2014年5月29日木曜日

予備校発「新学力」考

 1995年に、雑誌「教育評論」から「再び学力とは」<特集>のための原稿執筆を依頼されて、書いたものです。「新学力」とは、1889年の学習指導要領で提唱されたもので、知識偏重ではなく、問題解決学習を重視たものです。それは、当時すでに始まっていた「ゆとり教育」と連動するものでした。こうしたことを背景に、教育評論が「新学力」について各分野の人から意見を求め、私に原稿依頼があったわけです。その原稿を、ここでそのまま掲載します。すでに20年近く前のものなので、「教育評論」にもお許しいただけると思います。なお、ここで書かれた内容は、このブログの「グローバル・ヒストリー 第2章 歴史とは何か」に反映されています。


「新学力観」について
文部省(現文科省)の「新学力観」についての記事を読むと、当たり前すぎて陳腐な観さえする。まじめに生徒の教育に取り組む多くの先生たちは、いかにしたら生徒たちに生きた教育を与えることができるかに日夜とりくんでおり、事実上それを妨害しているのが、知識偏重の教育行政ではなかったのか。ともあれ、この「新学力観」なるものにより、ようやく大手をふって生きた教育をおこなうことができるのかといえば、決してそうではあるまい。なぜなら、入学試験が知識偏重である限り、知識偏重の教育を根本的に改めることは困難だからである。そして、このことを最も敏感に感じているのは他ならぬ予備校であり、予備校は当面、受験産業として生き延びることができるからである。
予備校の「学力観」
 予備校にとっての学力とは、生徒が希望する学校に入学できる学力であり、建て前上は「真の学力」などというものは問題にならない。そして世間でも、予備校とは、そのようなところと考えられている。しかし実態は少し異なっており、予備校は意外にまじめに教育にとりくんでいるのである。その理由は、私の考えでは二つある。一つは講師の態度である。予備校講師には既成の教育に反発しアウトロー化した、あるいは幾分屈折した講師が多く、独自の教育観に基づいた個性的な講義を実践している人が多い。そして予備校は、基本的には生徒の出席率と満足度が高ければ講師の講義方法や内容に口をさしはさまない。また、現実的な問題として、出席率と満足度を高めることは、予備校講師が存立するための不可欠の前提であるが、単なる知識偏重の受験教育では生徒を満足させることはできない。そのため講師は生徒の反応を敏感に感じとって、さまざまな工夫を強いられるのである。そして出席率を高めるということは、とりもなおさず他の講師の出席率を低めることであり、この意味において予備校では常にかなり熾烈な競争の原理が働いている。もちろん、このような競争の原理は、時には眉をひそめさせるような対立を引き起こすこともあるが、全体としては講義の質を高める役割を果たしていることは事実である。
 予備校がまじめに教育にとりくむもう一つの理由として、予備校の深刻な経営上の問題がある。数年前から受験者人口は急速に減少しており、この傾向が今後ますます強まることは明白で、どの予備校も生き残りをかけてさまざまな模索を行っている。そこでは、当然予備校間での生徒の奪い合いも展開されるであろうが、もはやそのような小手先の競争だけでは生き残れないほど事態は切迫しているのである。つまり、もはや受験教育だけでは、生徒を引きつけられないのである。一方では、低学力層のケアや体験学習・講演会など、多様な生徒の多様な要求に応えるだけでなく、映像、コンピューター・グラフィック、衛星放送など最新の機器を用いた新しい教育システムの開発など、さまざまな模索が行われている。今、予備校が生き残りのために目指しているものは、たんに受験のための「狭間の産業」というだけでなく、公教育を補完しうるような新しい教育産業である。したがって、文部省が「新学力観」なるものを提唱するまでもなく、営利を追求する予備校は、その鋭利な臭覚によって生徒の新しいニーズを嗅ぎとり、大規模な転身をとげるための努力をすでに開始しているのである。
一予備校講師の「学力観」
 このような予備校のなかに身をおいて生きる、一予備校講師たる私の「学力観」とはどのようなものか。私のおかれた立場は、まず何よりも大学に合格できるだけの知識を生徒に与えねばならないということだ。生徒は受験に失敗して辛い思いをし、さらに家族や周囲の幾分冷たい目に耐えながら、高額の授業料を払って予備校に通い、しかも確実に合格するという保証もなく不安に怯えている。だから私の第一の義務は、彼らを合格させることである。だから、ある程度の知識偏重の教育は避けられないのだが、しかし私の講義は決して知識偏重の受験教育に偏重しているわけではない。その理由は、予備校を取り巻く新しい状況の変化ということもあろうが、何よりも私の良心にある。つまり、真の人間の価値は「レベルの高い大学」と受験界で評価されている大学に行くことではなく、すぐれた知性をもつことにある、というごく当たり前の良心である。また、もっと現実的に考えても、たんに暗記だけによる知識では入試問題を解くことは困難であるという、これまた当たり前の事実がある。この事実を生徒は本能的に知っており、したがって彼らは詰め込み教育だけを行う講師には高い評価を与えないし、それを敏感に感じとっている講師は、常に「意味」を理解する能力を養うためにさまざまな工夫を強いられている。私も、そのような講師の一人であることはいうまでもない。
