2014年3月15日土曜日

世界子どもの歴史 先史時代

斎藤正二著 1986年 第一法規
 本書は、「世界子どもの歴史」シリーズ全11巻の第1巻で、「先史時代」を扱ったものです。なぜか私は、このシリーズの第1巻しか持っていません。この本を買った時の気持ちを忘れてしまいましたが、多分12600円もするこのシリーズを11冊も買う気力がなかったのだと思います。
 本書は後書きで、「各時代の子どもたちが具体的=現実的にどのような生き様を残してきたかという問題について、これを明らかにした書物はほとんど皆無といえます。たくさんの教育史が書かれましたが、その大部分は≪子ども不在≫の教育史でしかありません。……衣食住のことはもとより、子どもたちが家庭や共同体の中でどのような取り扱いを受け、子だもたち同士がどのような遊びを楽しみ、どのようにして知恵を得ていったか、という事がらに関しては、一瞥だに与えられていませんでした。」と述べ、このシリーズの目的を示しています。

 著者は、「子ども期」について、人類学的・生物学的なアプローチを試みます。人類の「子ども期」は、サルとチンパンジーなど、他の霊長類、他の動物、哺乳類一般と比べて、特に長期化されている。この人類の幼年時代・少年時代・青年時代が異常に長いことこそ、じつは、人類を全生物の全体系のトップに立たしめる条件となったのである。……出生前には、サルの胎児の脳は大きさも複雑さも急速に増加する。子供が生まれたときに、脳はすでに成体の腦の70%に達している。しかも残りの30%の成長は、生後6か月の間に達成されてしまう。……これと対照的にわれわれ人間では、出生時の腦の大きさは、成人の23%に過ぎない。腦の急速な成長は生後6年間継続し、全成長過程が終わるのは、ほぼ23歳の時である。

 何か、ヒトラーの人種論を読んでいるようで、幾分不快な感じがしますが、人間は生まれた直後には、一人では何もできず、非常に長い成長過程があり、その間に親などから様々な教育を受けて、優れた能力をもつようになります。なぜそうなったのかについて、詳しい説明がなされており、大変興味深い内容でしたが、ここでは触れません。

 「子ども期」において非常に重要な役割を果たすのが、「遊び」です。ここで、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」が引用されます。「それは、遊びというものは最も素朴な形式にのそれ、動物の生活のなかのそれでさえ、すでに純生物学的な現象以上のものがあり、また純生物学的に規定された心的反応以上のものである、ということである。遊びというものは、純生物学的行動の、もしくは少なくとも純粋に肉体的な活動とでもいうものの、限界を超えている。すなわち、遊びは何らかの意味をもったひとつの機能なのである。」「どんな遊びでも、何かの意味がある。けれでも、われわれが遊びの本質をなしている主導的原理を精神と呼べば、これは言い過ぎになるし、またそれを本能と呼んだのでは、何一つ言ったことにならない。その点はどう見るにしても、とにかく遊びのこうした意味とともに遊びそのものの本質の中に一つの非物質的な要素が明白に働いている。」ただし、近年の研究では、遊びには明白な目的性があるとされています。

 子どもの扱い方にも変遷があります。サバンナで狩りをしていた時代には、子どもは足手まといな存在でした。ところが、農耕が始まると、子どもも労働力となり、古代を通じて子ども時代に教育が行われます。ところが、なぜかヨーロッパの中世では、子ども時代が消滅してしまいます。中世においては、78歳から大人と同じ扱いを受け、刑罰も大人と同じだったそうです。その理由については、ここでは述べられておらず、多分このシリーズの第3巻「中世」で詳しく述べられるのでしょう。
 本書は、シリーズの第1巻ということもあって、かなり抽象的で、読みづらい本でした。それでも、歴史には、こういう視点からの捉え方もあるのだと、また一つ学びました。


2014年3月8日土曜日

映画で核兵器・原子力を観て

「渚にて」


 この映画は、1957年に書かれた同名の小説が、1959年にアメリカで映画化されたもので、第三次世界大戦の勃発による核戦争で、地球が放射能で汚染されて、人類が絶滅するという物語です。

