、定次郎(緒方直人)という父親になったばかりの若い農民に焦点を当てて、一揆の経過を詳しく描き出しています。この一揆が特異なのは、暴力的行為は一度起こったのみで、最初から最後まで非常に統制がとれていたことです。それに対し藩は暴力で農民を脅し、幕閣の一部と結んで農民の不満を隠ぺいし、検見法を押し通そうとしました。これに対して農民の怒りが高まっていきますが、映画はその怒りを定次郎という若い農民を通して描き出します。一揆の経過はかなり詳細に描かれ、最後は将軍に直接訴えるべく、死罪を覚悟で目安箱への箱訴を行います。
 当時の将軍は吉宗の長子であった徳川家重で、彼には言語障害がありましたが、知能が劣っていたわけではなく、また有能な側近がいました。家重の言葉を唯一聞き取ることができた大岡忠光や、後に一時代を築くことになる田沼意次などです。家重は、箱訴で郡上藩の紛争を知ると、田沼らに徹底的な調査を命じます。その結果、これに関わった幕府の要人が多数処分されるとともに、郡上藩主金森頼錦は改易となり、定次郎を含め一揆に参加した多数の農民も処刑されました。一揆により藩主が改易された例は過去に一度あったそうですが、幕府の要人まで処分された例はないそうです。その意味において、郡上一揆は幕府の要人や藩主の理不尽な行為に対して、農民の怒りが勝利した稀有な例です。
 もちろんその背景には、社会の変動や幕府内部の権力闘争などがありました。この時代には貨幣経済が急速に進展し、そのことが大名の財政難と増税を引き起こすとともに、幕府自身も農民への増税のみによる財政難の打開は困難となりつつありました。一揆の処理を任された田沼意次は、その後幕府内で急速に力をつけます。その政策は、流通を刺激し、内需を拡大して商人に利益を得させ、彼らから税を徴収するという画期的な政策でした。彼の政策にはさまざまな功罪がありますが、その後の経済の在り方に大きな影響を与えたことは間違いありません。
 一方、この頃農村にも貨幣経済が浸透し、農村に大きな変化が生まれつつありました。本来江戸時代の農民は田畑永代売買禁止令によりその地位が確保していましたが、この頃から土地を質に入れて質流れという形で土地を失う農民が生まれ、一方で土地を集積して大地主となる者が現れてきます。つまり農民の間に貧富の差が拡大するようになります。そして明治時代には、ほとんどの農民が土地を失っていきます。郡上一揆は、こうした大きな流れへの過渡期に起きた事件でした。
 その後の郡上藩では、改易された金森頼錦の後任として、幕府より丹後国宮津藩の青山幸道が新たな郡上藩主にとして転封を命じられました。当時の郡上藩は、ずたずたに引き裂かれていました。旧藩士は浪人となり、農民の間でも一揆の賛成派と反対派の対立が残っており、財政難は相変わらずの状態でした。それでも青山幸道は農民への配慮を欠かさず、また人々を融和させるために夏の盆踊りを推奨し、これが郡上おどりの起源となったとされますが、この点についてははっきりしないようです。


 2001年小泉純一郎氏が首相に就任した後、前年に制作された「郡上一揆」を激賞しました。もしかすると小泉氏は、この映画に触発され、巨悪を倒すために総裁選への出馬を決意したのかもしれません。小泉氏にとって巨悪とは何だったのでしょうか。郵政か、あるいはそれを基盤とする旧竹下派だったのでしょうか。


草の乱

2004年公開の映画で、秩父事件の120周年を記念して制作されました。「郡上一揆」を制作した神山監督によって制作され、出演者もかなり重なっており、また、のべ8000人以上のエキストラがボランティアで参加し、自主製作・自主上映の作品としては最大規模の映画となりました。















 2007年 日本・カナダ・フランス・イタリア・イギリスの合作映画、雪深い信濃国を幻想的に描いています。



















 まず事件の歴史的な背景を述べておきたいと思います。幕末期に日本が開国すると、生糸が日本の主要な輸出品となります。当時、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランス、イタリアで蚕の流行病が発生し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや、太平天国の乱によって清の生糸輸出が振るわなくなっていたため、日本の生糸の輸出が急増したわけです。「シルク」という映画がありますが、フランスで蚕に流行病が発生し、日本へ蚕の卵を買い付けに行くという話で、主人公は幕末期の信濃の国に潜入します。もちろん、この映画には別のテーマがありますが、こうした時代を背景に制作された映画だということです。そして秩父も、この時代に養蚕業で栄えます。
 しかし急激な輸出増加のため粗製濫造が目立ち、日本の生糸価格が下落します。そうした中で、1872(明治4)に、群馬県に近代的な設備を整えた富岡製糸場が設立されたわけです。富岡に製糸工場が建設された理由の一つは、周辺に養蚕業を営む地域が多かったことで、秩父もその一つでした。ところが、1870年代にヨーロッパで大不況が始まり、1880年代に生糸価格が大暴落し、秩父もその影響をまともに受けます。ちょうどこの頃地租改正が行われて農民は重税に喘ぎ、自由民権運動の影響を受けて各地で暴動が発生します。これらの一連の事件は激化事件と呼ばれ、その最後にして最大の事件が秩父事件です。

映画は、主人公の井上伝蔵(緒方直人)が、1918(大正7)に死を迎える少し前に、妻と息子に秩父事件について回想するところから始まります。井上伝蔵は、秩父で代々続いた商家「丸井」の当主で、商用で上京するうち自由民権運動に共鳴し、自由党に入ります。「丸井」は農民から繭を買い取り、それを市場で販売していたのですが、市場価格が暴落し、農民が困窮する姿を目の当たりにしていました。そうした中で、1884年(明治17年)「困民党」が結成され、伝蔵も指導者の一人として参加、さらに代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理となりました。伝蔵は、「郡上一揆」の定次郎と同様に、子が生まれたばかりでした。
 困民党は、18841031日に蜂起し、早くも翌111日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄しました。しかし政府の動きは早く、警察隊、憲兵隊、さらに軍隊を送り、114日には事実上鎮圧されました。その後も参加者や首謀者が逮捕され、4000人以上が処罰され、田代栄助や井上伝蔵にも死刑の判決が下されました。しかし伝蔵は秩父から脱出することに成功し、やがて北海道にわたって名を変え、別の女性と結婚し、子供までもうけます。こうして33年の歳月が流れ、伝蔵は死を迎えるにあたって妻子に、自分が死刑囚の逃亡犯であることを明かすとともに、秩父事件の顛末を語ります。

映画では扱われていませんでしたが、伝蔵の本妻が呼び寄せられ、妻子に看取られながら死んでいったとのことです。享年65歳でした。