 ところで私は「世界史」の講師である。私には中学一年の子どもがいるが、これがまったく社会ができないのである。そこで、今、子どもが学習している「歴史」の教科書を見てみたのだが、そこには「権力」「実権」「支配」「革命」といった言葉が当たり前のように書かれている。このような言葉が中学一年生に理解できるのだろうか、私自身が、かつてどうだったのかは記憶にないが、自分の子どもを見ていて理解できるとはとても思えない。もちろん学校では先生がこれらを理解させるためにさまざまな努力を行っているだろうが、結局は、これらを十分理解しないまま、受験のためにとりあえず知識だけを詰め込み、さらに高校の教科書に登場する膨大な知識を、これまたほとんど理解しないまま詰め込んで予備校にやってくるのではないだろうか。事実一部の生徒は、予備校での講義を通して膨大な知識の意味と繋がりを見出し、急速に力をつけることがある。つまり、高校での教育は現場でのさまざまな努力にもかかわらず、結果的には詰め込み教育に終わり、逆に予備校で、より知的な教育が行われているのではないだろうか。これは奇妙な逆説だが、私にはそのように思えてならないのである。このことは、文部省の「新学力観」に示された理念にも関わらず、現在の受験体制が存在するかぎり、変わらないのではないだろうか。そして「受験」で生活している一予備校講師が、受験体制を批判するのもまた奇妙な逆説であるが、すでに予備校も講師も、現実的要請から受験教育からの脱皮を図って悪戦苦闘しているのである。
「世界史A」について
 「新課程」で「世界史A」なるものが鳴り物入りで登場したことは周知の事実であり、すでに高校では、この授業が開始されている。この「世界史A」こそが、文部省のいう「新学力観」の「世界史」における実践であり、生徒に考える能力や国際的視野を与えることを目的としたものである。しかし、ここでも致命的な問題点は入試である。文部省は「世界史A」をセンター試験で実施することを決めており、大学にもこれを生徒に課すことを強く求めているのだが、そもそも「考える能力」とか「理解力」などというものは、「小論文」のようなテスト形式でなければ判定が困難であり、ましてマーク・テストに向かないのは明らかである。なぜなら、絶対的な客観性が求められるマーク・テストは、どのように工夫しようとも、結局は知識テストにならざるをえないからだ。このことは、すでに「現代社会」において明らかとなっており、結局、試験の直前に「現代社会」を試験科目からはずすことになってしまったのである。センター試験が実施される前に模擬試験を実施しなければならない我々にとっても、頭の痛いところである。しかも、「半分以上の教科書に記載されている事柄を出題する」という、入試センターの規定にしたがうとするなら、どのような問題を作ったらよいのか想像もつかない。さらに、個人的には「世界史A」の枠組みにも若干の疑問を感じる。周知のごとく、「世界史A」は「地域文明の歴史的特色」「諸文明の接触と交流」「19世紀の世界」「現代の世界」という四部からなっており、後の二つが近現代史で、この近現代史を重視するという立場をとっている。この枠組みは、いくつかの地域が、相互に一定の交流を行いながらも、それぞれ独自の文明を形成し、やがてヨーロッパを中心に世界が一体化されていくという、最近のほぼ一致した歴史観をもとに構成されている。とくにある教科書では、ウェーラーステインの「近代世界システム」の影響が色濃くうかがえる。このように教科書を明確な歴史観に基づいて記述することは、従来の事項羅列型の教科書に比べて大変よい傾向だと思うのだが、私は近現代史重視という考え方には疑問を感じるのだ。ある教科書の執筆者が、「古い時代のことばかりやっていても仕方がないのだ」と言っておられたが、生徒にとっては二千年前の時代も百年前の時代も同じくらいに古いのである。さらに、近現代史を学ぶことに意義があるという考え方は、文部省の「国際的視野」を広げるという点では意味があるであろうが、本当の意味で歴史を学び教える者の態度としては間違っているのではないだろうか。
一世界史講師の歴史観
 私は世界史をどう教えるか、というよりも私自身が歴史をどのように理解するのか、ということについて常に迷い続けてきた。率直に言えば、私は教壇で世界史を語る時、基本的にはマルクス主義の手法に依存してきた。もちろんマルクス主義の手法といっても階級闘争の歴史観という意味ではなく、広い意味での研究手法としてのマルクス主義的手法であって、特に発展段階論的な歴史のとらえ方である。この意味において私は、ウォーラーステインの「近代世界システム」も広義のマルクス主義であると考えている。そしてわたし自身は、これ以外の方法で世界史を体系的に語る方法を知らない。しかし、私はこのことに長い間、疑問を感じつづけてきた。
 発展段階論という歴史のとらえ方は、常に視点が現代にあり、現代から見て歴史は、どのように展開してきたかという歴史のとらえ方である。もちろんこれも歴史の一つのとらえ方ではあろうが、あまりに歴史を一面的にとらえすぎているのではないだろうか。このように一つの側面からだけ歴史をとらえる歴史観は、かつての階級闘争の歴史観や国家中心の歴史観、政治史中心の歴史観と本質的には同じことではないだろうか。国際的視野が必要とされるのだから、それを養うような歴史の教え方をすべきであるという現実的要請に基づいた教え方は、国のために命を捨てて戦わねばならないのだから、国の栄光の歴史を教えるべきである、といっているのと同じではないだろうか。このような教育観は、真に「自分で考える能力をもった人間」を養成するのではなく、結局は国家や社会に必要とされる「型にはまったよき国民」をつくろうとしているにすぎないのではないだろうか。
 もちろん私はそのような人間をつくることを意図しているわけではないが、結局は私自身も発展段階論的な教え方しかできないのが現実である。先に歴史の「意味」を教えていると述べたが、実は、この「意味」とは、現代的な視点からの意味にすぎないのであり、その点では文部省の教育方針に適合しているのだが、私自身はこのことに常に疑問を感じつづけてきた。では、私にとってどのような歴史の教え方が理想なのだろうか。私が漠然と考えていることは、それぞれの時代の人々の視点に立って歴史を教えることである。しかもそれは特別な人々の視点ではなく、ごく普通の人々の視点である。過去のそれぞれの時代は現代のためだけに存在しているわけではなく、それぞれの時代がそれぞれの時代の存在意義をもっており、その存在意義をわれわれと同じ普通の人間の目でみつめることによって、歴史を見直してみる必要があるのではないだろうか。このような視点にたって歴史を考えることこそ、真に知性ある人間、あるいは自立して自ら考えることができる人間を養うことができるのではないだろうか。さいわい「世界史A」の教科書の近代以前の部分は、このような歴史を語るのに適した場であるように思われる。ここにおいて、政治的枠組みとか歴史的事件などは最小限にとどめ、その時代その時代の視点で歴史を語ってみたいと思うのである。共通性よりは相違を、普遍性よりは個別性を語ることによって、生徒の感性に訴えかけてみたいと思うのである。