 第二次世界大戦が終わった後、米ソの冷戦が始まり、両国は核兵器の開発競走を展開しました。ここで、核兵器の歴史のおさらいをしておきたいと思います。1945年にアメリカが原爆実験に成功し、広島と長崎に投下します。これが核兵器を実戦で使用した最初にして最後の例です。1949年にソ連が原爆実験に成功、1952年にアメリカが水爆実験、1953年にソ連が水爆実験に成功します。原爆と水爆との違いは、前者が核分裂、後者が核融合によるもので、水爆の方がはるかに規模を拡大できます。一時、水爆は放射能を出さないきれいな核兵器といわれましたが、それは間違いです。水爆は起爆装置に原爆を用いますので、十分に汚い核兵器です。1954年にアメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船第五福竜丸が死の灰を被りました。また核融合はきれいなエネルギー源とされていますが、核分裂とは異なる別の放射能を出しますので、一概にきれいとは言えません。

 このように、米ソによる核兵器開発競争が展開される中で、別の問題が発生してきました。つまり運搬手段です。アメリカとソ連が相互に相手を攻撃する場合、爆撃機で運搬することになりますが、帰るための燃料が足りません。そこで考案されたのが、大陸間弾道ミサイルです。ミサイルを一旦大気圏外に出せば、空気抵抗がないのでそのまま軌道に沿って飛んでいきますし、帰りの燃料は必要ありません。そしてこの大陸間弾道ミサイルを先に開発したのはソ連でした。1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功します。人工衛星と弾道ミサイルは同じ技術であり、近年北朝鮮が弾道ミサイルの実験を行って、これは人口衛星であると主張していますが、基本的に両者は同じものです。
 弾道ミサイルは、世界中どこへでも短時間で飛んで行き、目標めがけて正確に落下し、しかも弾頭には一瞬にして数百万人を殺傷できる核兵器が搭載されていたとすれば、それはもはや最終兵器です。アメリカ国民はパニックに陥り、自宅にシェルターを造る人まで出てきました。そして当面、米ソによる人工衛星=弾道ミサイルの開発競争が展開されることになります。この小説が出版されたのが1957年であり、まさに核戦争が現実味を帯びてきた時代でした。

 映画では、すでに第三次世界大戦が起き、米ソが「弾み」で核兵器を使用してしまい、北半球は放射能で全滅してしまいます。生き残った人はオーストラリアに移りましたが、やがてオーストラリアも放射能に覆われることは明らかでした。まさに、渚に波が打ち寄せるように、放射能はオーストラリアに迫り、人々はそこで死を迎えることになります。とりあえず、アメリカの原子力潜水艦が北半球への偵察に行くことになりますが、その艦長がこの映画の主人公です。結局、この偵察は北半球で人類が滅亡していることを確認しただけでした。

 非常に奇妙に思われたのは、サンフランシスコに立ち寄った際、人がいないというだけで、町は見事に整然としていたことです。本来なら、あちこちに死体が転がっていたり、車が放置されていたりするはずです。また犬や猫の死体が転がっているはずです。あたかも全員が死を覚悟してベッドに横たわって死んでいったかのようです。広島や長崎の惨状を知っている我々には、納得できません。仮に、核兵器による直接攻撃を受けていなかったとしても、放射能汚染によって人は即死することは滅多にありません。皮膚はただれ、髪の毛が抜け、あちこちに腫瘍ができ、何日も、あるいは何か月も苦しみながら死んでいきます。人々はパニックに陥り、町中が大混乱に陥ったはずです。

 しかし、これが作者の意図なのかもしれません。いたずらに混乱した醜い世界を描くより、むしろ静寂の死の世界を描くことによって、人間の愚かさを伝えたかったのかもしれません。誰もが、一体なぜこんなことになってしまったのだ、と尋ねます。これに対して、潜水艦に同乗していたある科学者が呟きました。「平和を保つために武器を持とうと考える。使えば人類が絶滅する兵器を争ってつくる。自分もそれに手を貸した。そして、どこかで誰かがレーダーに何かを見た。千分の1秒遅れたら自国の滅亡だと思い、ボタンを押す。そして世界が狂った」と。


 オーストラリアでは、政府が全員に安楽死できる毒薬を配ります。そして誰もが、「その日」が到来するまで粛々と日常生活を続け、「その日」がきたら、皆粛々と死んでいきます。それはかなり不自然で、現実にはありえないことのように思われますが、作者は、愚かなことを仕出かした人類が神の懲罰をうけるために、死に臨んでいく姿を描きたかったのではないかと思います。