 しかし、残念ながら私にはそのような歴史を語る能力がない。さいわい、近年ヨーロッパ史の分野では、庶民史とか民衆史とか心性史などの研究が精力的に行われている。かつて「普通の人」の歴史を解明することは、それが史料にはほとんど登場してこないために困難であると主張されていたが、今日では非常に苦労してではあるが、それが徐々に可能になってきているようだ。私もこれらの歴史書を読んで感銘を受け、大きな影響を受けつづけている。この影響は、私の従来の歴史観を根底から覆すものなので、私にとっても大きな苦痛をともなうものなのだが、いずれ通過せねばならない過程であると考えている。とはいえ今のところ私には、このような歴史を断片的に語ることはできても、それを体系的に語る能力がないのである。「世界史A」の教科書においても、このような立場からの記述が部分的に含まれているが、それはほんの申し訳程度にすぎない。そして何よりも、受験という大前提がある以上、このような歴史を自由に語ることは当面ゆるされないことなのである。とくに予備校講師にとってはである。
生徒の「学力観」
予備校に通う生徒の学力観とは、大学に合格できる学力をつけることはいうまでもない。しかし、それは建て前であって、1819歳の多感な彼らが知識教育だけで満足するはずがなく、だからこそ彼らは知的な刺激を求めて魅力的な講義が行われている教室に殺到するのである。彼らもまた本当の学力が知識だけでないことをよく知っているのである。では、彼らにとってどのような講義が魅力的なのか、という問いには簡単には答えられない。それは多様である。純粋に知的な刺激を与えてくれる講師とか、教え方がうまい講師とか、あるいは個人的な魅力やカリスマ性をもった講師に生徒は集まるようだ。私がどのタイプに属するかといえば、どちらかといえば知的な刺激を与えるタイプの講師だと、自分では思っている。そして私が与える知的な刺激とは、基本的には先に述べた発展段階論に基づいた体系的な世界史である。ところが、この10年間ほどの間に、このような講義を受け付けない生徒が年々増えつづけている。
私は常々、「最近の生徒は……」とか「最近の若い者は……」というような愚痴をこぼさないように心掛けているつもりである。しかし事実として、「最近の生徒」は論理的な整合性や合理的な意味といったものを受け付けない傾向が強くなっているように思う。この事実を、単に生徒の質が落ちた結果であると嘆くだけでは、問題は何も解決しない。最近、私が思うことは、実は生徒の方が先に進んでいて、私の方が遅れているのではないかということだ。生徒は、私が語るような発展段階論的な歴史に対して本能的な拒否反応を示しているのではないだろうか。つまり、私が苦闘しながら発展段階論からの脱皮を試みているときに、すでに彼らは彼ら自身が普通の人間であるように、過去の普通の人間がどのように考えているかを本能的に求めているのではないだろうか。ルターとかカルヴァンといった「特別な」人間はわれわれにとって雲の上の人であり、あたかもこのような人々だけが歴史をつくっているかのように思われる現在の歴史のあり方というものが間違っているということを、彼らは本能的に嗅ぎ分けているのではないだろうか。そのような歴史に彼らは意味を感じることができず、意味を感じることができなければ、当然学習意欲もまた湧き上がってこないであろう。
しかし、歴史の流れや意味を理解する生徒も多数いるではないか、という問いがあろう。確かに、その通りだが、私が見るところ、いわゆる「よくできる生徒」には、本音と建て前を使い分けることのうまい生徒が多い。たとえば、よく生徒は「センター試験と二次試験とでは頭の別のところで考える」という。つまり、彼らはセンター試験の問題を解くときには、まったく別の発想で問題に臨むようだ。私のような古くて不器用な人間には想像もつかないことだが、現に彼らは私などよりずっと早く問題を解くことができ、しかも相当の高得点をとることができる。つまり、彼らはセンター試験の学力と二次試験の学力を使い分けているのである。これと同じように彼らは、私が説くような歴史を受験用の知識として、したがって必ずしも納得していなくても、「必要なこと」として学んでいるのではないだろうか。これは少し考えすぎかもしれないが、もし事実であるとするなら大変悲しいことである。私が自分の歴史観にもとづいて語っていたことが、実は生徒にとっては、単に受験上のテクニックの一つでしかなかったことになるからである。
生徒は教師にとって最大の教師であり、私たちは絶え間なく生徒の影響を受け続ける。そのため私の講義は、この10年の間にずいぶんと変化してきている。具体的には、社会経済史を中心とした、歴史を構造的にとらえるような解説がいくぶん後退し、歴史を具体的に理解できるようなエピソードを多用している。残念ながら、「普通の人」の目で歴史をとらえるだけの力量が私には不足しているが、このような歴史の必要性を教えてくれたのは、あるいは生徒なのかもしれない。だとすれば、やがて新しい時代を築いていく彼らこそが、本当の「学力」とは何かを本能的に知っており、むしろ私が彼らよりも遅れた「学力観」しかもっていないのかもしれない。もしそうなら、最も遅れた学力観は、文部省の「新学力観」ということになるのではないだろうか。
終わりに
 とりとめもないことを、思いつくがまゝに書いたが、率直にいえば私のように公教育の外に身をおく者にとっては、文部省の提示する理念などには何の意味もないのである。そのため、「新学力観」についての予備校の立場というものについて十分な説明ができず、個人的な感想文になってしまった。感想ついでに、最後に今の私の思いをつけ加えるなら、今後も真摯な態度で生徒から学びつづけていきたいと思うのである。


2014年5月23日金曜日

1492 歴史の破壊 未来の略奪

ジャック・アタリ著 1992年 斎藤広信訳 朝日新聞社(日本での出版は1994)
 本書は、アメリカ大陸「発見」500周年に出版されたもので、「キリスト教ヨーロッパの地域支配」というサブタイトルがついています。著者はフランスの経済学者で、1981年から91年までミッテラン大統領の特別顧問を務めた人物で、同大統領の側近中の側近でした。彼は毎年のように本を執筆しており、その内容は多岐にわたっていますが、本書は「1492年」にすべてが変わってしまったというテーマです。
彼は序文で次のように書いています。「西ローマ帝国が崩壊すると、ヨーロッパは多くの支配者によって鎖に繋がれ、ほぼ一千年の間眠る。それから偶然とも必然とも言えようが、あるときヨーロッパは自分を取り囲む者たちを追い払って世界征服に乗り出し、手当たり次第に民衆を虐殺し、彼らの富を横領し、彼らからその名前、過去、歴史を盗み取る。1492年がその時である。この年、三隻のカラヴェル船が偶然一つの大陸を発見する。ヨーロッパ最後のイスラーム王国が崩壊する。ユダヤ人がスペインから追放される。ボルジア家の一人が教皇に選出される。……」少し言い方が大げさな感じがしますが、これと似たような見解は、一般に述べられていることです。
内容は、1492年に至るさまざまな事件を述べ、1492年については一か月単位であらゆる角度からの事件を述べ、そしてその後ヨーロッパが世界中で行ったさまざまな蛮行を述べます。全体として幾分こじつけが多く、独断的なところが多いような気がしますが、この点では私の「グローバル・ヒストリー」も似たようなものなので、あまり人のことは言えません。独断的な分歯切れがよく、一定の距離さえおいて読めば、面白く読むことができました。
ただ、著者は絶えず、諸悪の根源はヨーロッパにあるかのように強調していますが、私のようなひねくれ者が読むと、「今は違う」ということ、そして「結局はヨーロッパが勝者なのだ」、と言っているように聞こえてしまいます。この点については、フランクの「リオリエント」も同様で、18世紀までは中国がヨーロッパに優っていたと主張していますが、言外で、「今は違う」と言っているような気がします。

 なお、フランク氏が2005年に逝去されたことを今回初めて知りました。心より哀悼の念を捧げたいと思います。

2014年5月2日金曜日

お知らせ

このブログを公開してから4か月余りで、アクセス数が千件を超えました。これが多いのか少ないのか分かりませんが、多分その大部分は検索によって通り過ぎていっただけであろうと思います。私自身も、検索により数えきれない程のページを通り過ぎてきました。でも、何人かの人は、興味をもって見て下さる方もいらっしゃるかもしれません。
 ただ、4か月間、たまっているものを吐き出すかのように、かなりのペースで投稿を続けたため、私も少々息切れしてきました。まだ、書きたいことは山のようにあるのですが、ここで少しペースを落としたいと思います。