13デイズ」

 2000年にアメリカで制作された、キューバ危機を題材とした映画で、196210月に起こった米ソの核戦争を孕んだ対立を描いています。この年の10月にキューバでソ連のミサイル基地が発見され、それに対する大統領と側近たちの13日間の対応を描いているため、「13デイズ」というタイトルになっています。

 キューバは、15世紀末以来スペインの植民地でしたが、20世紀初頭に事実上アメリカの植民地となり、1930年代に一応独立を果たしますが、独裁政権の下で経済はアメリカ資本主義によって支配されていました。それに対して、カストロやアルゼンチン出身のゲバラなどが反乱を起こし、1959年に独裁政権を倒します。もともとカストロは社会主義者ではなく、アメリカとの友好を維持したいと大統領との会談を求めますが、アイゼンハウアー大統領はこれを相手にせず、アメリカによる経済支配を維持しようとしました。こうした中で、カストロはソ連に接近し、1960年には農地改革やアメリカ資本の接収など、社会主義的な政策を打ち出していきました。アイゼンハウアーは、革命政権の打倒計画を推進しますが、ここで大統領がケネディに代わります。

 ケネディは、アイゼンハウアーの計画を継承して実行しますが、惨めな失敗に終わります。その後もケネディ政権は、新たなキューバ侵攻計画を進めており、196210月に準備が完了する予定でした。この計画の準備と同じ時期に、ソ連によるキューバへの核ミサイル配備の計画が進行しており、アメリカの偵察機がキューバでソ連製のミサイルを発見します。「アメリカの裏庭」ともいうべきカリブ海に、ソ連のミサイル基地が設置されることは、アメリカには到底容認できません。この時から13日間にわたって、アメリカは核戦争を覚悟の上で、あらゆる手を打ちます。とはいえ、核戦争は避けねばならず、ソ連の首脳にとっても同じです。

 この映画はドキュメンタリーではなくドラマですので、事実と異なる部分があるかもしれませんが、双方とも核兵器の発射命令ボタンに手を置いた上でのやり取りだったことに変わりありません。1027日は最悪の一日でした。アメリカの偵察機がソ連製ミサイルで撃墜され、さらにアメリカ海軍がソ連の潜水艦に、核魚雷を搭載しているかどうか確認もせず爆雷を投下します。後でわかったことですが、ソ連の潜水艦は核魚雷の発射直前までいったのですが、副官の一人が反対したため、発射しませんでした。ここで発射していれば、間違いなく全面核戦争に発展していました。こうしたことから、この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれています。

 この間、裏ルートでの工作が進められ、ソ連がキューバから核ミサイルを撤去する代わりに、アメリカはキューバを攻撃しないことを保証するという合意が成立し、結局核戦争は回避されました。まさに、これは核兵器という切り札を振りかざした瀬戸際作戦であり、両国とも核戦争の深淵を覗き込むことになりましたが、「渚にて」のような破局は避けられたわけです。このことの反省から、米ソ首脳間の直接の電話回線であるホットラインが設置され、さらに翌年部分的核実験停止条約が締結されます。この条約は、やらないよりはましという程度の内容ですが、米ソ間の初の核軍縮条約となりました。
 なお、ケネディは1963年に暗殺され、フルシチョフは翌年解任されました。

「未知への飛行」

キューバ危機から2年後の1964年に、アメリカで制作された映画で、システム上のミスのため核戦争に至る危機を描いたものです。原題は「フェイル・セーフ(Fail-Safe)」です。フェイル・セーフとは、さまざまな装置における安全装置のことをいいますが、ここでは軍事的な意味で用いられます。

米ソの大陸間弾道ミサイルは、それぞれが相手の国を狙って配備されており、万が一どちらかが先制攻撃をかければ、もはやこれを防ぐ手段はなく、一方の国が滅びます。そこで、一方の国が先制攻撃をかけ、それによって他方の国が滅びたとしても、必ず相手も滅ぼすという体制をつくります。そうすれば、どちらの国も先制攻撃をかけられなくなるということで、これを相互抑止戦略といいます。