この花は、上の文章とは何の関係もありません。ただ、我が家の縁の下で、ひっそりと咲いていた花というだけです。



映画でロシア史を観る

「バトル・キングダム 宿命の戦士たち」


2010年にロシアで制作された映画で、日本語版の「バトル・キングダム」というタイトルは意味不明です。原題は「ヤロスラフ」で、英語版では「王子ヤロスラフ」です。サブタイトルは「千年前」で、日本語版の「宿命の戦士たち」というサブタイトルも意味不明です。こういうタイトルを考える人は、映画をちゃんと観ているのでしょうか。もっとも、この映画は日本人からすれば相当マイナーな映画で、私自身も主人公のヤロスラフや舞台となったロストフも知りませんでしたので、相当調べまくりました。
時代はキエフ大公国の時代で、当時はルーシと呼ばれていました。キエフ大公国は、日本の世界史ではロシア史の一環として教えていますが、この国は今日からいえば、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアのルーツとなった国です。この国にはさまざまな民族が入り混じっており、それに北欧から来たノルマン人(ヴァヤリーグ=ヴァイキング)が関わっているようで、この映画にも出てきますが、主に傭兵として軍事力を担っていたようです。当初、ノルマン人はバルト海に近いノヴゴロドに拠点を置き、ビザンツ帝国などとの交易を行っていましたが、9世紀後半にビザンツ帝国に近いキエフに拠点を遷します。キエフは、ドニエプル川の流域にあって水運に恵まれていたからです。
10世紀末にキエフ大公国のウラジーミル1世が、ギリシア正教に改宗します。このことは、その後のこの地方の命運を決定します。まずこの地方がキリスト教圏に入ったこと、そしてギリシア語文化圏に入ったこと、またビザンツ帝国の政治制度を導入したことなどです。当時のキエフ大公国には3つの選択肢がありました。当時のこの国の周辺には、ローマ・カトリック教会と繋がる西欧世界、古代ローマ帝国を継承するギリシア正教のビザンツ帝国、そしてイスラーム教圏があり、キエフ大公国がビザンツ帝国のギリシア正教を受け入れたのは、やはりビザンツ帝国との経済的繋がりが強かったからでしょう。

ウイキペディアは、ウラジーミル1世自身の解説はあっさりしていますが、なぜか「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」という項目を設けて、かなり詳細に説明しています。それによると、洗礼を受ける前のウラジーミルは「大いなる極道者」と呼ばれ、各地の別邸に数百人の妾をおいていたといわれます。一応、洗礼後はすべての妾を廃したと言われますが、実際にはどうだったのでしょうか。こういう状態でしたから、彼には12人の息子がいますが、母親が誰か特定できないようです。したがって、この映画の主人公ヤロスラフも、何年に生まれ、母親が誰で、何人目の子どもかも、よくわかりません。ウラジーミルは、地方の統治のため各地に王子を派遣しますが、ヤロスラフが派遣されたのは、ロストフという僻地でした。


(ウイキペディアの地図にいくつかの地名を追加しました。また境界線は私が書いたもので、いいかげです)


ここにあげた地図には、サンクト・ペテルブルクもモスクワも載っていますが、モスクワが歴史に登場するのは150年も後であり、サンクト・ペテルブルクに至っては700年も後のことです。ロストフは、今日のモスクワから北東へ200キロ強の位置にあり、ノヴゴロドなどともに、ロシアで最も古い町の一つです。しかし、町から一歩外へ出れば森に覆われた地域であり、そこには様々な民族が孤立的に居住し、盗賊が横行し、奴隷狩りも行われていました。
この地域に、熊をトーテムとする熊族が住む村があり、彼らは盗賊による襲撃に苦しめられていました。そこでヤロスラフは熊族と話し合い、治安の維持を引き受ける代わりに、キエフに服属するように提案します。この提案に熊族は同意しますが、熊族がキリスト教に改宗するという条件がついていました。これは難問で、双方に武力による解決を主張する人々がいましたが、平和的な解決を望むヤロスラフはあえて熊族の人質となり、熊族の信頼を勝ち取っていきます。この年が1010年ですが、この年にどういう意味があるのか、よくわかりませんでした。辺境のキリスト教化への第一歩という意味でしょうか。この映画が制作されたのが2010年ですから、千年前の1010年の何かを記念したものと思われます。いずれにせよ、1016年にヤロスラフはキエフ大公となって40年近く統治し、その間に領土を広げるとともに、法典の編纂や文化の振興を行うなど、その後ロシアに受け継がれていく文化の形成に貢献し、「賢王」と呼ばれました。タイトルの「バトル・キングダム」とは、かけ離れているように思われます。