仮に、ソ連がアメリカに対して先制攻撃を開始したとします。これでアメリカの滅亡は確実です。この先制攻撃をさせないための抑止戦略には色々ありますが、要するに先制攻撃すれば自分も滅びると思わせることです。例えば、核兵器を搭載した原子力潜水艦を全世界の海に配備します。通常の潜水艦の場合、燃料が酸素を消費するため、あまり長時間潜水していることができませんが、原子力潜水艦の場合、人間が消費する酸素があればいいので、長時間潜水が可能です。そこで核兵器を搭載した原子力潜水艦が、敵に位置を知られないように、海中深く移動し続けます。そして、敵が先制攻撃を開始して本国が滅びても、原子力潜水艦は生き残りますので、そこから核兵器を発射します。

また、爆撃機による常時警戒態勢という方法があります。核兵器を搭載した爆撃機が、空中給油を続けながら24時間飛び続けます。そして、敵が先制攻撃を開始したら、報復攻撃を行うというものです。この際、出撃命令が出た場合、爆撃機は予め設定された帰還可能ポイントで待機し、次の命令を待ちます。この帰還可能ポイントをフェィル・セーフと言います。このラインを越えたら、パイロットはいかなる命令があっても爆撃に向かわねばなりません。なぜかというと、このポイントを超えると敵からの妨害工作が行われる可能性があるからです。例えば、敵が大統領の声を真似て、「帰還せよ」という命令を出すかもしれませんので、パイロットは「いかなる命令にも従うな」と厳命されています。先の原子力潜水艦も爆撃機の常時警戒体制も、どちらも結局人類を滅ぼしてしまう体制であり、われわれは、長くこうした脆い体制の下で生きてきたのです。

映画では、アメリカのレーダーに不審な影が映ったため、とりあえず爆撃機に出撃命令が出されます。ここまではよくあることですが、システム上のミスから6機の爆撃機がフェイル・セーフを越えてしまいました。ここから、まさに「未知への飛行」が始まります。政府は、パイロットの家族を連れてきて、帰還を要請させます。パイロットも、帰りの燃料がないので、死以外にない飛行ですから苦しみますが、「いかなる命令にも従うな」という命令を受けているため、そのまま飛行を続けるしかありません。そこで大統領は、ホットラインでソ連首脳と直接交渉し、ソ連の方で爆撃機を撃墜してくれるよう依頼します。

 ソ連にとっても、大きな問題がありました。この攻撃が本当にミスなのか、それともミスと思わせてアメリカが全面攻撃をするつもりなのか、ということです。安全策をとるためには、即時全面攻撃を開始することであり、躊躇している時間的な余裕はありません。しかし、そう決断すれば、現実にはソ連の安全どころか、人類が滅亡することは確実です。とはいえ、アメリカの全面攻撃を座視して、ただ滅亡するのを待つことはできません。しかし、とりあえずソ連はアメリカを信じ、アメリカから情報を得て爆撃機を撃墜していきますが、一機だけ生き残りました。
 一方、アメリカも全面戦争になれば、勝者も敗者もないということを認識していました。人類の破滅を避けるためには、アメリカの側にミスがあったことを証明する義務があります。ここで大統領は驚くべき決断をします。もしモスクワに核兵器が落とされたら、アメリカも同時にニューヨークに核兵器を落とすということです。そしてモスクワに核兵器が落とされました。当時ニューヨークには大統領夫人が滞在していましたが、夫人にも知らせず、大統領はニューヨークに核兵器を落とします。こうして二つの都市は滅びましたが、人類の滅亡はさけられました。

 この映画が公開されたのは、キューバ危機の2年後だっただけに、現実味がありました。キューバ危機以来、米ソが一方的に先制攻撃を開始する可能性はいくぶん低くなりましたが、むしろ問題なのは、機械化の進歩により起こる偶発戦争です。人間は機械に頼りすぎ、パイロットは、大統領の肉声の命令より機械に誘導されて爆撃に突き進みました。人類は常に、「より強力な武器を造れば、敵は怖くて攻撃できず、平和が維持される」と考えてきました。特に科学者がこうした発想をもつ傾向があります。過去にも、こうした発想で武器を造り、結局平和どころか破滅的な戦争を何度も繰り返してきました。そして、第二次世界大戦後に発展した機械化は、人間による制御能力をはるかに超えてしまったため、機械上のミスによる偶発戦争の可能性が高まり、この状況は現在でも本質的に変わりがありません。