聖ソフィア大聖堂

また彼は、今日までキエフに残る聖ソフィア大聖堂を建設しました。その建築様式は、500年後にモスクワで建設された聖ヴァシーリー大聖堂の原型を見るようです。










聖ヴァシーリー大聖堂






















 映画で描かれている内容は、私がまったく知らない世界でしたが、当時のキエフ大公国の動向や、辺境の風俗などがかなり正確に描かれているように思われ、大変興味深い内容でした。またヴァイキングの動向も興味深いものでした。話が飛躍しますが、アラビア半島は大半が砂漠であり、人口が一定以上増えると生きていけなくなるため、人々は定期的に肥沃なメソポタミアに向けて北上します。それと同じように、北欧も寒冷地であるため、人口が増加すると南下します。9世紀から10世紀がノルマン人移動の最盛期で、この映画の舞台となった11世紀には、ノルマン人の大移動はほぼ終息していましたが、それでもまだキエフ大公国の東の僻地で、ノルマン人が傭兵として活動していました。残念ながら、ノルマン人と現地人との関係はよくわかっていないようです。
この映画を観て、また私の先入観を一つ修正することになりました。我々は、西欧と比べて東欧・ロシアが後進的であると考えがちですが、少なくとも11世紀の段階では、キエフ大公国の国家組織と文化は西欧に優っていました。この時代の西欧では、国家組織はないに等しく、文化的にもローマ帝国の残り滓で成り立っていましたが、キエフ大公国はビザンツ文明という現役の高度な文明の影響を受け、またバルト海と黒海の交易の要衝を抑えて、交易でも繁栄していました。

 しかし12世紀になると、西欧による十字軍遠征などで地中海航路が発展したため、ドニエプル川によるバルト海・黒海航路が衰退し、キエフ大公国も内紛が頻発して衰退していきました。そしてこの頃に、モスクワが資料に初めて登場しますが、まだ木造の柵が建っていただけです。ここへ、東からモンゴル軍が破竹の勢いで進撃してきます。1238年にモスクワが陥落、1240年にキエフが陥落、1241年にドイツ・ポーランド連合軍がワールシュタットの戦いで敗北します。今や、キエフ大公国の大半はモンゴルの帝国の一部であるキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の支配下に入りますが、ノヴゴロドはモンゴル軍の侵入を免れます。そして、この時代のノヴゴロドの大公アレクサンドル・ネフスキーが、次の映画の主人公です。


「アレクサンドル・ネフスキー~ネヴァ川の戦い」

2008年ロシアで制作された映画です。1938年にエイゼンシュテインが「アレクサンドル・ネフスキー」という映画を製作しており、ずいぶん前に観たのですが、覚えているのは「氷上の決戦」だけです。ここで紹介するのは、2008年制作の映画で、ネヴァ川の戦いに焦点を当てています。エイゼンシュテインの映画については、後に「イヴァン雷帝」を観る予定です。














(ウイキペディアの地図に地名を追加しました。位置はいいかげんです)











 アレクサンドル・ネフスキーは、ノヴゴロド公の子として生まれ、幼少より英知にあふれ勇敢だったため、1236年に父はアレクサンドルが16歳の時にノヴゴロド公の位を譲ります。まさにこの年に、モンゴルのバトゥの西征が始まりました。当時ノヴゴロドが置かれていた立場は、非常に複雑でした。東からモンゴル軍が迫るとともに、西からはスウェーデンやドイツ騎士団が、商業で繁栄するノヴゴロドを虎視眈々と狙っていました。しかもキエフ大公国は、すでにないも同然でした。
 当時のヨーロッパは、農業生産が増大して人口が増加し、外に向けての膨張運動が本格化していました。スペインではイスラーム教に対する国土回復運動、東方に対してもイスラーム教徒に対する十字軍運動、そして13世紀の前半にはギリシア正教のビザンツ帝国を征服しました。そして、東欧・北欧では、北方十字軍と称してギリシア正教のロシアへの膨張が始まっていました。一方、ノヴゴロドでは古くから貴族による自治が行われており、大公は事実上、軍事的指導者以上の役割を持ちませんでした。当時のノヴゴロドの貴族たちの中には、スウェーデンやドイツ騎士団に服属して平和を維持すべきだという人々が沢山いました。それに対してアレクサンドルは、むしろモンゴルに接近し、スウェーデンやドイツ騎士団との対決姿勢を強めます。
 こうした中で、スウェーデン軍がネヴァ川流域に侵攻してきます。ネヴァ川はノヴゴロドの北方にあり、今日のサンクト・ペテルブルクを流れる川です。1240年、アレクサンドルはわずかな兵力でスウェーデン軍の野営地を奇襲し、スウェーデン軍を壊滅させました。この勝利により、アレクサンドルは「ネヴァの勝者」を意味する「ネフスキー」と呼ばれるようになります。映画はここで終わりますが、彼は1242年にはドイツ騎士団の侵攻を撃退して領土を確保します。外交的には、何度もキプチャク・ハン国の首都サライを訪問して、臣従の意を示します。
こうした政策の背景には、モンゴル軍が強大であるということもありますが、ドイツ騎士団など西方の勢力はカトリックへの改宗を強要するのに対し、モンゴルは宗教的に寛大だったことがあります。こうして、ロシアは西欧世界とは別の道を進むことになります。また、ロシアのルーツともいうべきキエフは、やがてポーランドに併合されて、ロシアとウクライナは、当面それぞれ別々の道を歩んでいくことになります。
 アレクサンドルの死後、彼の末子がモスクワを与えられてモスクワ公国が成立し、やがてモンゴルからモスクワの徴税請負人としての地位を与えられ、14世紀後半にモスクワ大公の地位を与えられました。今日のロシアの直接的なルーツであるモスクワ大公国は、モンゴル帝国の枠内でアジアの一国として始まったのです。後にしばしば「タタールの軛」と言われ、ロシアが重税と圧政に苦しみ、野蛮なモンゴルの支配下で文化も停滞した、言われました。しかし重税を取り立てたのはモスクワ大公であり、反タタールの反乱を鎮圧したのもモスクワ大公でした。また、モンゴルの文化は中国やイスラーム文明を吸収しており、決して野蛮な文明とは言えません。むしろ、モスクワ大公国はモンゴルの庇護のもとで成長したというべきです。ただ、ロシア文明の基盤となったビザンツ帝国やキエフ大公国と切り離されたことが、ロシアの歴史に大きな影響を与えることになったと思います。そしてそれは、アレクサンドルが西方からの侵略に対抗するために選んだ道でした。