ところで、命令に従ってユダヤ人の強制移送を行ったアイヒマン(「映画でヒトラーを観て―ヒトラーの審判」参照)と、命令に従ってモスクワに核兵器を落としたパイロットと、どこが違うのでしょうか。確かに、アイヒマンと異なり、このパイロットは、死を覚悟していました。そして、死を覚悟していたなら、命令に背くこともできたはずです。彼は軍人としての義務を重視したのだと思いますが、それにしても軍人の義務が、500万の人命を犠牲にする程重要だったのでしょうか。もちろん、この場合パイロットの責任を問うのは酷だと思います。最も責任を負うべきは、そのような体制を作りだした政治家であり、またそのような時代を生み出したすべての人々にあるのではないでしょうか。これを避ける方法は、機械に頼ることではなく、絶え間のない対話と意志の疎通以外にはないのではないかと思います。

「チャイナ・シンドローム」

1979年にアメリカで制作された映画で、原子力発電所での事故を扱った映画です。「チャイナ・シンドローム」とは、もしアメリカの原子力発電所で炉心が溶融(メルトダウン)すると、溶けた燃料は地面を溶かし、地球の中心を通過して、反対側の中国にまで達するというブラック・ジョークで、この映画での造語です。このようなことは現実にはありえないとのことですが、炉心の溶融とはそれ程危険なことだということで、東京電力の福島発電所で炉心が溶融したというニュースを聞いたとき、私は愕然としました。

この映画は、原子力発電所の不正を暴くというサスペンス映画として制作されたのですが、この映画が公開されてから12日後に、スリーマイル島で炉心が溶融する原発事故が発生し、大変話題となりました。シンドローム=症候群という言葉は、本来医学用語として用いられていたそうですが、これをきっかけに、一連のよくない事態の発生という意味で、幅広く用いられるようになりました。また、スリーマイル原発事故が映画の公開後あまりにタイミングよく起きたため、映画関係者が観客動員のために起こした事故ではないか、ということまで取沙汰されました。

地方テレビ局の女性リポーターであるキンバリーは、たまたま原子力発電所の取材中に重大なトラブルに遭遇しますが、電力会社からの圧力により、その報道が禁止されてしまいます。一方、発電所の制御室長ゴルデは、トラブルの原因に疑念を抱き、調査する内に手抜き工事があることが判明しました。上司に話しても相手にされないため、彼は証拠となる資料を公表しようとしますが、その資料を運ぶはずの人物が殺害され、彼自身も命を狙われます。そこで彼は最後の手段に訴えます。彼は制御室に立てこもり、キンバリーに事実を報道させようとします。しかし報道直前に武装警官隊が制御室に突入してゴルデは射殺され、会社からはゴルデが酒によって暴れたとだけ説明されます。そして、キンバリーがテレビを通じて真相を話そうとしますが、画面は電子レンジのコマーシャルに切り替わります。

 原子力の危険性や関連会社の安全管理のずさんさについては、ずいぶん前から指摘され、警告されていました。ところが、1999年に茨城県東海村の核燃料加工施設で起きた臨界事故では、正規のマニュアルの他に裏マニュアルが存在し、当日はその裏マニュアルがさらに改悪されて作業が実施されました。原子力発電が安全か否かについて、私には判断する術がありませんが、少なくとも設計上のミス、手抜き工事、ずさん管理などによる事故は、あってはならないことです。また、福島原発の事故後、東京電力の関係者は、想定外の事故だったと繰り返し述べていましたが、私はその無神経さに驚きました。原子力事故に、想定外などということが許されるのでしょうか。あらゆることを想定して安全性を確保し、なおかつ想定外があるなら、原子力の使用は無理なのではないかと思います。
































2014年3月1日土曜日

映画で東ドイツを観る

「トンネル」


2001年にドイツで制作された映画で、ベルリンの壁の下にトンネルを掘って西ベルリンに脱出するという、実話に基づいた映画です。
 第二次世界大戦後のドイツは、米・英・仏・ソの四か国で分割占領され、首都ベルリンも分割占領されることになりました。問題は、ベルリンがソ連の占領地域内にあることで、困ったのは東ドイツの方でした。ベルリン内部では東西の往来が自由なため、東ベルリンから西ベルリンに入って、そのまま西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に亡命する人が後を絶たなかったからです。毎年数十万人の東ドイツ(ドイツ民主共和国)国民が、西ドイツに亡命したとされます。そこで東ドイツは、19618130時、東西ベルリンの境界線に有刺鉄線を置き始め、午前6時までに東西間の通行はほとんど不可能になりました。この結果、本来西側の住民が東側に取り残されたり、親子・兄弟・恋人が東西に分かれてしまう、というような事態が発生しました。
 その後、本格的に壁の建設が始められたため、大騒ぎになりました。警備についていた東ドイツの兵士が、突然走り出して有刺鉄線を飛び越えたり、車で壁に突っ込んで、車の前半部分が西側に出たため、そこから脱出したといった、笑い話のような話もありますが、脱出しようとして射殺された人々も沢山いました。写真は、壁の向こう側で恋人が射殺されている場面です。こうした中で、偽造パスポートを使ったり、第三国へ出国して、そこから西ドイツに行くなど、脱出のためのさまざまな方法が試みられましたが、しだいにそれも困難となっていきます。
 主人公は水泳選手のハリーで、1953年の暴動で逮捕され、4年間投獄されます。彼は、壁建設の直後に偽造パスポートを使って西側に脱出し、西側から妹や友人を救うためにトンネルを掘る計画を立てます。壁に近い空き工場を借り、壁の向こう側のビルまで145メートルのトンネルを掘ろうというわけです。問題は山積しています。秘密をどう守るのか、東側の仲間とどう連絡するのか、掘った土をどこにもっていくのか、地下水が出たらどうするのか、などなどです。東側の警察も計画を察知し、計画を執拗に追跡します。関係者を逮捕したり、母親から子供を引き話すと脅したり、さまざまな手を使って計画を妨害しようとします。ここにも、職務に忠実で有能な「アイヒマン」(「映画でヒトラーを観て―ヒトラーの審判」参照)が存在していました。
 9か月かけてトンネルは完成し、29人が脱出しますが、壁は残りました。壁は、1989年に崩壊するまで28年間存続し、東側世界の非情さを象徴する存在であり続けましたが、その「非情さ」には西側が演出した部分もあったであろうと思います。この映画が制作されたのは、壁の崩壊から12年後ですので、まだ東側世界に対する偏見が強いのではないでしょうか。
 3時間近い長編でしたが、結構スリリングで、おもしろく観ることができました。また、アメリカのテレビ会社が、資金提供の見返りとして、トンネル堀の作業を途中から密着取材し、その映像は、1963年に放映され、大変評判になりました。この映画でも、一部で実写フィルムが使われていました。