(ウイキペディアの地図に私が地名を追加しました。位置はいいかげんです。)



モスクワは、バルト海・黒海・カスピ海をつなぐ要衝にあって繁栄し、1480年にイヴァン3世の下でキプチャク・ハン国から独立します。この間、1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅びると、ギリシア正教の総本山をモスクワに遷し、ビザンツ帝国の後継者を自認するようになります。イヴァン3世の時代、まだモンゴルの残存勢力があり、西にはポーランドやスウェーデンがロシアへの侵入を狙っていましたが、ようやくモスクワ大公国は国家としての体裁を整えつつありました。そして、イヴァン3世の死後、半世紀後にイヴァン4世(雷帝)が登場することになります。



「イワン雷帝」

 1944年から46年にかけてソ連で制作された映画で、エイゼンシュテイン監督によるものです。この監督は「戦艦ポチュムキン」など多くの話題作を制作した監督で、特に映画技術上画期的な手法を用いることで知られる監督だそうです。この映画では、歌舞伎の影響を受け、「見得を切る」という手法を用いて、人物をクローズアップさせています。この映画は三部作からなりますが、第二部でスターリンを批判したということで上映禁止となり、第三部は制作されませんでした。
 イヴァン4世は、1533年に三歳でモスクワ大公になりますが、大貴族たちの専横により彼の存在は無視されていました。しかし1547年、彼が17歳の時にツァーリに即位することを宣言します。ツァーリとは、ビザンツ皇帝の称号であり、さらに遡ればローマ皇帝の称号であり、そのような称号を外国が認めるはずがありません。彼がこの称号を名乗ったのは、むしろ国内向けだったと思われます。国内には多くの有力貴族がおり、大公などは彼らの貴族の第一人者程度の地位でしかありません。しかも、イヴァン4世の幼少期の間に、貴族の専横はますます激しくなっていました。こうした中で、イヴァン4世は、より超越的な地位を必要としたのではないかと思います。彼が活躍した16世紀の後半は、ヨーロッパで絶対王政が生まれつつあった時代であり、彼の行動もそうした時代背景から生まれてきたものと思われます。
彼は即位すると、官僚制の整備、常備軍の設置、貴族や教会の権限の縮小など、次々と改革を行うとともに、戦争によって領土を拡大していきます。その結果大貴族との対立が激しくなり、1560年に妻が毒殺され、さらに側近を次々に失うと、イヴァン4世は突如退位を宣言します。映画によれば、翌年、彼は「民による嘆願」いう形で復位しますが、これはスターリンへの気遣いかもしれません。それはともかく、彼は復位の条件として非常大権を獲得し、以後イヴァン4世による恐怖政治が始まります。有力者に対する大粛清と対外戦争が続きますが、1574年末に再び退位を宣言し、76年初に再び復位します。そして1581年に跡継ぎを誤って殺してしまい、そのことを後悔しつつ、イヴァン4世は84年に死亡します。なお、「雷帝」という異称は、日本語に翻訳する時に遠慮してつけられたもので、原語を直訳すれば「恐怖王」といったところでしょうか。
イヴァン4世は極めて複雑な人物で、冷酷・残虐なのか信仰深い人物なのか、冷静に計算して行動する人物なのか、激情にかられて衝動的に行動する人物なのか、よく分かりません。また、彼の功績についても、ロシア・ツァーリズムといわれる専制体制の基礎を築いたと言うべきなのか、それともロシアを混乱に陥れたというべきなのか、よく分かりません。16世紀末にイヴァン4世が死んだ後、15年間ほど混乱状態が続き、1613年に成立したロマノフ朝も容易に安定しませんでした。
映画は、全体に重苦しい雰囲気で描かれていました。洞窟のような狭い部屋、屈まなければ通れないような低い出入り口、暗くて狭い廊下、その間を貴族たちが鼠のように動き回る、こうした描写の仕方は、陰謀に渦巻く当時のロシアの状況を示すものと思われます。また、前の二つの映画では、建物は木造でした。ロシアは石材資源に乏しい代わりに、木材資源が豊富なため、太い木をしっかりと組み合わせて造られており、なかなか趣のある建物でした。それに対してこの映画での建物は、多分煉瓦を積み上げ、その表面を漆喰で塗り固めてあるのだと思いますが、まるで洞窟のようでした。この時代のロシアの建築が再現されているのか、監督が意識的にこうしたセットを造ったのかは分かりませんが、陰惨な雰囲気がよくでていました。