 なお、冷戦により分裂したのはドイツだけではなく、朝鮮やヴェトナムも分裂し、朝鮮では今も分裂が続いています。


「善き人のためのソナタ」

2006年のドイツ制作の映画です。
舞台は1984年の東ベルリンで、この5年後にベルリンの壁は崩壊します。主人公は国家保安省(シュタージ)のヴィースラー大尉です。前のトンネルでは、便宜上警察と書きましたが、厳密には国家保安省で、ナチス時代のゲシュタポのようなものです。彼もまた、アイヒマンのように、命令を忠実に実行する有能な役人でした。ただ、アイヒマンにとっては、ナチスのイデオロギーにはあまのり関心がありませんでしたが、ヴィースラーは社会主義の大義を強く信じていました。
 彼は、反体制的な劇作家ドライマンの監視を命じられるのですが、ところがドライマンの恋人クリスタが大臣と不倫をしていることが判明します。それどころか、クリスタはドライマンの監視役でもあったのです。東ドイツの監視体制は徹底していて、シュタージュと契約した監視員が26万人以上いたとされます。東西ドイツの統一後、監視体制下での書類を閲覧できるようになり、その結果妻が夫の監視役であったなどということが次々と判明しました。
ヴィースラーは、大臣の不倫を上司に伝えますが、大臣を怒らせて出世の妨げになることを嫌い、不倫の件を伏せておくように命じられます。結局、社会主義の大義より、出世の方が大事だったわけです。この頃から、ヴィースラーは自分の仕事に疑問をもつようになります。彼は、ドライマンの部屋に盗聴器をしかけ、四六時中監視しますが、しだいに彼の言動や生き方に共感を覚えるようになり、彼の反体制的な行動を見逃すようになっていきます。さらに、ドライマンの反体制活動の証拠を、家宅捜索直前に持ち出して隠してやります。その結果、彼は閑職に移動させられ、4年半の歳月が流れたのち、ベルリンの壁が崩壊します。
2年後にドライマンは、自分の監視記録を閲覧し、自分を救ってくれたのが、自分を監視していた、合ったこともないヴィースラーという人物であることを知ります。そのヴィースラーは、郵便配達の仕事をして、細々と暮らしていました。ある時、書店のウインドーに張り出されていたドライマンの大きな写真が目に入り、彼の著書の宣伝が行われていました。そのタイトルは「善き人のためのソナタ」で、そこにはヴィースラーのことが書かれていました。彼は、自分がしたことを誰にも語らず、余生を細々と生きていくつもりだったのでしょうが、この本によって報われることになります。彼はエリート保安員であり、命令を忠実に実行する有能な人物でしたが、アイヒマン(「映画でヒトラーを観て―ヒトラーの審判」参照)とは異なり、人に共感する心をもった人物だったと言えるでしょう。
 この映画は、先に書いた「トンネル」が制作されてから5年後に制作されました。「トンネル」に比べれば、東ドイツの人々の心が、多少は理解されるようになっているようです。


グッバイ、レーニン!

2003年にドイツで制作された映画で、アレックスとその家族が、ベルリンの壁の崩壊と東西ドイツの統一をどの様に迎えたかを描いています。
アレックスの父は女と一緒に西ドイツに亡命し、それ以来母は虚脱状態となりますが、何か月か後に、社会活動に情熱を注ぎ込むようになり、やがて国から表彰されるまでになります。まさに母は、東ドイツの社会主義体制の鏡でした。でもそれは、東ドイツを捨てた父への当てつけのようにも見えました。1989年、アレックスはテレビ修理工場で働いており、107日にたまたま大した信念もなく反体制デモに参加していましたが、警官隊に襲われて検挙されてしまいます。そして、たまたま現場を通りかかった母が、彼が検挙される所を目撃し、ショックのあまり心臓発作を起こし、そのまま昏睡状態に陥ってしまいます。夫に捨てられた母にとって、東ドイツの体制のために働くことは自分の存在を証明することであり、息子が反体制デモに参加することは、自分の存在を否定することでした。アレックスにも、そのことはよく分かっていましたので、献身的な看護を続けます。
1110日にベルリンの壁は崩壊し、その後東ドイツ社会は激変します。西側の資本が押し寄せ、姉は経済学の勉強を止め、西側的な衣裳を着てハンバーガー・ショップで働き始めました。ところが、倒れてから8か月後に母は目覚めます。医者は、危険な状態なので、ショックを与えないようにと警告します。母にとって一番のショックは、社会主義体制の崩壊です。信じていたものが、すべて失われてしまうからです。それ以来、母に事実を知られないように、嘘で塗り固めた生活が始まります。それは滑稽とも見える有様でした。
そうした中で、ある時、母が子供たちに告白します。父が女と一緒に逃げたというのは噓で、実は二人は一緒に亡命する予定だったのですが、彼女が恐ろしくて亡命できなかったのだと。父から何度も手紙がきますが、彼女は無視し、その良心の呵責から逃れるように、彼女は一心不乱に働いたのでした。一方、アレックスが母に社会主義体制の存続を信じ込ませようとしたのは、アレックス自身が東ドイツを捨てられなかったからです。実は母は、東ドイツの崩壊を知っており、自分にそれを隠し通そうとする優しい子供たちに感謝しつつ死んでいきます。そしてアレックスもまた、新しい社会に順応していきます。
こうして、様々な人々が様々な思いで、「壁」の崩壊を迎えました。「トンネル」で脱出した人たちは、どのような思いで「壁」の崩壊を見つめていたのでしょうか。「善き人のためのソナタ」のヴィースラーは、淡々と見つめていたことでしょう。アレックスは、母を通じて東ドイツへの郷愁を感じていました。映画では、「壁」の崩壊前後の東ドイツの様々な変化が詳しく描き出されており、大変興味深く観ることができました。