さて、ここで話を少し戻したいと思います。13世紀にモンゴル軍によって征服された後、キエフ・ルーシはポーランドの支配下に入ります(実際にはリトアニアも関係してきますが、話が複雑になるので触れません)15世紀頃からドニエプル川の中流と下流に、コサックと呼ばれる集団が発生します。「コサック」という言葉の由来も、コサックのルーツもはっきりしませんが、西欧で没落した貴族や遊牧民の盗賊、ロシアでの農奴制の強化を嫌って逃亡してきた農民などが集まって生まれたと言われます。彼らは民族集団ではなく、軍事集団で、各地で傭兵として雇われたりしていました。初期のコサックはドニエプル川中流のザポロージャ地方に根拠地を築いたためザポロージャ・コサックと呼ばれ、のちにそこから分かれて南ロシアのドン川流域に移住した人々をドン・コサックといいます。
ここでは主にザポロージャ・コサックについて述べたいと思います。この辺はキエフ・ルーシの中核地域でしたが、古くからウクライナと呼ばれており、この時代にはポーランド支配下のウクライナ地方となっていました。一方、モスクワ大公国もルーシでしたが、この頃からギリシア語風にロシアと呼ぶようになります。ここに、キエフを中心とするウクライナと、モスクワを中心とするロシアの原型が形成されることになります。コサックは自立心が強く、しばしばポーランドの圧政に対して反乱を起こしますが、その度にロシアの介入を招き、18世紀にはロシアに併合されることになります。

 そして、16世紀初頭に、コサックがポーランドに対して行った反乱が、次の映画のテーマです。


「隊長ブーリバ」

1962年制作のアメリカ映画で、ウクライナ出身のロシアの文豪ゴーゴリの小説「タラス・ブーリバ」を映画化したものです。時代は16世紀の初めで、オスマン帝国が破竹の勢いで領土を拡大していました。そうした中で、ウクライナはオスマン帝国との戦いの最前線にあり、コサックはオスマン軍のと戦いで善戦していました。しかし、ポーランドはウクライナを支配するためにコサックの解散を命じたため、ブーリバは山に逃れて再起のための時を待ちます。
やがて二人の息子がたくましいコサックとして成長すると、ブーリバは敵であるポーランドを知るために、今ではポーランドの町となっているキエフの学校に息子たちを留学させます。二人は、ポーランド人に野蛮人と軽蔑されながらも、たくましく生きていました。そうした中で、兄のアンドレはポーランドの貴族ナタリアに恋をします。しかしナタリアの兄はアンドレに制裁を加えたため、アンドレは兄を殺し、故郷に逃亡します。
 やがて、コサックは土地を奪ったポーランドに対する復讐に立ち上がります。しかしアンドレは、恋人のいるポーランドに味方し、父と戦って死んでいきます。アンドレの最後の言葉は、父や家族の名ではなく、ナタリアの名前でした。その後ブーリバはポーランド軍を全滅させ、土地を取り戻して映画は終わります。しかし、小説にはまだ続きがあります。
その後もポーランドとの戦いは続き、弟のオスタプはポーランド人に捕らえられ、群集の前で拷問されて処刑されます。その時ブーリバは大胆にも群集に紛れ込んでいました。オスタプが処刑の直前に「父さん聞いているか」と叫ぶと、静まり返った群集の中でブーリバは「聞いているぞ」と叫んで、風のように去って行きます。やがてブーリバもポーランドに捕らえられ死んでいきます。最後にブーリバは、やがてロシアがお前たちを屈服させるだろう、と叫んで死んでいきます。
われわれは、ブーリバのこのようなロシアへの期待には、違和感があります。しかしゴーゴリは、その鋭い社会批判にも関わらず、保守的で熱烈なスラヴ主義者でもあり、ゴーゴリは最後までこの矛盾を克服できず、名作「死せる魂」は未完に終わってしまいます。彼の痛烈な社会批判とスラヴ主義がどこで結びつくのかという問題は、この時代のロシア思想の複雑さを象徴する問題の一つであろうと思いますが、詳しいことは私には分かりません。この最後の部分はともかく、ブーリバ親子の物語は、長い外国の支配に翻弄されたザポロージャ・コサックの運命を象徴しているように思います。
 結局、ザポロージャ・コサックはロシアに支配され、ロシア革命後にはコサックは反革命分子として徹底的に虐殺されます。1991年ソ連邦の解体にともなってウクライナは独立しましたが、その後も政治的な混乱やロシアとの対立が続いています。一方ドン・コサックは、ステンカ・ラージンの乱やプガチョフの乱などしばしばロシアに反抗しましたが、18世紀には自治を認められ、帝国内の軍隊として働くようになります。ロシアの対外戦争や国内の反乱鎮圧にも参加し、日露戦争でもコサック軍が大きな役割を果たしました。しかしロシア革命後赤軍と戦って、追放されました。


 たった4本の映画で、16世紀までのロシア史を観たわけですが、それでも「イワン雷帝」以外は相当マイナーな映画でした。私が観たもの以外にもロシア史を扱った映画があるかもしれませんが、それ程数は多くないでしょう。もっと多くのロシア映画が公開されることを期待しています。17世紀以降について、私が観た映画は、「グローバル・ヒストリー 第27章 社会主義の挑戦」に記載されています。